清盛の国政関与の諸段階を考察

 平清盛の数多い業績の中で、もっとも輝かしく画期的な事柄といえば、なんといっても日本史上初めての武家政権を樹立したことでしょう。しかし、「平家政権とは何なら?」という問いに答えるのは、実は簡単ではないのです。
 こういう原稿を書く場合、平氏政権の成立時期や政治構造について明確にする方法が正攻法でしょう。しかし、「平家政権」の成立自体を否定する研究者はほとんどいないものの、政権の位置づけについては一様でないのが現状であり、一律に「平家政権とはこれこれこうで…」と言いきってしまうことができません。そこで、二番目の方法として考えられるのが、平家政権に関するこれまでの研究を総括して、最大公約数的に結論付けるという手法ですが、これも私の勉強不足と力量不足のため、まとめる自信がありません。
 そこで本稿では、清盛がどのように国政に関与していったのか、その過程を段階的に整理することで、清盛の権力の源泉とその掌握の過程を明らかにしていきたいと思います。

第一段階~太政大臣就任

 清盛の国政への関与は、平治の乱により平家が唯一の軍事権門となった直後の永暦二年(1161年)に早くも見られます。四月の除目において、清盛が伝奏として公卿の希望を二条天皇に取り次ぐ役を務めています。ただし、ここでは単なる取り次ぎ役であり、人事の決定に関与したわけではありません。
 続いて同年九月には二条天皇が蔵人頭の藤原忠親に、五節の沙汰を負担する人物を清盛と相談して決めるよう命令しています。そして翌応保二年(1162年)三月には、流罪となっていた藤原経宗の召喚について、二条天皇の意向が後白河上皇、清盛、藤原忠通の順に伝えられました。この頃、二条にとって天皇親政派で外戚でもある経宗の召喚は焦眉の急でした。当時、清盛は正三位・中納言でしたが、国事犯の赦免という重大事について、摂関家の大殿である忠通よりも前に連絡されているところに、朝廷内における清盛のプレゼンスが大きく向上していることがうかがわれます。
 その後も、清盛は平家の武力によって二条天皇の内裏を守る内裏大番役を創設、長寛二年(1164年)には、関白・藤原基実に娘の盛子を嫁がせて摂関家の家産機構に大きく食い込むなど、中央政界において着々と地歩を固めました。そして、大納言、内大臣と進み、左右大臣を飛ばして仁安二年(1167年)、人臣で最高の官職である太政大臣に登りつめます。

「前大相国」の権威

 一般的に、清盛が太政大臣となり位人臣を極めた時点で、平家政権が成立したと考えている方も少なくないでしょう。しかし、太政大臣は単なる名誉職で官職としての実態はほとんどなく、同職への就任により朝廷の実権を掌握することは不可能です。これをもって平家政権の成立とはいえません。清盛自身もそのことは十分心得ており、わずか三か月で同職を辞職しています。ただ、位人臣を極めたことの意義が決して小さくなかったことは、これ以後、清盛の国政関与の度合いが格段に大きくなることからもうかがえます。
 前述のとおり、平治の乱後、国政の重要事項は二条天皇と後白河上皇、および藤原忠通による三者合議によって決定されていました。太政大臣辞任後、清盛は「前大相国」の立場からこの合議に加わるようになります。といっても、この時二条天皇、関白基実はすでに亡くなっており、後白河院政のもと、基実の弟基房が関白になっていました。清盛は後白河と基房の合議に参加する形で、国政に大きな影響力を及ぼすようになったのです。
 太政大臣辞任の二日後の仁安二年五月十九日には、早くも頭弁の平信範が院の使者として基房、清盛の邸宅を訪れ、叙位・除目について相談しています。八月には同じく平信範が後白河、清盛、基房の邸を順次訪問し、五節舞姫の担当者を決める合議を行い、十二月には叙位・除目について清盛が後白河の諮問を受けています。清盛は平家の実質的な総帥として(太政大臣辞任に伴い重盛に家督を委譲していた)、また前大相国として、そして亡き基実に代わって摂関家領を伝領した盛子の後見として、時の関白に匹敵する権力をもつに至ったのです。

第二段階~福原引退後

 関白に勝るとも劣らない実力者となった清盛ですが、間もなくその権力の質に変化が起こります。仁安三年(1168年)二月、突然重病を患った清盛は天台座主明雲を受戒役として出家します。時に清盛五十一歳。そして、翌年六波羅の泉殿を家督の重盛に譲り、自らは福原の山荘で隠棲生活に入りました。
 これによって、清盛が直接国政に関与する機会は減りましたが、政界への影響力が衰えることはありませんでした。嘉応元年(1169年)十二月、延暦寺の大衆が尾張の知行国主である藤原成親の流罪を要求して強訴を起こしました。後白河が成親をかばおうとするあまり事態が紛糾していることを憂慮した清盛は、頼盛と重盛を福原に呼び寄せ対策を相談したうえ、翌年一月十七日、自ら上洛し、延暦寺の訴え通り成親の解官を実現させました。大衆の強訴に対して後白河が下した出動命令を重盛が数度にわたって無視し続けたのも、清盛の意向によるものといわれています。
 嘉応二年(1170年)、摂政・藤原基房と重盛の次男・資盛の家来がいさかいを起こし、怒った重盛が参内途中の基房へ報復を加えたときも、清盛は福原に後白河院の使者を迎えて、おそらく事件の処理について話し合ったと思われます。基房の参内の目的が高倉天皇の元服定という儀式の当日であり、しかも襲撃により儀式が延期されたことは国政上の重大事であり、善後策が政界一の実力者である清盛の判断にゆだねられたのでしょう。
 盛子の後見として摂関家の家政について判断を求められることも少なくありませんでした。承安四年(1174年)八月、清盛の婿である近衛基通の三位中将拝賀の件で指示を出し、安元三年(1177年)六月には慈円(九条兼実の弟)の法性寺座主への就任に関して相談を受けています。これらの件は、当時の清盛が忠通や基実に代わって摂関家の大殿として意識されていたことを示しており、王朝一の権門である摂関家をも掌握していた様子がうかがわれます。

福原常住が清盛の存在感を高める

 この時期の清盛による国政関与の極めつけは、何といっても「鹿ケ谷事件」でしょう。安元三年(1177年)四月、延暦寺の大衆が、加賀守の藤原師高の流罪を要求して強訴を起こしました。後白河は師高の解官と配流を受け入れる一方、延暦寺に強硬な態度で臨み、公卿の慎重意見を一蹴して天台座主・明雲の流罪を決定。大衆が実力で明雲を奪還する騒ぎに発展しました。怒った後白河は左大将・平重盛、右大将・平宗盛に比叡山への出撃を命じますが、2人は清盛の意向に従うといって動きませんでした。後白河は福原に使者を送り、五月二十八日、ようやく上洛した清盛に比叡山への攻撃を命じます。
 清盛がしぶしぶこれを了承し、平家による比叡山攻撃が敢行されると思われたとき事態は急転します。翌日、師高の父の西光法師をはじめ、藤原成親、平判官康頼、法勝寺執行の俊寛僧都など、院の近臣が次々と捕えられ、配流、死罪に処されたのです。『平家物語』やその他の史料では西光や成親たちが「平家打倒の謀議」をこらしたためといわれていますが、真相は比叡山攻撃や明雲配流に反対する世論を背景として、清盛が断行した廟堂刷新のための政変であった可能性が高いといわれています。



 嘉応・安元の強訴への対応をみると、後白河の意志に反して、清盛が独自の判断で平家一門を操り、事態の解決を図っている様子がうかがわれます。すでに清盛の実力が、治天の君である後白河の意志さえ挫くほどに高まっていたことを示しているといえるでしょう。
 清盛は有事の際にたびたび上洛して重要な決断を下しましたが、都から離れた福原に常住していることの効用も見逃せません。嘉応・安元の両強訴に見られたように、有事の際、平家の公卿は清盛の指示がないことを理由に時間稼ぎをしたり、後白河の要求を拒んだりすることができました。また、清盛自身はめったに姿を現さないことで、かえってその重みや存在感が高まる効果も意識ありました。そして、いよいよ清盛が上洛してくると、利害関係者に「これ懸案が解決する」という期待感を抱かせ、それがさらに清盛のカリスマ性を向上させるのです。伝統的な王権の所在地である京から距離を置くことで権威と発言力を高め、国政への影響力を保つことができたのです。

第三段階~治承三年のクーデター

 清盛の国政掌握の過程で、最大の節目となったのは「治承三年のクーデター」でした。亡き重盛の知行国の没収、盛子死後の摂関家領の差し押さえなど、後白河による数々の挑発に怒った清盛は、数千騎の軍兵を率いて福原から上洛、法皇の幽閉と関白基房の流罪、四十名近い公卿や受領、院の近臣の解官を断行しました。清盛が実力で治天の君の執政を停止し、平家の意向を直接国政に反映させるきっかけになった事件で、これをもって「平家政権の成立」ととらえる史家は多いようです。
 後白河の幽閉により院政は停止され、国政は高倉天皇と関白・近衛基通との合議、および九条兼実ら有力公卿への諮問で行われることなります。そして、翌治承四年(1180年)二月、高倉天皇が譲位し、外孫の安徳が天皇、義理の甥である高倉が上皇、娘婿の基通が摂政となり、自らの縁戚で王権中枢を固める体制を確立し、清盛の権勢は頂点に達するのです。
 これまで、清盛が安徳の即位を望んだのは、摂関家にならって天皇の外戚となって権力を掌握するためであり、それが平家政権の体質の古さを証する根拠とされてきました。しかし、院政がはじまって百年近くを経た当時、すでに天皇の外戚であることが政権につながらないことは清盛自身熟知していたはずです。清盛が目指したのは高倉院政を後見することによる政権の掌握であり、それを支える要素として天皇の外戚という権威と平家の強大な武力があったのです。これは過去の政権にはない新しい政権掌握の形でした。

「内議」による政権掌握

 高倉親政・院政に平家の意向を反映させる上で、大きな力となったのが有職故実に通じた親平家派公卿の存在でした。平家は家格の上昇に伴い、重盛や宗盛、頼盛など次々と公卿が輩出しましたが、国政の重要事項を審議する院評定や公卿議定に参加することはありませんでした。これらの議定に参加するには、朝廷の先例に通じ儀式や行事を取り仕切るためのノウハウを有していなければなりません。しかし、武力を背景に急速に官位を上昇させた平家にはそれがなかったため、公卿議定に出席して直接意見を述べることができなかったのです。そこで、議定に参加する資格をもった公卿に平家の意見を代弁してもらう方法が取られたのでした。
 それを具体的な形として示したのが、平家一門と親平家派公卿による「内議」です。公式の公卿議定に先立ち、平家与党の公卿たちが国政の重要事項を決定・共有するための内々の評定です。たとえば、治承三年十二月、言仁親王(安徳)の着袴・魚味の儀や高倉天皇の譲位、安徳の即位などの国政上の重要事項が、清盛と高倉天皇、義弟の平時忠によって内々に決定されました。
 治承四年(1180年)五月の以仁王の乱に加担した謀反人の制裁措置も内議によって決定されました。27日、平宗盛、平時忠、藤原隆季(清盛の娘婿である藤原隆房の父)、清盛の盟友である藤原邦綱により内議が開かれ、興福寺への武力攻撃と末寺荘園の没収という制裁措置が取り決められました。この決定に、前日入洛した清盛の意向が反映されていることはいうまでもありません。
 実際の公卿僉議では、慎重論を唱える九条兼実や藤原実宗に対し、内議参加者である隆季や親平家派の源通親らが強硬論を主張する展開となりました。「追討の前に宣旨か院宣で興福寺に事情を尋ねるべきである」という兼実に対して、隆季は「道路はふさがれていて行けないし、行けたとしても興福寺の衆徒は従わないだろう。一刻も早く追討すべきである」と食い下がる。しかし、最後は左大臣・藤原経宗の裁量により兼実の主張が採用され、結果が高倉上皇に奏上されました。このとき内議の決定が覆されたのは、議定の途中で以仁王敗死の報がもたらされたからであり、それがなければ内議の決定通り南都攻撃は強行されたと考えられます(実際の攻撃は年末に平重衡によって行われています)。

宗盛への権力委譲を図るも…

 治承三年のクーデターによって国政を掌握した後、国政の重要事項はことごとく清盛の意志を反映するものとなりました。以仁王の乱への対応、福原遷都、関東への派兵(富士川の戦い)、南都焼き打ち…。清盛が反対し続けた福原からの還都でさえ、最終的には清盛の意向により決定しているのです(もちろん内心は反対でしたが)。
 死期の迫った清盛が最後に望んだことも、長年の政治闘争の中で得た権力を滞りなく後継者の宗盛に伝えることでした。治承五年(1181年)閏二月四日朝、清盛は後白河に、自分の死後は万事を宗盛に仰せつけ、両者で仰せ合わせて行うよう申し入れましたが、その返答は清盛の満足のいくものではありませんでした。いらだった清盛は、重ねて「天下のことはひとえに宗盛が計らうようにしたので異論はございますまい」と伝えたといいます(そのように後白河が清盛に言い直したとする説もある)。しかし、お人よしの宗盛が海千山千の後白河を抑えきれるはずもなく、やがて足元をすくわれて「朝敵」の汚名を着せられ、西海へと落ちていくことになるのです。

まとめ~平家政権の意義1

 以上、清盛個人の国政掌握の過程に絞って考察してきました。しかし本来、平家政権の意義を明らかにするためには、知行国支配の実態や荘園の掌握、内裏大番役の創設、地頭の設置と在地武士の組織化、福原遷都構想、政権末期の畿内における軍事動員体制の確立など、整理しなければならない課題が山ほどあります。スペースの関係と筆者の力量不足により、そこまでフォローすることはできませんが、最後に研究者諸氏の清盛個人および平家政権への評価を紹介し、政権の歴史的意義を明らかにしたと思います。
 『人物叢書 平清盛』の著者である五味文彦氏は、「常に政治的な脱皮を繰り返しながら、武家の地位を高めていったのが清盛だった」と述べています。若い頃は父忠盛、平治の乱後は信西、二条天皇の死後は藤原忠実、治承のクーデター後は白河院というように。そして、東国に幕府を開いた源頼朝が常に平家に前例を求め、南北朝統一を果たした足利義満も清盛にならって朝廷の権力を握ろうとしたように、後世の武人政治家の多くが清盛を範にしたと指摘し、「実力で政権を奪う時代としての中世を切り拓いた人物」と結論付けています。
 『平清盛の闘い』の元木泰雄氏は、東国に政権を樹立した頼朝と対照的に、「清盛は貴族社会の真っただ中にあって、院政の否定、天皇擁立、遷都といった王権の本質に果敢に取り組み、さらに貴族政権の大きな改革に立ち向かっていった」と評価し、清盛の突然の死がなければ「公武一体化した、全く形態を異にする中世国家さえ想像できる」と述べています。その上で、政権の構造について「王権そのものに挑み、畿内の権門分裂を克服しようとした面において、平氏政権は鎌倉幕府に比してはるかに先進的だった」と高い評価を与えています。

まとめ~平家政権の意義2

 『平清盛 福原の夢』の高橋昌明氏は、平家政権と鎌倉幕府の共通性をあげて清盛の先進性を強調しています。「福原以上に都から離れた鎌倉に幕府を開設し、清盛以上に上京を禁欲し、親平家公卿を使う手法から一歩進んで王朝側に議奏公卿制を押しつけ、そうして六波羅を鎌倉権力の京都での拠点として再編成した」。そして、清盛引退後の平家の体制を、六波羅で国家の軍事警察部門を担う重盛以下が陣どり、閑院内裏に大番として駆り出された諸国の平家御家人が集まり、一門の公卿・殿上人は多数の知行国、荘園の領有で富を蓄積し、親平家の公卿を使って平家の意向を国政に反映させる。そして一門の司令塔である清盛が福原にあって摂津・播磨を抑える体制を「京都と福原の二拠点を基礎に半独立的に構築された、院権力を相対化しうる権門勢力」と位置づけ「六波羅幕府」という刺激的な名を冠しています。
 『平氏政権の研究』の田中文英氏は、治承三年のクーデターの結果、平家の権力は「軍事的権門から国政全般を担当・掌握する最強の権門へと転換を遂げ、ここに平氏政権が成立した」と評価。そして、政権の正統化を図るため高倉親政・院政を推戴して国政を領導する体制を構築したものの、その政権構造は新しい機構や制度を創設したものではなく、従来の権力機構の存続を前提としていると指摘しています。しかし、氏はそのことが「既存の国家権力に埋没した古代的ないし貴族的な政権として成立したことを意味するのではない」と強調します。太政官機構や国衙支配機構、院・摂関家の家政支配機構に、一族・家人らを積極的に配置・進出させることで権力基盤を拡大した平家は、そのような権力組織をもたない院や摂関家とは「政治的・階級的性格を異にする」と述べ、政権の掌握形態がいかに古代的・貴族的に見えようと、それを支配する権力の実質は「中世的な武家政権になっている」と結論付けています。
 このように近年の中世史研究は、平家政権を初の武家政権として積極的に評価しており、清盛を中世を切り拓いたエポックメーカーとしてとらえています。できるだけ多くの人々がこうした研究成果に触れることで、ゆがめられた清盛イメージを改め、偉大なる業績を正しく理解していただくことを願ってやみません。


●参考文献
高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 元木泰雄著『平清盛の闘い』(角川書店)/ 河合康著『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)/ 田中文英著『平氏政権の研究』(思文閣出版)/ 村井康彦著『平家物語の世界』(徳間書店)/ 美川圭著『院政』(中公新書)


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