清盛一門の代名詞ともいえる六波羅。往時は清盛の泉殿、頼盛の池殿、教盛の門脇殿など、広大な地域に一族郎等の居館が立ち並んでいました。平治の乱の際は二条天皇が行幸され、平徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのもここ六波羅です。また、六波羅の東南小松谷には重盛の一族が住まう小松殿もありました。六波羅・小松谷を含む平家一門の敷地は東西五町、南北八町におよぶ膨大なものだったといいます。しかし、平家都落ちの際、これらの邸地は一門の手で火をかけられ、あえなく灰燼に帰したのでした。






六波羅密寺境内にある
「此付近平氏六波羅第・
六波羅探題府」の碑。










洛中における平家の拠点となったのがここ西八条。治承三年のクーデターの際、福原から上洛した清盛は西八条邸を拠点として、京都政界に圧力をかけていきました。清盛の別邸ですが、ここには主に妻の時子が住み、光明心院という御堂を営んでいました。しかしここも、平家都落ちの際には火をかけられ、六波羅同様、跡形もなく焼け落ちてしまいます。




門前にある清盛手植えの神木。




法住寺は後白河法皇の御所で、平家の六波羅に隣接していました。当時は広大な敷地を有し、通称三十三間堂と呼ばれる蓮華王院や今熊野神社、新日吉神社などが敷地内に配置されていました。後白河による院政開始三年後の応保元年(1161年)から木曾義仲による焼き討ちの寿永二年(1183年)まで、後白河はここで得意の権謀術数を巡らしたのです。







「通し矢」で有名な本堂西側の外縁。
堂内にはその記録を記した
多数の絵馬が掲げられている。
毎年1月には通し矢にちなみ成人を迎えた
女性による弓道大会が催される。









蓮華王院からJRの高架を挟んで
南側も法住寺殿の敷地である。
新熊野神社は永暦元年(1160年)、
法住寺殿の鎮守社として
新日吉神社とともに勧請された。





清盛の父・忠盛が鳥羽上皇のために得長寿院を造営し、内裏清涼殿への昇殿を許されたのは天承二年(1132年)のこと。その後、平家一門は著しい発展を遂げ、わずか四十数年後には「一門の公卿十六人、殿上人三十余人。…世には又人なくぞ見えられける」ほどの栄華を極めました。平家の公達の栄光の舞台となった内裏の面影を偲びます。




建春門のあたりから
東を臨めば大文字を
くっきりと見ることができる。









祇園と平家とのかかわりといってまず思い浮かぶのは祇園女御ではないでしょうか。祇園女御は、平家物語の中で清盛の母として紹介される女性で実在の人物ですが、生母説は今では完全に否定されています。また、祇園社といえば、久安三年(1147年)の清盛郎等と祇園社神人との乱闘事件が有名です(清盛出世物語「第一部 平家の棟梁・清盛」参照)。山門の強訴にまで発展してしまった大事件で、京都政界で清盛の存在がクローズアップされた初めての事件でした。


平成の大修復を終え
新装なった本殿。





義経と弁慶が劇的な出会いを果たしたとして知られる五条大橋。牛若丸の太刀を奪おうと戦いを挑んだ弁慶が、軽々と打ち負かされて家来になるという話ですが、これはあくまで御伽草子の脚色。実際二人がどこでどのように出会ったのかは分かっていません。ちなみに、『義経記』では五條天神の杜が決闘の舞台。一度では決着が付かず、二度目の清水の舞台における決闘で雌雄は決し、弁慶は義経の家来になったといわれています。





秀吉による架け替えがあったことから、
牛若丸と弁慶が出会った頃の五条橋は
現在の松原橋付近に比定されている。





現在は旅行安全の
神として信仰を
集めている。









●参考文献
梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)/
五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/
日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)/
蔵田敏明著『平家物語の京都を歩く』(淡交社)/
学研ムック『源平ものがたり』(学研)/
牧野和夫・小川国夫著『新潮古典文学アルバム13・平家物語』(新潮社)