その一~大輪田泊

 仁安三年(1168年)、出家して「入道大相国」と呼ばれるようになった清盛は、摂津の福原に別荘を構え遁世生活に入ります。以後、清盛は大輪田泊を改築して日宋貿易の拠点とし、後白河法皇を招いて千僧供養を行うなど、福原を拠点に政治や貿易に介入しました。中でも清盛が情熱を注いだのが大輪田泊の改築です。引退後、私財を投じて風波から船を守るための人工島の造成に着手。途中、激しい風波で何度も崩れ、人柱を立てようという意見も出ましたが、清盛は「それは罪業である」といって取り上げず、経文を書いた石を沈めて島の基礎にした逸話が『平家物語』に見えます。清盛によって基礎が築かれ、日本屈指の貿易港に発展した兵庫港を訪ねました。









清盛が剃髪したといわれる能福寺。延暦二十四年(805年)、唐に留学していた最澄が帰途、兵庫の和田岬に上陸し自作の薬師如来像を安置したのが開創であると伝えられている。福原遷都の時、平家一門の帰依によって大いに隆盛した。




当寺の兵庫大仏は奈良、
鎌倉とともに日本三大仏
に数えられる。












能福寺境内にある平相国廟。養和元年(1181年)二月四日、京で亡くなった清盛の遺骨は、
当寺の住職・円実法眼により福原へ運ばれ、能福寺の東北に埋葬されたという



能福寺から清盛塚へ向かう途中には、地元の小・中学生が近辺の歴史を描いた壁画を見ることができる。当地の英雄・清盛は、豪商・高田屋嘉兵衛とともに主役級の扱い。



能福寺近くの大和田橋のたもとにある清盛塚。もともとは現在より南西11mの場所にあったが、
大正十一年(1922年)の市電松原線の道路拡張工事の際に現在の場所に移転された。








清盛塚は長い間、平清盛の遺骨を埋葬した墓であると考えられていたが、移転の際の調査で墳墓でない事が判明し、弘安九年(1286年)に建てられた供養塔であることが明らかとなった。清盛は神戸の大恩人として敬われており、大正時代には「清盛講」というものができて毎年盛大に供養を行っていたという。





江戸後期の清盛塚。
遅くとも17世紀
後半には人々に
知られていた
ことが分かる。







清盛塚は鎌倉期につくられた十三重の供養塔で、高さは8メートル以上(左)。右は琵琶の名手・経正にちなんだ琵琶塚。もともとは清盛塚と小道を挟んで北西にあった前方後方式の古墳石であった。


清盛塚と琵琶塚の間に立つ清盛像は、文化功労者である彫刻家の柳原義達作で、
昭和四十七年(1972年)に建てられた。



清盛塚付近にある清盛橋。欄干には銅板による平家物語絵巻が飾られている。



萱の御所跡の碑は、清盛橋を渡ってすぐの薬仙寺境内にある。


その二~福原

 治承四年(1180年)六月、清盛は突如、安徳天皇をはじめ高倉上皇、後白河法皇、中宮徳子や平氏一門、公卿・殿上人を伴い、福原に向かいます。世にいう「福原遷都」です。上皇や貴族、平家一門すら遷都への反対を表明する中、清盛は私邸を安徳天皇の内裏として提供し、公卿たちに宅地を与えて邸宅の造成を進めるなど、遷都を既成事実化を進めました。しかし清盛畢生の大事業も、八月、伊豆で勃発した源頼朝の反乱、それに続く全国的な内乱の勃発によってとん挫し、十一月、清盛によって京への還都が命じられるのです。清盛の夢の跡「福原京」を探訪します。









湊山小学校の北側に建てられた雪見御所跡の碑。福原にあった清盛の複数の邸宅の一つに雪見御所があり、現在の雪御所町がそのあたりと考えられている。明治末の発掘調査によって同校の校庭から疎石や土器が発掘された。




石碑は湊山小学校の校庭から発掘された石を使って明治四十一年に作られた。当時の御所の庭石に使われていたものと考えられている。右は同校の校庭に置かれていた頃の碑の様子。平成十七年(2005年)のNHK大河ドラマ「義経」の放映に際して校外に移された。



湊山小学校の東に位置する平野交差点に建てられた清盛像。平成二十四年(2012年)六月、
平野商店街振興組合と平清盛像建立実行委員会により建てられた。



大河ドラマ「清盛」放映時の熱気を今に伝える平野商店街。
周辺は祇園神社や湊山温泉など平家ゆかりの見所が多い


平野商店街では
同地のゆるキャラ
「きよもん」の旗が
いたるところで
はためいている。




かつての福原の中心地であった祇園遺跡。平成六年(1993年)の有馬街道拡幅工事の際に発掘され、平成十七年(2005年)まで発掘調査がつづけられた。庭園の池や排水路、石垣の遺構のほか、京都産の瓦や土師器、中国産の青磁・白磁などが多数出土しており、平家の有力者の邸宅と考えられている。







平成二十三年(2011年)、平野交差点にほど近いトーホーストア平野祇園店建設工事現場で発掘された出土品。平安時代後期の日宋貿易によってもたらされたと思われる青磁・白磁や京都産の土師器などが発掘された。同店二階で常設展示されている。





九世紀創建と伝えられる兵庫区上祇園町の祇園神社。清盛はこの裏山にあった潮音山上伽寺で
潮騒の音を聞きながら大輪田泊の築造計画を練ったと言われている。


スサノオノミコトを姫路の広峰神社から京の北白川の東光寺に分霊する途中、神輿が泊ったところに神社を立てたと伝えられる。右は境内から見た平野の町並みと有馬街道。










清盛が雪見御所から牛車で通ったといわれる「湯屋」は、現在の湊山温泉付近にあったといわれる。湯屋は沸かし湯を浴びて垢を洗い落とす浴室。治承三年(1179年)六月、中山忠親も清盛に呼び出されて湯屋で対面したことが日記『山槐記』に記されている。



こちらは平野交差点の南側、有馬街道沿いの阪急バス停留所前に建てられた清盛像。平野交差点のりりしい武者象とは対照的な法体姿で、音戸の瀬戸の日招き像を模している。



左は平教盛の別邸があったといわれている氷室神社。福原遷都の折は後白河法皇がここに御幸した。この地の氷室から仁徳天皇に氷が献上されたことから氷室神社と呼ばれ、『平家物語』の一ノ谷の戦いの舞台にもなった。右は「夢野の厄神さん」として親しまれている夢野八幡神社。治承元年(1177年)に福原の守護神として創建された。福原京の造営にあたっては、福原が見渡せるこの地で狼煙をあげて新都の位置を測定したと伝えられている。











後白河法皇が勧請したと
伝えられる熊野神社。
雪見御所を見下ろす
高台に建てられている。




平頼盛が別邸を構えていた場所に鎮座する荒田八幡神社。もとは高田神社と呼ばれ熊野権現を
祀っていたが、明治期に近くの宝地院境内の八幡神を合祀して現名称に改めた。



頼盛邸では高倉上皇の厳島御幸の折、笠懸や流鏑馬が催されており、馬場を備えた広い邸宅だったことが知られる。右は安徳天皇行在所趾(平頼盛山荘趾)の碑。



同じく荒田八幡神社の
境内にある福原遷都
八百年記念之碑




宝地院は安徳天皇の菩提を弔うために室町時代に建てられた。現在は保育園を兼ねている。



頼盛邸推定地の上に立つ神戸大学医学部付属病院の立体駐車場。昭和五十六年(1981年)の発掘調査で大型掘立柱建物の柱跡や東西に並行する二重壕の一部が発掘され、平成十五年(2003年)には、さらにこの二重濠が三十九メートルにわたって検出された。現在は砂で埋め戻し、駐車場の地下一、二メートルの深さで「保存」されている。今は入口付近に説明板が掲示されるのみ(左)。











福原遷都の際、清盛は福原京の北方に
京都の北野天満宮を勧請した。現在は、
北野異人館の風見鶏の館を見下ろす
位置に建っている。





新神戸駅の北側にある布引の滝。新神戸ロープウエーに乗れば、滝を眼下に臨むことができる(右)。平治の乱で捕らえられた悪源太義平は、六条河原で斬首される間際、執行人である難波三郎経房にむかって「必雷と成て、蹴ころさんずるぞ」と予言した。果たして、仁安三年(1168年)七月、平氏一門と共に布引の滝に遊山に来た経房は、突如現れた雷に打たれて落命したという。



布引の滝は日光の華厳の滝、紀州の那智の滝と並んで日本三大神瀑に数えられる名瀑。平安時代より景勝地として知られ、幾多の皇族・貴族が訪れた。山道には布引の滝を読んだ三十六首の歌碑が建てられている。写真は左から藤原忠通、藤原俊成、後鳥羽院のもの。
福原みやげ「能福寺絵はがき」
 平家グッズ不毛の地・神戸においては、やはり定番の絵はがきしかないでしょう。能福寺の絵はがきは6枚入り。ただし清盛関係は、平相国廟と近所にある清盛塚の2枚だけで、ちょっと寂しいですね。あとは兵庫大仏や本堂の月輪影殿など。平相国廟はバックに不思議な画像処理が施されています。




●参考文献
日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)


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