清長楽寺は延暦二十四年(805年)、桓武天皇の勅命のもと最澄によって創建されました。平家物語によると文治元年(1185年)、壇ノ浦で捕らえられた建礼門院徳子は、当時の住職・阿証房印誓を戒師として出家(史実は大原来迎院の本成房とされる)、布施として安徳天皇が今わのきわまで召されていた形見の直衣を結い直した十六旒の仏幡を進じ、菩提を弔ったといわれています。この幡のうち二旒が現在まで伝わっており、4月1日~5月10日の特別展で一般公開されています。

円山公園のから東へ向かう
坂道を上ると長楽寺に至る。
情趣あふれる小道が門前まで続く。




鹿ヶ谷事件に連座して鬼界ヶ島に名がされた平判官康頼は、治承二年(1178年)、平徳子懐妊の恩赦により、藤原成経とともに赦免されました。帰洛後、康頼が住んだのが東山の雙林寺。康頼はここで「憂かりし昔を思ひつづけ」ながら仏教説話集『宝物集』を著したといわれています。


現在はわずかな寺域に
本堂が残るのみ。


清水寺は平安時代、観音霊場として貴族ばかりでなく、広く一般庶民からも尊崇を受けました。平治の乱で敗れた義朝の妾・常葉も、観音に深く帰依していたので、今若、乙若、牛若の三子を連れて一時隠れました。平安中期には興福寺の末寺であったために、延暦寺と興福寺との抗争に巻き込まれ、たびたび火をかけられます。平家物語巻一「清水寺炎上」の章には、延暦寺の大衆によって「仏閣僧坊一宇も残さ」ないほどに焼かれる場面が描かれています。


本堂から子安の塔を望む。



一ノ谷の戦いで捕らわれの身となった平重衡は、出家を望んだが許されず、「年頃契ったりし聖(年来師と仰いでいる上人)」である黒谷の法然との対談を望んで許可されました。法然は来世での極楽往生に至る道を説き、額にかみそりを当てて剃るまねをし、 戒を授けたといわれています。くろ谷金戒光明寺は法然が初めて草庵を営んだ場所で、後年弟子となった熊谷直実ゆかりの地。幕末には京都守護職松平容保の会津藩本陣となりました。
万延元年(1860年)完成の山門。
桜上正面に後小松天皇宸翰「浄
土真宗最初門」の勅額がある。


●参考文献
小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく6 清水寺』(小学館)/
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/
日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)/
角田文衛著『平家後抄(上)』(講談社学術文庫)/
志村有弘著『平家物語の旅 源平時代を歩く』(勉誠出版)/
学研ムック『源平ものがたり』(学研)/
黒田俊雄著『日本の歴史8 蒙古襲来』(中公文庫)