軍事力だけでは到達できない高み

 世の中には、なぜか人に惹きつけ、頼られ、自然とリーダーに持ち上げられていく人がいます。例え、自分から特別なアクションを起こさなくとも、周りが放っておかない、なんやかんやと頼りにされて、いつしかリーダー的な立場にいたりする、そういう人物こそ、真のリーダーたるに相応しいのではないでしょうか。
 平清盛は、まさにそういう人でした。血統が極端なまでに重要視される朝廷において、武門の出自ながら太政大臣まで上り詰めた背景には、単に「運がいい」だけでは説明しきれない、清盛の人間的魅力と、誰もが頼りにする度量の大きさがあったのです。とはいえ「清盛が太政大臣になれたのは、白河法皇の落胤だからだ」とか「圧倒的な武力を持っていたからだ」といった意見もあるかも知れません。しかし、「一天万乗の君」である天皇でさえ摂関政治・院政を通して政治的発言権を持てなかったのですから、落胤であることが政治的権力を掌中に収めるための条件にはなりません。また、「天下第一武勇之士」と言われた八幡太郎義家でさえ、院の御所の昇殿を許されるのが関の山だったことを考えれば、正盛以来の院の近臣としての奉仕があったにもせよ、同じ武門出身の清盛が太政大臣まで上るというのは尋常ではありません。

混乱の中で見せる懐の深さ

 清盛の度量の大きさを表すエピソードとして、まず、平治の乱における六波羅御幸の際の挿話をご紹介しましょう。
 藤原信頼と源義朝によって黒戸御所に幽閉されていた二条天皇は、乱の一味にありながら清盛に寝返った天皇親政派の藤原経宗・藤原惟方の裏切りにより、六波羅へ逃れます。玉体を自陣に迎えた清盛が、京内に「天皇、六波羅へ御幸」の触れを告げさせると、公卿・殿上人はこぞって六波羅に参集します。その際、前関白の忠通と共に息子で二条天皇の関白・基実も六波羅へやってきました。天皇を始め卿相雲客が集う六波羅に摂関がやってくるのは当たり前ですが、なぜかこの時は、貴族たちの多くが基実に疑惑の眼を向けていました。それというのも、基実は乱の首謀者である藤原信頼の妹婿にあたり、その基実を内裏ならいざ知らず、清盛を主人と仰ぐ平家一門の砦に迎えてよいものか、清盛に処置を問う者もいました。この時点において乱を収拾できるのは清盛率いる平家一門以外にないことは、天皇を始めすべての貴族が認めていました。だからこそ、天皇のもとに摂関が来るという当然のことにも、貴族たちは清盛の顔色を伺わなくてはならなかったのです。しかし、清盛は「主上のもとに摂政関白が来るのは当然のこと」とこともなげに言って、快く忠通・基実親子を迎え入れました。並み居る公卿たちは納得すると同時に、清盛の度量の大きさに心を打たれたのです。
 この頃の清盛は、未だ正四位下・太宰大弐に過ぎず、摂関はもとより、国政にあずかる公卿の仲間入りも果たしていませんでした。しかし、武門の双璧たる源氏が逆臣となりはてた今、頼るは平氏の軍事力のみ。清盛の存在感は、否が応にも高まったのです。このエピソードは清盛が、朝廷または院の命を受けて軍事力を発動するだけの存在にとどまらないであろうことを、並み居る公卿・殿上人に印象づけたに違いありません。

道徳の本にも書かれた清盛の人柄

 鎌倉時代中期に編纂された少年教訓のための説話集『十訓抄』には、清盛の度量の大きさを示す事例が所収されています。目下の者が場違いなことをしても、それが冗談でしたことであれば面白くなくても笑ってあげ、家人であっても人前では立ててあげるので、彼らは心から喜んだという。目下の者であっても、対面を傷つけないよう配慮することができる人物であったことが述べられています。
 ここから伺える清盛像は、平家物語で描かれる横紙破りの平相国像とはかけ離れています。『十訓抄』に描かれる清盛は、温厚で細やかな心配りのできる人物で、間違っても「祇王」の章段に見られるような、心ない権力者ではありません。巻一「祇王」では、寵愛する白拍子・仏御前を慰めるために、仏御前と入れ替えに追い出した祇王を召して舞を舞わせるという下りがあります。その際、並み居る清盛家人が祇王に同情して涙を流すなか、清盛だけは気付かずに一人喜びはやすのです。しかし、こんな他人の気持ちも分からない人物が、果たして、武門の最大勢力である平家一門を束ね、かつ、朝廷において欠くべからざる地位を築き上げることができるでしょうか。
 さらに『愚管抄』には、太政大臣に就任するまでの清盛が、政界遊泳術にも長けていたことが述べられています。折しも、親政を目指す二条天皇と院政を企図する後白河上皇との対立が激しさを増している頃。清盛はあえて旗幟鮮明にせず、どちらの顔も立つように、親政派と院政派の双方に気を遣っていたと言います。慈円はそうした清盛の態度を「アナタコナタシケル」と評していますが、度量の大きさに加えて如才ない政治家としての清盛像を垣間見ることができる事例だと言えるでしょう。諸方に気を遣う慎重な政治活動に徹したからこそ、異例のスピード出世対しても表面上は非難する者もいなかったのです。
 クーデターによる軍事独裁なら別ですが、清盛が太政大臣に就任したのは、治承三年のクーデターの十二年前のことです。平治の乱以降、唯一の軍事力を持つ権門として、また、院政派と天皇親政派との緩衝役として、清盛は人望を集め、誰からも頼られる存在になっていました。仁安三年(1168年)、清盛が出家のきっかけとなった大病を患った際は、プライド高い九条兼実でさえ、その日記『玉葉』に「清盛が死んだら天下は乱れる」と不安を表明しています。当時の清盛が軍事面のみならず、政治面でも大きな存在感を示していることを表しています。

横紙破りは年齢のせい?

 さて太政大臣を辞して後、つまり平家物語が扱う時代の清盛ですが、この頃の清盛には物語に描かれるような横紙破りの面があったことは否定できないでしょう。権勢の頂点に上り詰めた清盛が周りを見渡した時、暗愚とののしられながらも治天の君としてしたたかに君臨し続ける後白河法皇がいた。そしてその後白河は、平家に対して数々の挑発を仕掛けてくる。後白河にとっても、清盛は目の上のたんこぶになっていましたわけです。清盛にしても自らの寿命を悟っていたわけではないでしょうが、後白河からの圧力を受けるにつれ、我が身が健在なうちに、平氏一門の力を確固たるものにしたい、という思いが強くなっていったに違いありません。
 「人たらし」と言われたかの豊臣秀吉でさえも、晩年には「唐入り」(朝鮮出兵)を企て、求心力を低下させる愚行を犯しましたが、清盛の福原遷都、南都焼き討ちなどラディカルな政策も、余命の少ない清盛の焦りが生んだものでした。それらの政策は、表面的には源氏や寺社勢力と闘うかに見え、自らの余命との戦いだったと言えるかも知れません。
 最後に藤原忠親の日記『山槐記』が語る清盛と安徳天皇とのエピソードを紹介しておきましょう。
 治承三年のクーデターから一ヶ月後、清盛の西八条の邸を当時まだ皇太子だった言仁親王(高倉天皇の皇子、清盛の孫)が訪れました。まだ満一歳の頑是無い安徳は、自分の指を舌で湿らせ障子に穴を開けて喜んでいる。清盛がさらに促すと、また言仁は障子に指を通す。それを見た清盛ははらはらと涙を流し、「この障子を倉底に収めてしまっておくように」と家人に言い渡したといいます。そこには、幼い孫を無心にいとおしく思う一人の老人がいるだけです。
 最大のライバルを蹴落とし、権力の頂点に立ったが故に感じる孤独感が、ふっと湧き起こったのかも知れません。


●参考文献
安田元久著『権勢の政治家 平清盛』(清水書院)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)


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