盛子の死は大明神の咎?

 「異姓の身をもって藤氏の家を伝領、氏の明神これを悪(にく)み、つひにこの罰を致す」。治承三年(1179年)六月十七日、清盛の娘・盛子が若死にした時、世間ではこのように噂しあいました。平氏でありながら摂関家領を伝領したため、藤原氏の氏神である春日明神が憎み、盛子を若死にさせたというのです。この時、盛子は二十四歳。くしくも亡夫の藤原基実の享年と同じであったことも、噂の根拠の一つになったのでしょう。
 では、巷間の噂は的を射たものだったのでしょうか。九条兼実は盛子が死んだ際、前の噂があったことを記した後「大明神がそれを咎めたのであれば、なぜ十四年もの間、罰がなかったのか」と一蹴しています。大変合理的な見解ですが、ここで問題にしたいのは、大明神が咎めたかどうかではなく、盛子の摂関家伝領が藤原氏や春日明神の怒りにふれなければならないような悪行であったのかということです。

平家による「摂関家領押領」の経緯

 長寛二年(1164年)二月、鳥羽天皇の関白となって以来、三十八年に渡って政界に君臨した藤原忠通が六十八歳で逝去し、氏長者の地位と膨大な摂関家領は、当時二十二歳だった嫡子・基実に伝えられました。平盛子が基実の正室になったのは、その二か月後のことでした。
 当時盛子はわずか九歳であり、明らかな政略結婚でした。平治の乱から4年が過ぎ、朝廷の軍事力はほぼ平家によって独占され、総帥である清盛は従二位中納言に上っていました。五か月後には一門の繁栄を祈念して三十三巻の平家納経を厳島神社に奉納しており、まさに平家の権力が旭日昇天の勢いで高まりつつあった頃です。その平家の勢いを如実に示したのが、摂関家の嫡流である基実と盛子の結婚でした。四年前まで公卿すら輩出したことのなかった平家が、時の関白を婿に迎えるのですから、清盛もさぞや感慨に絶えなかったことと思います。
 清盛にとっては、全国に点在する膨大な摂関家領も魅力でした。清盛は、摂関家との提携を進める中で、親平家の貴族や武士を預所(本所である荘園領主に変わって荘務を代行する荘官)に任命したり、在地領主の一部を地頭職や下司職に任じたりして在地支配にあたらせました。それによって、摂関家の本所権を形骸化し、中間搾取を増大させて富を蓄積したといわれています。
 ところが永万二年(1166年)、藤原基実が突如二十四歳の若さで逝去し、盛子はわずか十一歳にして未亡人となってしまったのです。清盛の落胆は激しく「コハイカニ」というばかりであったと『愚管抄』は伝えています。代わりに、弟の基房が六条天皇の摂政に就任しましたが、ここで問題となったのが摂関家領の伝領でした。
 このとき平家のために奔走したのが、後に清盛の盟友となる藤原邦綱でした。摂関家の家司だったことから、同家の内情に通じていた邦綱は、摂関家領のうち基房には摂関の地位に付属する一部の荘園(殿下渡領)のみを相続させ、そのほかのほとんどの所領を未亡人である盛子の管理下に置くよう献策したのです。喜んだ清盛はこれを実行に移し、摂関家の政所に次々と一門や家人を送り込んで、盛子を介して摂関家の家産機構を掌握。邦綱は、夫の死後、白川押小路の新宅に移り「白川殿」と呼ばれるようになった盛子の後見におさまったのでした。

盛子の摂関家領伝領は不法か?

 以上が平家による「摂関家領押領事件」のあらましですが、果たしてこれが「押領」といえるものなのでしょうか。まず「押領」の意味ですが、これは「他人が正当な権利に基づいて知行している所領・諸職などを、実力で侵害し奪うこと」とあります(コトバンク)。明らかな不正行為であり、為政者が行った場合、この上なく破廉恥な行為として指弾されるべき行為といえます。
 しかし盛子への伝領は、基実の嫡子である七歳の基通(母は藤原忠隆の娘)が成人するまでの一時的な措置であり、これより百年後の近衛家所領目録にも、その旨が明記されていることから、摂関家の合意の下に行われたことは明らかです。そもそも北政所が遺領を分割相続するのは摂関家においても特段異例なことではありませんでした。たまたま盛子が「異姓」であったというだけのことです。
 ちなみに、このとき盛子が相続したのは、摂関家領だけではなく、代々の日記や大嘗会に用いられる唐錦、皇后・中宮の行啓に使用される糸毛車など摂関家の家産、忠通や基実など摂関家嫡流の仏事の執行権も含まれていました。盛子は、基通が成人するまでの中継ぎとして、摂関家の家を預かる立場にあったのであり、必ずしも摂関家領の支配だけが清盛の目的ではなかったのです。
 もう一つ興味深いのは、この措置に対して、時の治天の君である後白河上皇も支持していたということです。聡明で親政志向の強い二条天皇に手を焼いた後白河は、その子・六条天皇が即位した後も、親政を支えた摂関家の弱体化を目論んでおり、摂関家領は清盛の支配に属すべしという院宣さえ下されたのでした。いわゆる平家による「摂関家領押領」は、「お上公認」のもとに行われたものであり、一般にイメージされるように武力を背景に半ば奪い取ったようなものではなかったのです。

摂関家こそ平家の武力を求めた

 そもそも摂関家と平家の縁組は、平家にのみ有益であったわけではありません。むしろ、摂関家の方にこそ荘園に対する平家の関与を必要とする事情があったのです。その理由は、これより十年前の保元の乱にさかのぼります。この乱において、崇徳上皇と結んだ藤原頼長(忠通の弟)が軍事力として頼んだのが、源為義(義朝の父)や平忠正(清盛の叔父)ら京や畿内を拠点とする源平の武者、摂関家領荘園の預所を通じて招集される軍兵、および興福寺の僧兵でした。
 二番目に挙げた荘園の軍兵とは、摂関家が荘園を守るために組織した在地武士のことです。院政期になり在地領主による勢力争いが激化する中で、権門勢家は安定した荘園支配を実現するために、在地武士を組織して荘園の下司などに任命し現地支配にあたらせました。摂関家でも、多くの在地武士と私的な主従関係を結んで現地支配のかなめとするとともに、中央政界においての政治権力を支える武力的根拠としたのです。
 この状況を一変させたのが保元の乱でした。乱後、謀反人となった忠実・頼長父子が有する膨大な摂関家領は、改めて氏長者に就任した忠通が一手に引きうけることになりました。それにより没官という最悪の事態は免れたものの、為義や忠正ら頼長方の在京武者は壊滅、摂関家領荘園の多くは忠通の所有になる前に、いったん国司の権限で沙汰が停止され、この間、預所を通じて武力を動員する体制は解体されました。つまり、保元の乱の結果、摂関家の荘園支配のための武力は壊滅状態に陥り、強力な武力集団に頼らざるを得ない状況が生まれたのです。そこで、摂関家が荘園を守る武力として頼んだのが平家でした。
 早くも平治元年(1159年)には、平家の武将平信兼が摂関家領の預所として姿を現しており、基実と盛子の婚姻以前から、平家と摂関家の提携が進んでいたことが分かります。また、基実の死から二か月後の安元元年(1166年)には、預所による支配の途絶えた三河国志貴荘に、平時子の叔父・信範を預所として補任し、荘園支配の強化を図っています。
 つまり、盛子と基実の縁組の背景には、保元の乱後、崩壊した荘園支配のための武力を平家との提携によって補い、支配体制の強化・再編を行わねばならないという摂関家側の課題が横たわっており、「摂関家領押領」といわれる事態も、この延長線上にあったといえるのです。実際、清盛は預所や政所の支配機構を抑えることで摂関家領の実権を掌握しましたが、自らが荘園領主になることはありませんでした。これは、基実の死後も治承三年のクーデター後も変わることはなかったのです。  


●参考文献
田中文英著『平氏政権の研究』(思文閣出版)/ 高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)/ 河合康著『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)


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