その一~東大寺

 治承四年(1180年)十二月、平氏軍は以仁王に加担した園城寺(三井寺)を焼き討ちにした後、返す刀で今度は反平氏勢力の急先鋒、南都(奈良)の征討に赴きます。大将軍は清盛の五男、平重衡。二十七日に始まった戦は、翌日になっても決着がつかない。二十八日夜半、暗さは暗し、夜戦に備え、重衡の命令により民家にかけられた火は、折からの烈風に煽られ、瞬く間に寺々に延焼。東大寺・興福寺を始め、南都七大寺の多くを焼き尽くしたのでした。


世界最大の木造建築として知られる東大寺・大仏殿。東大寺は聖武天皇によって
総国分寺として建立。以来、律令制のシンボルとして皇室・貴族の尊崇を集めた。



現在の大仏殿は1709年(宝永6年)再建。正面58m、側面50.5m、高さ46.8mだが、創建当時に比べて規模は 縮小されている。屋根に輝く金色の鴟尾(しび)は高さ3.33m(ちなみに名古屋城の鯱鉾は2.62m)。



大仏殿の本尊・盧遮那仏。平家物語によると、東大寺炎上の際、本尊は激しい炎に
煽られて体が溶解、 頭部は焼け落ちたと言う。台座の蓮弁のみが創建当時のもの。




大仏殿に火が移った時、大仏殿二階には
老僧、修学者、子どもなど千余名にのぼる
非戦闘員が非難していた。追手が登って
来れないように梯子をはずしていたため、
逃げ場を失い、多くの人命が失われた。









大仏裏に飾られている
創建当時の東大寺の模型。












こちらは重源によって
鎌倉期に再建された大仏殿。










国宝の南大門。1199年(正治元年)、大仏様(よう)と呼ばれる建築様式は、平氏による焼き討ちの後、 東大寺再建の大勧進職となった俊乗坊重源が宋より移入したもの。



南大門の両側に立つ有名な金剛力士像(国宝)。向かって左が阿形像、右が吽形像。
建仁三年(1203年)に運慶・快慶らによって造られた。憤怒の形相はまさに鎌倉芸術の極致。



修二会(お水取り)で有名な二月堂は寛文九年(1669年)の再建(重要文化財)。
毎年旧暦二月に修二会が行われることから、二月堂と呼ばれるようになった。



舞台造りの建築様式で、内陣・外陣・礼堂などで構成される。創建時の建物は小規模だったが、
修二会の行法に合わせて構造や規模が整えられた。



別名・三月堂とも呼ばれる国宝の法華堂。
天平期の正堂と鎌倉期の礼堂を合わせた特異なつくりが特徴。

その二~興福寺

 興福寺は藤原氏の氏寺として、奈良時代以来、長きにわたって多くの貴族の尊崇を集めました。源平争乱の時代には反平氏勢力の拠点として、南から京都の平氏政権を脅かしましたため、比叡山に対しては軋轢を避け、融和策に終始した清盛も、興福寺には徹底して厳しい態度で臨みました。南都焼き討ちにより灰燼に帰した同寺の惨状を耳にした九条兼実は「忽ち我氏の破滅を見る」と嘆いたといいます。


南大門趾の前にある猿沢の池。平家物語によると、南都焼き討ちに先立ち、興福寺の大衆の狼藉を静めるべく、清盛は「衆徒は狼藉をいたすとも、汝等はいたすべからず」と言い渡して瀬尾太郎兼康の軍勢を派遣。そうとは知らない大衆は軍勢のうち六十余人を搦め取り、首を斬って、ここ猿沢の池のほとりに架け並べたという。









藤原忠通の娘で崇徳天皇の中宮・
皇嘉門院の発願により創建された
三重塔(国宝)。鎌倉時代の再建で、
興福寺の中では最古の建物の一つ。








江戸時代再建の南円堂(重要文化財)は、もとは藤原冬嗣が建立。藤原氏の氏寺信仰の
中心となった建物。 右は五重塔の脇でくつろぐ鹿。



国宝の北円堂は、藤原不比等の追善供養のために元明上皇と元正天皇が 長屋王に
造営させた八角円堂。現在の建物は平氏による焼き討ちの後に再建されたもの。



東金堂と五重塔(ともに室町時代の再建で国宝)。東金堂は、聖武天皇の建立。
五重塔は光明皇后の発願で、国宝・重要文化財級の塔では、
東寺の五重塔に次いで日本第2位の高さを誇る。

その三~春日社

 春日社は藤原氏の氏神で、神仏習合が進んだ平安時代以降、氏寺の興福寺とは一体の存在でした。院政期以降、荘園をめぐる受領と寺社勢力の対立が激しくなると、有力寺院は自らの権益を守るため朝廷に対して度々強訴におよびます。その中心となったのが、南都北嶺と呼ばれる延暦寺と興福寺。延暦寺が日吉社の御輿を奉じたのに対して、興福寺も春日社の神木を押し立てて京中に乱入しました。その神威の前に貴族たちは怖れおののき、さしもの上皇・天皇もしばしば屈服せざるを得なかったのでした。


一之鳥居(左)と二之鳥居。古くは春日神社、春日社などと呼ばれたが、
昭和21年(1946年)に春日大社に改められた。



御蓋山西麓に南面する春日大社の楼門。春日大社は神護景雲二年(768年)、
称徳天皇(光明皇后の娘)の勅命により、左大臣藤原永手らが現在地に
神殿を創設したのが始りといわれる。



参道の両側に並ぶ大小の石灯籠は2000基におよぶ。節分とお盆に行われる万燈籠では、
回廊に下げられた1000基の釣灯籠とともにすべての灯籠に灯明が灯される。




社殿の周囲を朱塗りの
回廊がめぐる。










釣灯籠の風情。春日社の神木動座は寛治7年(1093年)八月、院の近臣で近江守の高階為家に対する 流罪要求に始まる。この時、朝廷は興福寺の要求をのみ、為家は土佐に流された。











奈良公園・飛火野の朝景。春日社の創建時、鹿島から迎えられた神様は、
鹿に乗ってやって来たことから、鹿は奈良の象徴になったという。

その四~木津

 寿永三年(1184年)二月、一ノ谷の合戦において、一門で唯一人囚われの身となった平重衡は、翌年三月に一門の大多数が壇の浦で滅びると、奈良の大衆は南都焼き討ちの張本人として、南都の大衆に引き渡されることになりました。滋賀の大津から逢坂の関を超えて山科を南下。途中、日野で北の方・大納言佐と今生の別れを惜しんだ後、大和街道を奈良へと向かいます。木津川畔に引き立てられた重衡は、旧臣・木工右馬允知時が近所から借り受けてきた阿弥陀仏に向かって念仏を唱えながら斬られたといいます。


木津川畔にある安福寺は、重衡の菩提を弔うために建立された。右は本堂の哀堂(あわんどう)。
堂内には本尊として重衡の引導仏が安置されている。



安福寺境内にある十三重の石塔は、平重衡の供養塔といわれている。



哀堂内部。中央に安置されている本尊は、重衡の引導仏と言われている阿弥陀仏。
平家物語によると、旧臣・知時は自らの狩衣の袖の括り紐を解き、片方を阿弥陀仏の御手に、
もう片方を重衡の手に握らせて、臨終の作法を取らせたという(本来は五色の糸)。
近年の調査で、仏像が平安朝期に造られたものだということがわかった。



安福寺の近くにある不成柿(ならずがき)と重衡首洗い池(右のこんもり生い茂っている部分)。斬られた重衡の首は、南都の大衆によって般若寺にさらされたが、その際、この池で首を洗ったとされる。また「不成柿」は、重衡を哀れんだ地元の人々は柿を植えたが、いっこうに実らなかったことから、こう呼ばれるようになった。現在は実る。

その五~長谷寺

 平家が壇ノ浦に滅びると、鎌倉方による厳しい平家の子孫狩りが始まりました。維盛の遺児六代も、密告によって捕らわれます。六代の乳母から助命を頼まれた文覚上人は、鎌倉に下って頼朝から赦免状をもらい、処刑寸前に六代を救い出すことに成功。長谷寺の観音に延命祈願していた母や乳母は、観音の利生により再会を遂げ、六代は文覚に引き取られました(「泊瀬六代」)。『源氏物語』『枕草子』など平安女流文学にも数多く登場する、観音信仰の霊地・長谷寺を訪ねます。
















初瀬川から長谷寺本堂を望む。長谷寺は朱鳥元年(686年)に僧道明が創建した本長谷寺、神亀四年(727年)に、僧徳道が伽藍を造営し十一面観音を祀った後長谷寺が一つになり成立したといわれている。平安時代には観音信仰の霊場として貴賎の尊崇を集めた。戦国時代に衰微したが、のち豊臣秀長によって再興され、江戸時代は幕府の保護を受けた。




重要文化財の登廊。上・中・下の3廊に分かれており、全長は200メートルにおよぶ。主要部分は江戸時代、中・下は明治期の再建。



重要文化財の本堂は、慶安三年(1650年)に徳川家光によって再建された。



本堂から五重塔を望む(左)。明治期に焼失した三重塔に代わり、昭和二十九年(1954年)に建立された。右は五重塔の横にある三重塔跡。



左は、本堂から東参道を下ったところにある俊成碑と定家塚(中央)。右は『源氏物語』ゆかりの謡曲「玉鬘」で詠われた二本の杉。初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が二本の杉の下へ僧を案内して、亡き母の侍女・右近と巡り会った事を話す。



情趣あふれる門前町の風景。六代の母や乳母も、
長谷寺へ通じるこの道を通ったのであろうか。

●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(下)』(塙新書)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ 安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(小学館)/ 小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく2 東大寺』(小学館)/ 小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく5 興福寺』(小学館)/ 小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく5 長谷寺と飛鳥の名刹』(小学館)


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