平家と日宋貿易

 「揚州の金(こがね)・荊州の珠(たま)・呉郡(ごきん)の綾・蜀江(しょっこう)の錦、七珍万宝一つとして闕(かけ)たることなし」。『平家物語』は巻一の「吾身栄花」で、このように中国産の貴重品を列挙して平家の財力を説明しています。これらはいずれも日宋貿易によって得た物品であると考えられています。宋との貿易は知行国、荘園からの収入とともに平家の栄華を支える重要な経済基盤でした。
 平家の対外貿易は、清盛の父・忠盛の時代にさかのぼります。長承二年(1133年)、鳥羽院の所領である肥前国神崎荘の預所だった忠盛は、下文を偽造して鳥羽上皇の院宣であると主張し、日宋貿易を管轄する大宰府の介入を拒否したことが知られています。おそらく、自ら貿易に関与するため神崎荘の預所への補任を希望し、院の権威を背景として宋との貿易を独占しようとしたのでしょう。
 忠盛の子の代になると、日宋貿易はさらに活発かつ大規模に展開されるようになります。保元三年(1158年)から約三年間、清盛は大宰府の実質的な長官である太宰大弐に就任、仁安元年(1166年)には弟の頼盛が同職に任じられました。当時、太宰大弐は任地に下向しないのが常でしたが、頼盛はその慣例を破って大宰府に赴き、貿易を自身の直接管理下に置こうとしたほどでした。清盛のみならず、平家一門にとっても貿易がもたらす利益は大きな魅力だったのです。

経の島の築港と瀬戸内航路の整備

 一門をあげて貿易に取り組んだ平家でしたが、破格のスケールで大々的に推し進めたのは、何といっても清盛でした。仁安三年(1168年)、出家して福原に隠退した清盛は、ここで日宋貿易を行うべく、承安三年(1173)、古来からの良港として知られる大輪田泊の大改修に着手します。
 この築港にかけた清盛の熱意は相当なものでした。『平家物語』によると何度石を積み上げて築いても、毎年の風波で崩れてしまう。公卿の中には人柱(生贄として人を生き埋めにして工事の成功を祈ること)を埋めようという者もいましたが、清盛は「それは罪業である」といって退け、代わりにお経を書いた石を船に積み、船ごと沈める方法で完成させたと述べられています(延慶本)。港の完成は二年後の安元元年(1175年)で、港は「経の島」と呼ばれました。
 その後もメンテナンスは継続的に行われ、治承四年(1180年)には朝廷に解状を提出し、「これまで諸国の嘆きを救うため、人々の脅威を取り除くため、私力を励まし新島を築いてきましたが、完全ではないので朝廷の援助を受けたい」と太政官に申請して受理されています。「私力を励まし」、つまり私財を投じて難工事を行ってきたのであり、清盛の熱意がいかに大きかったのかということがうかがわれます。
 一方、瀬戸内航路の整備も兵庫の築港と連動して進められました。備前国牛窓や備後国鞆・尾道などの良港が平家領となり整備されました。その代表が「音戸の瀬戸」の開削です。広島県の呉と倉橋島を隔てる九十メートルほどの海峡で、竣工まで十か月を要した難工事でした。しかも、当地の伝承によると工事が大詰めを迎えた日、清盛は沈みゆく夕日を扇で呼び返し、その日のうちに完成にこぎつけたといわれています。あまりにも破天荒な話ですが、太陽を呼び返したいほど早く工事を進めたかった清盛の情熱をよく伝えています。こうした伝承が残されたのは、天も清盛に味方するほど意義のある工事であったということを、地元の人々も熟知していたからではないでしょうか。海上交通の円滑化を図ってくれた清盛に対する感謝の念が、このような神話にも似た伝説となって、今なお語り継がれているのです。

単なる私利私欲ではない

 これらの工事は、宋船を自身の膝元である兵庫まで招き入れ、大宰府の干渉を排除して大々的に貿易をおこなおうという意図があったことは明らかですが、必ずしも私利私欲のためだけではありませんでした。清盛自身、瀬戸内を航行するすべての船舶にとって意義のある事業であることを意識していたことは、先にあげた解状をみても明らかです。「結果的に」ではなく「意図したこと」として、航路の円滑化と安全を保証することが、事業の大きな目的となっていたのです。経の島の築港について、あの『平家物語』が「上下往来の船のわづらひなきこそ目出けれ」と珍しく清盛の業績を褒めたたえているのも、瀬戸内航路の整備の重要性や意義をよく示しています。
 また、瀬戸内航路の整備と兵庫における日宋貿易の展開は、沿岸諸国の在地領主にも多くのメリットをもたらしました。航路の整備に取り掛かったのと同じ頃、清盛は瀬戸内海沿岸地域で獲得した荘園に、積極的に船津(船着き場)や倉敷(年貢などを輸送する際の中継地)を設置しました。当時、九州から瀬戸内海沿岸地域の在地領主には、運輸や商業、漁業などの経済活動に従事する者が少なくありませんでした。これらの倉敷は単なる倉庫ではなく、彼らの流通活動の拠点にもなっていたといわれており、清盛の積極的な貿易政策は、地域の武士の流通経済活動に道を開くうえでも意義がったといわれています。
 そしてそれが、ひいては在地武士を平家の家人として組織していくうえで機能したことも付記しておかなければなりません。清盛による瀬戸内航路の整備は、貿易の富のみならず、西国における在地領主への支配力強化というねらいもあったのです。

宋銭の流入による経済の活発化

 日宋貿易によって輸入された文物は宮廷や一般社会に少なからぬ影響を与えました。では、具体的にどのようなものが取引されたのでしょうか。
 日本からの輸出品は、砂金や真珠、硫黄、杉や松などの木材、工芸品や武具などでした。当時、女真族が建てた金国の圧迫を受けて、国内の主要な金の産出地であった東北部を押さえられていた南宋にとって、日本は金の重要な調達先だったのです。また、当時の宋は産業の発展により森林の伐採が進み、木材の確保も重要な課題になっていました。硫黄は火薬の原料として北方の金国や西方の西夏といった強国との実戦に使用されたと考えられています。これだけでも、清盛によって推進された貿易が世界史的な視野の中で、欠かすことのできない大きな役割を演じていたことが分かると思います。
 一方、宋からは冒頭に掲げた「揚州の金~」や、羊や麝鹿(じゃこうじか)など珍奇な物品や動物が輸入されましたが、もっとも人々の生活に大きな影響を与えたのが大量の宋銭でした。日本では古代に「皇朝十二銭」と呼ばれる各種銅銭が発行されましたが、実際にはほとんど流通することはなく、国内の交易はもっぱら現物交換で行われていました。宋銭の流入は、日本において貨幣を媒介とする経済活動を一般化させる契機となり、日宋貿易によってもたらされた宋銭は、十五世紀に永楽銭が普及するまで、日本国内はおろか、東アジア、東南アジア全域で使用され続けるのです。
 日本国内の交易に外国の通貨が使われるということに違和感を感じる方もおられるかもしれませんが、現在も経済の不安定な国では自国通貨よりもドルの方が信用度が高いことは珍しくありません。清盛による日宋貿易は従来の経済活動を転換させ、日本が広大な東アジアの貿易圏に組み込まれていく先駆けになったと評価できるのではないでしょうか。治承三年(1179年)六月に流行したお多福風邪らしき疫病が「銭の病」(『百練抄』)と呼ばれたのも、貨幣経済の浸透の大きさを物語るものなのかもしれません(宋銭流入によるインフレとの説もある)。

『太平御覧』を献上

 日宋貿易は学問の振興にも大きな影響をもたらしました。治承三年(1179年)十一月のクーデターから一か月後、清盛のいた西八条邸に言仁親王(安徳天皇)が行啓しました。満1歳1か月の言仁が、清盛の真似をして指で障子に穴をあけたのを見て、清盛が感涙にむせんだ逸話はよく知られています。この時、清盛は宋からもたらされた『太平御覧』という書物を言仁に献上しています。
 『太平御覧』は、宋の太宗の命により編纂された一千巻におよぶ一大百科事典で、宋朝が誇りとして輸出を禁じたもので、宋の冊封体制下にあった高麗の王朝でさえ、これを入手するのに相当苦労したという貴重な書物でした。これが、清盛によって初めて日本に輸入され、三百巻ほどが言仁に献呈されたのです。後朱雀天皇の東宮時代に外祖父の藤原道長が『文選』を献上したのに習ったものといわれていますが、清盛のそれは単なる模倣ではありません。東アジア諸国との貿易を基盤とする親王朝の創設、その王朝を担う未来の天皇にふさわしい教養や権威を身につけてほしいという期待が込められたものと考えられています。
 日宋貿易は清盛の国際性、先進性、博識ぶり、政権構想のスケールの大きさをあますことなく示した一世一代の事業であり、政治家・清盛の偉大さを象徴する「歴史的事件」だったのです。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 五味文彦著『体系日本の歴史5 鎌倉と京』(小学館ライブラリー)/ 『歴史群像シリーズ36 平清盛』(吉川弘文館)/ 田中文英著『平氏政権の研究』(思文閣出版)/ 高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)/ 元木泰雄著『平清盛の闘い』(角川書店)/ 小島毅著『義経の東アジア』(トランスビュー)


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