その一~六波羅・小松谷

 清盛一門の代名詞ともいえる六波羅。往時は清盛の泉殿、頼盛の池殿、教盛の門脇殿など、広大な地域に一族郎等の居館が立ち並んでいました。平治の乱の際は二条天皇が行幸され、平徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのもここ六波羅です。また、六波羅の東南小松谷には重盛の一族が住まう小松殿もありました。六波羅・小松谷を含む平家一門の敷地は東西五町、南北八町におよぶ膨大なものだったといいます。しかし、平家都落ちの際、これらの邸地は一門の手で火をかけられ、あえなく灰燼に帰したのでした。


現在の六波羅界隈。往時の面影はなく、ひっそりとしたたたずまい。



六波羅蜜寺は空也上人により天暦五年(951年)に開創。
平家都落ちの際は本堂だけが焼け残ったという。
有名な平清盛像、空也上人像を見ることができる。


境内にある清盛供養塔(左)と悪七兵衛景清の想い人であった白拍子・阿古屋の供養塔(右)。
鎌倉時代の建立といわれる。


六波羅密寺境内にある
「此付近平氏六波羅第・
六波羅探題府」の碑。




こちらは東福寺の南側にある六波羅門。
平家六波羅第の遺構を移建したものと伝わる(六波羅探題という説も)。
駐車場の入り口にあたるらしく車の往来がひっきりなしであった…。



六波羅には平家の邸宅にちなむ町名が今も残る。左は池殿町、右は門脇町で、
それぞれ清盛の弟頼盛、教盛の邸宅名。いずれも六波羅密寺の南にある。










現在の東大路通沿いにある馬町交差点から東へ向かう道はかつて渋谷越、苦州滅道(くずめじ)などと呼ばれた。小松谷は清水寺付近を水源として西南に下っていた渓谷で、重盛の小松第は小松谷と渋谷越が交差するあたりにあったといわれる。




現在も「谷」の風情を残す正林寺周辺。右は小松谷正林寺の山門で、この付近を小松第とする説もある。



新京極にほど近い町中にたたずむ浄教寺は、重盛建立の灯籠堂を継ぐ寺といわれる。
寺内には重盛の銅像と肖像画が伝わり、境内には石碑が建立されている。




馬町交差点から数百メートルほどの住宅地にたたずむ佐藤継信・忠信兄弟の墓。源義経の家人で、継信は屋島の戦いで討ち死。忠信は義経都落ち後、京で捕縛され処刑された。かつて、この場所には六メートルを超える馬町十三重石塔という鎌倉時代の十三重石塔が建っており、佐藤兄弟の塚であると伝えられてきた。塔は現在、京都国立博物館の前庭に移されている。

その二~西八条

 洛中における平家の拠点となったのがここ西八条。治承三年のクーデターの際、福原から上洛した清盛は西八条邸を拠点として、京都政界に圧力をかけていきました。清盛の別邸ですが、ここには主に妻の時子が住み、光明心院という御堂を営んでいました。しかしここも、平家都落ちの際には火をかけられ、六波羅同様、跡形もなく焼け落ちてしまいます。


清盛の西八条邸跡とされる若一神社。こぢんまりとした境内から、
往時の豪壮さを思い浮かべるのは至難の業。


街道沿いにある石の鳥居が目印。鳥居横には「平清盛公西八条殿跡」の石碑がある。



門前にある清盛手植えの神木。
















境内にある清盛ゆかりのご神水。撮影時にも水をくみに来る人たちが引きも切らず。
右は祇王の歌碑。平家物語「祇王」の物語は西八条邸が舞台であった。


境内にある平相国平清盛像。この朝もきれいな花が飾られていた。
やはり地元ではヒーローなのだ




西大路八条の若一神社と東寺との間にある「羅城門跡」。かつては平安京の正門として、
正面三十二メートル、奥行き八メートル、二層瓦葺きで屋根上には
金色の鴟尾が輝く壮麗な門であったが、今は公園の中に碑が残るのみである。

その三~法住寺殿

 法住寺は後白河法皇の御所で、平家の六波羅に隣接していました。当時は広大な敷地を有し、通称三十三間堂と呼ばれる蓮華王院や今熊野神社、新日吉神社などが敷地内に配置されていました。後白河による院政開始三年後の応保元年(1161年)から木曾義仲による焼き討ちの寿永二年(1183年)まで、後白河はここで得意の権謀術数を巡らしたのです。


蓮華王院は後白河の御願により長寛二年(1164年)に清盛が造営したもので、正面の柱が三十三あることから通称「三十三間堂」と呼ばれる。堂内には千一体の観音像がおさめられているが、これは忠盛が鳥羽院に寄進した得長寿院にならったもの。



お堂は和様の入母屋・本瓦葺きの総檜造りで約120メートル。右は北側池泉の脇にある法住寺殿址の碑。


現在の本堂は文永三年(1266年)の再建。
その後、室町、桃山、江戸、昭和に四度の大修理がなされた。



元久元年(1204年)、土御門天皇が当院で後白河法皇の十三回忌を行ったとき、法然は浄土の経文を書写し、人々に念仏・写経を勧めたという。左はその偉績を称えた法然塔。右は「後白河法皇八百年聖忌記念」の碑。植樹か。いずれも北側池泉脇にある。



「通し矢」で有名な本堂西側の外縁。
堂内にはその記録を記した
多数の絵馬が掲げられている。
毎年1月には通し矢にちなみ成人を迎えた
女性による弓道大会が催される。





境内の南端、塩小路通に面して建つ蓮華王院南大門。
慶長五年(1600年)に豊臣秀頼により建立された。



法住寺裏手にある後白河天皇陵。山門の左側に延びる道を行けば見ることができる(ただし平日のみ)。


法住寺は、もともと藤原為光が娘の菩提を弔うために自邸を寺としたもの。
その後、一時信西の居所となっていた 関係から後白河の御所とされたという。
右は旧御陵正門の竜宮門。山門の右側にある。


智積院の北側に鎮座する新日吉神社もかつての法住寺殿の一部だった。



新日吉神社境内にある飛梅天満宮。永暦元年、後白河上皇により菅原道真と道真遺愛の飛梅の霊を祭神として創建された。飛梅は道真が太宰府下向の際「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」と詠んで別れを惜しんだ旧宅の梅が、一夜にして配所に花を咲かせたという故事にちなむ。










蓮華王院からJRの高架を挟んで
南側も法住寺殿の敷地である。
新熊野神社は永暦元年(1160年)、
法住寺殿の鎮守社として
新日吉神社とともに勧請された。








現在の新熊野神社本殿は寛文十三年(1673年)造営。左は新熊野神社境内にある後白河手植えの樟。
熊野の神々が降臨するといわれ、「大樟大権現」として尊崇されている。











こちらは三条烏丸交差点の東北にある「三條東殿遺址」。天治二年(1125年)、白河院の御所として造営され、その後、後白河上皇の御所となった。平治の乱で源義朝の襲撃を受けて炎上、後白河は幽閉され、多くの女官が御所の井戸に身を投げて命を落としたと伝えられる。



寿永二年(1183年)十一月の木曽義仲による法住寺殿焼き討ちの後、
後白河の院御所は六条殿に移された。 富小路通にある長講堂は
後白河の持仏堂として建てられたもので、かつては六条殿の中にあった。
祇王・祇女らの名を記した過去帳があることが平家物語に記されている。

その四~京都御所

 清盛の父・忠盛が鳥羽上皇のために得長寿院を造営し、内裏清涼殿への昇殿を許されたのは天承二年(1132年)のこと。その後、平家一門は著しい発展を遂げ、わずか四十数年後には「一門の公卿十六人、殿上人三十余人。…世には又人なくぞ見えられける」ほどの栄華を極めました。平家の公達の栄光の舞台となった内裏の面影を偲びます。


内裏は平安時代を通して幾度も焼失、再建を繰り返したが、安貞元年(1227年)の火災以後、再建されることはなかった。現在の京都御苑は天皇の里内裏の一つであった東洞院土御門殿の後身。元弘二年(1332年)、光厳天皇がここで即位して以後、明治期に至るまで皇居となった。平家の公達が活躍した内裏は、現在の京都御苑の西2kmのところにあった。



禁裏東側にある建春門。女院には殿邸や御領所のほか、内裏諸門の名に由来する院号が与えられるが、
時子の妹で高倉天皇の生母である平滋子は、嘉応元年(1169年)、建春門院の女院号を与えられた。



建春門のあたりから
東を臨めば大文字を
くっきりと見ることができる。










禁裏正面に建つ建礼門。平徳子がこの門にちなむ院号を宣下されたのは養和元年(1181年)のこと。



禁裏北側にある近衛邸跡(左)と南側にある九条邸跡。豊臣秀吉の頃から明治の東京遷都まで
御所の周辺には宮家や公家の邸宅が建ち並んでいた。



九条邸跡内の拾翠池に鎮座する厳島神社は、清盛が安芸の厳島神社を神戸に勧請したもの。
その際、養母であった祇園女御を合祀したが、後年、故あって九条邸内に遷されたという。



厳島神社の石鳥居は重要美術品とのこと。唐破風の石鳥居は珍しく、京都三珍鳥居の一つとされる。





神泉苑は内裏から二条通を隔てた南側にあった禁苑。かつては天皇御遊の庭園として広大な地を占めたが、二条城が作られた際、北側の大部分を取り込まれた。平家物語・巻五の「朝敵揃」には、醍醐天皇が神泉苑に行幸した際、宣旨によって鷺を平伏せた逸話が見える。

その五~祇園社

 祇園と平家とのかかわりといってまず思い浮かぶのは祇園女御ではないでしょうか。祇園女御は、平家物語の中で清盛の母として紹介される女性で実在の人物ですが、生母説は今では完全に否定されています。また、祇園社といえば、久安三年(1147年)の清盛郎等と祇園社神人との乱闘事件が有名です(清盛出世物語「第一部 平家の棟梁・清盛」参照)。山門の強訴にまで発展してしまった大事件で、京都政界で清盛の存在がクローズアップされた初めての事件でした。



江戸時代まで祇園社と
呼ばれていた八坂神社。
源平時代は延暦寺を
本寺として勢威を振るった。











平成の大修復を終え
新装なった本殿。













八坂神社境内にある「忠盛灯篭」。お忍びで祇園女御に会いに行く白河法皇の供をしていた忠盛一行は、祇園社で鬼に遭遇する。しかしそれは鬼ではなく、老僧が燈籠に火を付けようとしていたもので、それを見抜いた忠盛の冷静な行動が法皇の御感を得たという。夜見ると怖い(右)。





平成十六年(2004年)、円山公園の南に新造された祇園寺。長治二年(1105年)、 祇園女御はこの辺りに尊勝寺(通称・祇園堂)を建て、丈六の阿弥陀仏を安置したという。 右は入口の右側に建てられている祇園女御供養塔。


祇園歌舞練場の東側、万寿小路沿いにひっそりとたたずむ崇徳天皇御廟。保元の乱に破れ、讃岐に配流された崇徳上皇は、後生菩提のため五部の大乗経を書写し都に送った。しかし、崇徳の最後の望みはすげなく拒絶され、怒り狂った崇徳は「日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」として怨霊と化したという。

その六~五条大橋と義経の史跡

 義経と弁慶が劇的な出会いを果たしたとして知られる五条大橋。牛若丸の太刀を奪おうと戦いを挑んだ弁慶が、軽々と打ち負かされて家来になるという話ですが、これはあくまで御伽草子の脚色。実際二人がどこでどのように出会ったのかは分かっていません。ちなみに、『義経記』では五條天神の杜が決闘の舞台。一度では決着が付かず、二度目の清水の舞台における決闘で雌雄は決し、弁慶は義経の家来になったといわれています。


五条大橋は鴨川にかかり、国道1号線を結ぶ橋。もともとは平安京の五条坊門通(現在の松原通)にかかっていたが、豊臣秀吉が方広寺の大仏殿造営の際、伏見との交通の便を図るためこの地に架け替えられたという。





五条大橋西詰めにある牛若と弁慶の像。むちむちした姿が愛らしい。



秀吉による架け替えがあったことから、
牛若丸と弁慶が出会った頃の五条橋は
現在の松原橋付近に比定されている。












『義経記』で第一の決闘場所として描かれた五條天神。社殿によると延暦十三年(794年)、平安遷都にあたり大和国宇陀郡から天神を勧請したのが始まりといわれる。「天使の宮」と呼ばれたが、後鳥羽天皇の時代に五條天神宮と改められた。



上京区桜井町にある首途(かどで)八幡宮。もと金売り吉次の屋敷跡といわれ、鞍馬を抜け出した牛若が奥州平泉に向かう際、同中の安全を祈願したと伝わる。











現在は旅行安全の
神として信仰を
集めている。




「源義経奥州首途之地」の碑。義経奥州下向八百三十年を
記念して首途八幡宮境内に建立された。



こちらは北区紫竹牛若町にある牛若丸誕生井(左)と胞衣(えな)塚(右)。紫竹は源義朝の別邸があったところで、この地で義経は誕生したといわれる。胞衣塚は誕生井の右斜め後方にあり、牛若丸の胞衣とへその緒を埋めたところと伝えられている。



誕生井の西南にある光念寺には、常磐の守り本尊であった腹帯地蔵が安置されている。右は牛若通り。





烏丸通と松原通が交叉する東側にある俊成社は、かつて俊成の邸があったところといわれている。寿永二年(1183年)七月二十五日、平家都落ちの際、平忠度は歌の師であった藤原俊成(定家の父)の邸を訪ね、自ら詠んだ百余首の和歌を綴った巻物を俊成託した。平家滅亡後、『千載集』に一首がとられたが、忠度が朝敵であったため「読人知らず」として掲載されたという。このことを、平家物語は「うらめしかりし事ども也」と記している。
六波羅みやげ「六波羅蜜寺絵はがき」
 洛中で買える平家グッズは、六波羅蜜寺の絵はがき(平家のメッカでこれだけか! ・・・また探してきます)。清盛像のほか空也上人や運慶像、六波羅蜜寺本堂の写真などが入っています。一応、六波羅といえば平家なのですから、もっとパンチの効いたやつが欲しいですね。清盛の木彫りのミニチュア像とかいいな・・・。あったらどんなに高くても買いまっせ。


写真の質はいまいちか・・・








●参考文献
梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)/ 蔵田敏明著『平家物語の京都を歩く』(淡交社)/ 学研ムック『源平ものがたり』(学研)/ 牧野和夫・小川国夫著『新潮古典文学アルバム13・平家物語』(新潮社)


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