「奢れる人」こそ魅力的

 平家物語は、冒頭の「祇園精舎」から「灌頂巻」まで、一貫して平清盛を史上稀にみる悪人として描いています。「平家」作者によれば、その悪人ぶりは唐の安禄山や日本の平将門以上であり、作者をして「心も詞も及ばれね」と言わしめるほどです。その方針は徹底していて、時には「殿下乗合事件」のように事実を歪曲することも辞しません。これでは、清盛も浮かばれないでしょう。
 平家物語は冒頭において「奢れる人」「たけき者」を亡ずべき人として断じていますが、そうした「奢れる人」「たけき者」は、その個性の強さによって、かえって魅力的に描かれていることも少なくありません。例えば、木曽義仲は、田舎者として嘲笑の的になりながらも、その素朴さが読者の心を捉え、「木曽最期」において読者の一層の共感を得ることに成功しています。また、鹿ヶ谷事件によって鬼界ヶ島に流された俊寛僧都も、「不信心」であることを非難されながら、「足摺」の章段においては最高の見せ場を演出しています。
 それに比べると、聖人君子のように描かれたはずの平重盛は、作者の意図に反して、読者の心を掴むまでの魅力を発していません。説教臭く、行動や思想が観念的で、人間性が完成されすぎているために、かえって人間味が感じられないのです。やはり、破天荒であっても、自ら行動するヴァイタリティを持った人物が、読者の心を掴むし、また、そういう人物の方が無意識的に作者の心をも捉え、人物造形に熱を入れさせてしまうのでしょう。
 清盛にしても同様のことが言えます。以下、平家物語がその意図に反して表出せしめた清盛の人間味、魅力が表れている部分をご紹介しましょう。

巻二「教訓状」

 これは、鹿ヶ谷の陰謀に怒った清盛が、陰謀の首謀者・後白河法皇を幽閉しようと兵を揃え、自らも合戦用の腹巻を着込んで待機しているところ、重盛が諭しにくるという場面です。厳戒態勢のような物々しい西八条の邸宅に、重盛は普段どおりの烏帽子と直衣姿で悠々と登場、座敷において清盛と対座します。最初に重盛がやってくるのを見た時は、心にやましさを感じて節目がちになりながらも「例によって重盛が世間を小馬鹿にするようにふるまうことよ。大いに訓戒してやろう」と思った清盛でしたが、嫡子重盛の逍遙としたたたずまいに圧倒されてしまいます。甲冑を着込んでいることすら恥ずかしく思われ、慌てて腹巻の上から法衣をまとい、腹巻の胸板にある装飾を隠そう隠そうとさかんに衿を正しますが、どうしても見えてしまうのです。
 鹿ヶ谷の陰謀が発覚した時点で、清盛が法皇を幽閉する意図があったかどうかは定かではありませんが、少なくとも軍兵を整えるという表だった行動は起こしていません。忠臣・重盛の諫言が清盛の暴発を未然に防いだ、という図式が成立しているわけです。法体の身でありながら甲冑なんぞを着込み、あまつさえ法皇に刃を向けようとするとは何たること、という清盛に対する非難の念が、この「衿を正す」描写に込められていると言えるでしょう。しかし、太政大臣にまで上り詰めた権力者が、わが子の来訪に慌てる様がユーモラスに描かれ、かえって清盛の憎めない人柄を象徴する効果を生んでいるのです。

巻二「徳大寺厳島詣」

 嘉応三年(1171年)、平家では嫡男重盛、三男宗盛がそれぞれ左右の近衛大将に就任するという吉事が訪れました(史実では重盛・宗盛兄弟が大将に叙任されたのは安元三年〈1177年〉のこと。平家物語では嘉応三年ではなく「そのころ」という表現を用いているが、「そのころ」をそのまま解釈すれば、兄弟の近衛大将叙任は嘉応三年ということになる)。特に宗盛にいたっては、何人もの先輩公卿を飛び越えての出世でした。そのため、兄弟の出世を陰で妬み、平家に対する反発を強める者がいたのも少なからずいました。
 鹿ヶ谷事件の中心人物である藤原成親もその一人でした。そのため、よしなき謀反をたくらんだかどで捉えられた成親は、配流先で惨殺されてしまいます。
 一方、徳大寺実定は違った角度から近衛大将の官位を得ようと策をめぐらしました。すなわち、清盛の尊崇する厳島神社に参詣し、清盛を喜ばせ官位を得ようという作戦です。実定は厳島詣でを終えると、そのまま神社に仕える巫女である厳島内侍を京に伴いもてなします。内侍を京に連れて行けば、内侍たちの口から実定の厳島参籠の話しが清盛に伝わると考えたからです。この策は見事に当たり、大いに実定に同情した清盛は「是ほど心ざし切ならむ上は」と、重盛を右近衛大将から降ろし、宗盛の左近衛大将をも超えさせて、徳大寺実定を右近衛大将に叙任したと言います。
 『古今著聞集』によれば、実定の右大将就任は治承元年(1177年)のことです。重盛は就任半年後に左大将を辞するのですが、その際、実定はこの官職を望み、所願成就したならば厳島に参詣しようと願を立てたところ、実際に治承元年十二月に右大将に叙任されたので、治承三年(1179年)に厳島に詣でたということになっています。つまりこの説話は、あくまで浅はかな藤原成親と賢明な実定を対比させるために挿入されたものであり、清盛は物語に興を添えるために引っ張り出されてきたようなものです。しかし、ここにはお人好しな権力者である清盛のイメージが表出していて、何とも微笑ましい挿話になっているのです。

巻三「御産」

 治承二年(1178年)十一月に、高倉天皇の中宮・徳子は、皇子・言仁を出産し、徳子の父である清盛は天皇の外戚になります。平家物語はこの時の様子を「をかしかりしは入道相国のあきれざま(途方に暮れた様子)、目出たかりしは小松の大臣のふるまひ」(「公卿揃」)と簡潔に表現しており、ここでも、しっかり者の重盛と慌てふためく清盛という対比を強調しています。しかし、清盛が慌てれば慌てるほど「父親としての清盛」の純粋さのほうが強調されていくのです。
 徳子の出産はなかなかの難産で、心配した清盛は入道相国の威厳もどこへやら「こはいかにせん、いかにせん」と妻の時子にしがみついている有り様でした。そして、いよいよ中宮亮の重衡が皇子の誕生を告げる段になると、清盛は余りの嬉しさに声をあげて泣いてしまいます。見事に父親の優しさが表出していると思われます。
 さらに出産の後、清盛が他の人に向かって「さり共いくさの陣ならば、是程浄海は臆せじ物を」と強がりを言ったという挿話も、この時の清盛の「あきれざま」と比べてみると、一層微笑ましさを感じます。こういうエピソードを見るにつけ、「平家」作者は本当に清盛を悪人だと思っていたのか、疑わしくなってくるのです。

巻三「法印問答」

 治承三年(1179年)十一月、後白河法皇の数々の策謀に怒り心頭に達した清盛は、ついにクーデターを挙行します。数千騎の軍兵を率いて福原を進発した清盛に謀反の意志があることがわかると、法皇は慌てて、信西入道の六男で院の近臣である静憲法印を清盛の説得に遣わします。しかし清盛は聞き入れず、関白・藤原基房、太政大臣・藤原師長(頼長の次男)を始め卿相雲客四十三人を、あるいは解官、あるいは配流に処し、法皇を城南離宮(鳥羽殿)に幽閉してしまうのです。  さて、自分を諌めにやってきた静憲を前に清盛は、「且うは腹立し、且うは落涙し」ながら、鹿ヶ谷事件以来の法皇の非道を訴えます。その内容は、以下の四点になります。
1.重盛が亡くなってから四十九日も過ぎないにもかかわらず、法皇はこれほどの忠臣の死を悼むどころか石清水八幡宮に御幸して管弦で遊んだ。
2.重盛知行の越前国は、子々孫々まで知行させる約束であったにもかかわらず、重盛の死後、早々に法皇が接収してしまった。
3.権中納言に欠員があった時、基通(北の方は清盛の娘・寛子)を推薦したにもかかわらず、師家(基房の子)を権中納言に叙任した。摂関家の嫡流であり、位階の面からも基通が妥当であったはずだ。
4.鹿ヶ谷事件では、法皇は首謀者であったにもかかわらず、重盛の諫言により法皇の積みは不問に付した。にもかかわらず、法皇は度々平家を追い落とそうとしている。
 以上、再三にわたる法皇の挑発は、いずれも清盛および平家一門の神経を逆なでするものばかりでした。特に1は、わが子を失った父親に対する、もっとも深刻な仕打ちだと言えます。説教臭いながらも頼みとしていた嫡子が死んだのですから、法皇とて清盛の悲しみは分かっているはずです。それにもかかわらず、四十九日も過ぎないうちに御遊にかまける法皇。鹿ヶ谷事件の際、法皇と清盛の間に立って奔走した忠臣への態度としては、非情極まりないと言えます。
 クーデターの際の清盛の主張のうち2、3、4については『愚管抄』『玉葉』『三槐記』などの史料に記されていますが、1は平家物語独自の視点から挿入されたものです。この、あたかも読者の同情を誘うがごとき演出は、「平家」作者も清盛に同情し、法皇の非道を暗に詰ったものなのかも知れません。

巻六「経ヶ島」

 治承五年(1181年)閏二月四日、清盛は帰らぬ人となります。清盛の臨終の後、巻六後半は清盛の生前のエピソードや出世の秘密などにスペースを割いています。中でも、特筆に値するのは、経ヶ島築港のいきさつで、ここでは珍しく平家物語は清盛をストレートに誉めています。
 清盛は日宋貿易拡大のため、摂津福原の港に風波をよけるための人工島を造りました。大和田泊の港は、貿易をするには適した場所にありましたが、いかんせん海からの風が激しく、安全な港とは言いがたいものがありました。そこで、清盛は船の航行の安全を考えて、防波堤として島を築くことにしたのです。平家物語は、「上下往来の船のわずらひなきこそ目出けれ」と賞賛しています。
 それだけではありません。築港の際、公卿からは工事の成功と安全を祈願して、人柱(生け贄として人を生き埋めにすること)を立てようという意見が出ましたが、清盛は「それは罪業なり」といって、人柱の代わりに一切経(仏教聖典の総称)を書いた石を埋めて、島の土台としたのです。迷信を信じない合理主義精神とともに清盛の優しさを物語る、印象的なエピソードだと言えます。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)


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