治承四年(1180年)、平家軍は天台宗寺門派の総本山・園城寺(三井寺)を攻撃しました。反平家の狼煙が全国的に広がる中、わずか半年で福原から京へ還都を余儀なくされた清盛は反平家勢力掃討の一貫として、近江源氏の立て籠る同寺の焼き討ちを命じたのです。平家物語では、以仁王に加担した制裁として、以仁王の乱鎮圧直後の五月二十七日に攻撃されたことになっていますが、実際は福原から京へ還都した後の十二月十一日のことでした。










重要文化財の毘沙門堂。
近年、外部の彩色が復元された。



寿永二年(1183年)七月、平家を西海に追いやって京都を制圧した木曾義仲でしたが、配下の武士による狼藉や義仲自身の無骨な振る舞いにより、京において次第に孤立していきます。後白河法皇との関係は殊に険悪で、同年十一月には院の御所・法住寺殿を焼き討ちし、鎌倉の頼朝に攻撃の口実を与えてしまいました。鎌倉軍の追撃をかわしながら乳母子・今井兼平らと最後の死闘を繰り広げる義仲。しかし衆寡敵せず、粟津の松原であえない最期を遂げるのです。




松尾芭蕉の墓。芭蕉は義仲を慕い
その遺骸は遺言によって
義仲の墓の側に埋葬された。







奥嵯峨の祇王寺とは別に、祇王・祇女の出身地といわれる滋賀県野洲町にも祇王ゆかりの寺があります。清盛の寵愛を受けた祇王は、ある時清盛に何か願い事はないかと尋ねられ、故郷の江部荘には流水がなく里人が水に飢えているので救済してほしいと訴えました。清盛は快く承知し、野洲川から琵琶湖の下野田浦まで、12kmに及ぶ水路を建設。里人は祇王の恩恵を称えその川を「祇王井川」と名付け、祇王の菩提を弔うために妓王寺を建てたと伝えられています










●参考文献
小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく42 三井寺と近江の名刹』(小学館)/
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(三)』(岩波文庫)/
元木泰雄著『平清盛の闘い 幻の中世国家』(角川叢書)/
西田直敏著『平家物語への旅』(人文書院)/
日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)