治承三年のクーデターは清盛の暴挙か?

 独裁者、猛き者、横紙破り…。このような清盛のイメージを形作った事件の一つに治承三年のクーデターがあります。治承三年(1179年)十一月十四日、数千騎の軍勢を率いて福原から上洛した清盛は、太政大臣・藤原師長以下、公卿、殿上人、院の近臣三十九名を解官、関白・藤原基房を解任して配流に処し、後白河法皇を平安京の南郊にある鳥羽殿に幽閉しました。そして、娘婿である近衛基通を関白・内大臣に据え、大量解官によって欠員となった官職、知行国主や受領に、平家一門や親平家の貴族を任じました。
 武力を背景に恣意的な人事を行い朝政を壟断する。一見、平家による平家のための政治が始まったような印象を与えますが、人事を見ると必ずしもそうではありません。この時、解官された人の中には、清盛の弟の頼盛や娘婿の藤原兼雅も含まれています。これは、平家の縁戚ということ以上に、頼盛が院の近臣であり、兼雅の姉妹が基房の子・師房の母であることに起因していると考えられます。解官されたそのほかの人々を見ても、後白河の近臣や基房の縁者が多い。逆に、九条兼実のように親平家ではないけれども、それなりに見識をもった人は難を免れました。つまり、これは後白河・基房派の排除を目的とした人事であり、もっといえばクーデターそのものが二人への恨みから発したものなのです。
 これほどまでに清盛を怒らせた原因は何だったのでしょうか。そして、その理由は我々現代人にも納得できるものなのでしょうか。

後白河、摂関家領を接収

 清盛の怒りを知るには、クーデター前の政治情勢を見なければなりません。発端は五か月ほど前にさかのぼります。六月十七日、清盛の娘で前関白の藤原基実の未亡人である盛子が、亡夫と同じ二十四歳で早世しました。九歳で結婚、二年後に夫と死別して十一歳で未亡人となった薄幸の娘の死は、清盛の心を暗澹たるものにしたことでしょう。
 娘の死に加え清盛の神経を逆なでしたのが、盛子が管理していた摂関家領の処分問題でした。基実の死後、膨大な摂関家領は嫡子の基通(母は藤原忠隆の娘)が成長するまでの一時的措置として、北政所である盛子の管理下に置かれていました。その所領は、盛子の死後、遺領は盛子が准母となっていた高倉天皇の管理下に入ります。そこまでは天皇の舅である清盛の同意もあったと思われますが、所領を管理する倉預に任じられたのが後白河の近臣である藤原兼盛だったことが、事態を紛糾させました。天皇が管理するといっても名目であり、実質的には後白河の手に渡ったも同然だったからです。
 この措置について、背後で糸を引いていたのは法皇と基房だったといわれています。基房は摂関家領を我が子・師家に相続させるため、一時、院の管理下に置き、平家の関与を排除しようと企てたのです。ゆくゆくは娘婿の基通に相続させるつもりであった清盛にとって、この措置は到底受け入れられるものではありませんでした。

亡き重盛への冷淡な仕打ち

 そんな清盛を、さらなる悲劇が襲います。七月二十八日、隠退した清盛に代わって平家当主となっていた嫡子・重盛が病により四十二歳で永眠したのです。重盛は「イミジク心ウルワシク」と評された人物で、性格は冷静にして穏和、人望も厚く時に清盛への諫言も辞さない信念の人でもありました。
 しかし法皇は、清盛の悲しみを逆なでするかのように、重盛が十年以上知行国主を務めた越前国を没収して院の直轄地とし、近臣の藤原季能を越前守に任じたのです。その上、『平家物語』によると後白河は重盛の喪が明けないうちから石清水八幡宮へ遊びに行くありさまで、嘆きの色さえ見せなかったといいます。長年、後白河に忠実に仕えた重盛以下、小松家に対する裏切りであり、平家への明らかな挑発行為でした。さらに、この時の人事において八歳の師家が、二十歳の基通をさしおいて権中納言に任じられたことも清盛を激怒させました。明らかな平家への当てつけ、法皇と基房の提携を露骨に示した人事に清盛の怒りは頂点に達し、廟堂刷新のためのクーデーターに立ち上がったのです。

帝王らしからぬ後白河の振る舞い

 清盛の示威に戦慄した後白河は、ころりと態度を変えて、以後は政務に口を出さないことを約束しましたが、清盛は耳をかさず後白河を鳥羽殿へ幽閉しました。長年、後白河にとって清盛の存在は目の上のたんこぶでした。前太政大臣として政界に君臨し、王朝の武力を牛耳る清盛に、「治天の君」である後白河すら手出しができなかったのです。プライドを著しく損ねられた後白河が、平家を排除したいと考えたのはある意味自然な感情といえるでしょう。
 だからといって、誰の目にも明らかな偏頗な人事を行い、あえて臣下を挑発する後白河の態度は帝王にふさわしからぬものであり、その政治センスは、「和漢に比類なき暗主」と評した信西の言葉を裏付けるものといえます。後年、木曾義仲と対立した際も、無頼の徒を法住寺に集めて義仲を挑発し、三度目の幽閉の憂き目にあったことも同じです。これは、まさに「力関係を考えない無謀な攻撃性」(高橋昌明氏)であり、「帝王学なくして帝王となった後白河院の危うさと限界」(元木泰雄氏)を示しているといえるでしょう。

『平家物語』作者が見せた清盛への同情

 クーデターの要因が先の三点(摂関家領の接収、越前国の没収、師家の昇進)であったことは、当時の貴族の日記にも指摘されているところですが(『玉葉』『山槐記』など)、それに関連して『平家物語』に興味深い場面があります。
 「法印問答」の章段に、後白河の使者である静賢法印に、清盛が落涙しながら率兵上洛の理由を語るくだりがあります。ここには越前の没収、師家の昇進については記されているものの、摂関家領のことはなく、代わりに第一の理由として、先に挙げた後白河の石清水八幡宮への御遊の件が述べられているのです。「たとえ入道(清盛)の悲しみを哀れと思われなくても、どうして内府(重盛)の忠を忘れてしまったのでしょうか」と泣きがながら訴える清盛の言葉が、静賢には恐ろしくも哀れにも思われたと述べられています。
 ここで描かれた清盛は、猛き独裁者ではなく、亡き息子への愛執に我を忘れた老父の姿です。この部分を読んだ読者は、おそらく後白河よりも清盛に共感を寄せるでしょう。それは『平家物語』作者の意図するところでもあったと思われます。この場面には、静賢の言葉や心情に仮託して、『平家物語』作者が抱いた清盛への共感が表されていると考えてよいのではないでしょうか。後白河の無定見・無節操が清盛の暴発を招いたということは、清盛を独裁者として描く『平家物語』すら認めるところだったのです。

平家の存亡をかけた闘い

 石清水御幸があったのかどうか分かりませんが、清盛をクーデターに駆り立てた直接的な要因は、やはり重盛の死だったように思われます。『平家物語』も重盛に先立たれた清盛が「よろづ心ぼそ」く思い、福原へ下って屋敷にひきこもってしまったと述べています。
 おそらく清盛は、重盛を平家の行末を託すに足る器量の持ち主であると評価していたことでしょう。そして宗盛以下、後に続く息子たちに重盛ほどの器量がないことを見て取り、危機感を募らせたのではないでしょうか。その上で、次々と発せられる後白河の挑発に、清盛が「平家存亡の危機」を感じ取ったとしても不思議ではありません。そして、その不安はいつしか焦りに変わり、法皇の幽閉、翌年の福原遷都、南都焼き打ちへと突き進んでいったのではないでしょうか。
 確かに武力による報復や反対派の弾圧は許されるものではありません。清盛が行ったことは非難されてしかるべきですが、当時の清盛が置かれた政治状況にも目を配る必要があるのではないでしょうか。そして、何よりも息子に先立たれた老父の心の叫びに耳を傾けてほしいと思います。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 五味文彦著『人物叢書 平清盛』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)/ 河合康著『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)/ 高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)/ 元木泰雄著『平清盛の闘い』(角川書店)


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