政治、軍事、芸能…、多方面に才を発揮した忠盛

 「しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏をすえ奉る。(中略)上皇御感のあまりに、内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始て昇殿す」。
 平家の栄華の始まりを描いた、有名な『平家物語』巻一の「殿上闇討」の冒頭部分です。桓武平氏の末裔とはいいながら、国香(貞盛の父)から正盛までは単なる受領でしかなかった平氏が、忠盛の代に至って、ついに殿上人にまで登り詰めた。その記念すべき出来事が、物語の中で「平家の栄華の出発点」として印象的に語り出されています。
 実際、平忠盛という人物を紹介するときには決まって「武士として始めて昇殿を許された」という説明が入ります。それは忠盛の「内昇殿」が、平氏に限らず広く武士一般の地位向上を象徴する出来事だと認識されているからでしょう。しかし、忠盛は単に武力や財力だけに頼って出世を勝ち取っただけではありませんでした。もちろん正盛以来の院の近臣、北面の武士としての功績は欠かせない要素ですが、それに加えて、忠盛は和歌や舞など、宮廷人としての素養をも身につけていたのです。
 後世、平家の公達には忠度のように和歌に長けた者もいれば、経正や敦盛のように管弦をよくする風流人もおり、かつ知盛や教経のような勇武の士もありました。多彩な才能を開花させた一族の先祖にふさわしく、忠盛も政治や軍事、芸術と多方面に才能を発揮しました。だからこそ、忠盛は朝廷において大きな足跡を残し得たのであり、それを単に武士の地位向上に置き換えてしまうと、忠盛個人の才能や努力を見落としてしまうことになります。正盛の引いたレールを継承・発展させながら、清盛の代に極まる平家栄華の土台を作り上げた功績は、あまりにも大きなものでした。

南都北嶺の強訴に対し京洛の防衛に当たる

 院の近臣として重用された父正盛の引き立てにより、忠盛も若い頃から武勇を発揮する機会に恵まれました。最初に確認できる活躍は、永久元年(1113年)三月の盗賊・夏焼太夫の捕縛で、このとき忠盛は十八歳。夏焼太夫は、宮廷の蔵に侵入して御物を奪うほどの大胆不敵な盗賊でしたが、忠盛は郎等を引き連れて太夫の宿所を襲撃、郎等二人に重傷を負わされたものの、見事これを取り押さえました。この功により、忠盛は従五位下に叙されます。
 また、この頃頻発した南都北嶺の強訴に際して、僧兵の鎮圧や京の防衛に当たることも多かったようです。夏焼太夫捕縛の半月ほど後、清水寺別当の任命を巡って興福寺・延暦寺の強訴事件が勃発した際には、興福寺大衆の入洛に備え、正盛と共に宇治を防衛。京で興福寺の要求を容れるかどうかの卜が行われている間に、宇治の一の坂南原において合戦におよび、南都大衆を奈良に押し返すことに成功します。さらに保安四年(1123年)には、延暦寺の僧兵を鎮圧し、この功により越前守に任官されています。
 ちなみに、この間の元永元年(1118年)に嫡子清盛が出生、保安元年(1120年)七月には清盛の母と考えられている忠盛の妻が亡くなっています。喜びや悲しみを背負いつつ、忠盛にとっては人間的な成長を遂げていく時期だったといえそうです。

海賊討伐は武功を誇示する最大の見せ場

 京洛の防衛もさることながら、忠盛の武功が最大限に発揮されたのは、何といっても南海・西海における数度の賊徒討伐でした。まず大治四年(1129年)三月、当時備前守だった忠盛は白河法皇の院宣により山陽・南海道の海賊追補使に任命され、数十艘の船で瀬戸内海を荒らしていた海賊の鎮圧に当たります。ただ、討伐の首尾がどうだったのかは、勧賞が行われていないために不明です。同年七月に白河法皇が崩御するという一大事が出来したためにうやむやとなってしまったのか、追討自体が失敗したのか。一説によると、瀬戸内の海賊(在地武士)を自己の勢力下に治めるために、ありもしない海賊の脅威を喧伝し追討の院宣を要求したともいわれています。しかし、海賊の横行自体が忠盛のでっちあげだったとしても、瀬戸内海の海賊追討使に任命されるほど(任命自体に周囲が納得するほど)、忠盛および平氏の勢力が西国一帯に浸透していたことは間違いありません。
 その証拠に、保延元年(1135年)の海賊蜂起の際には平忠盛と源為義が追討使の候補に挙げられましたが、公卿の多くは「西海に勢有る」(『長秋記』)として、忠盛を追討使に推しましたといいます。『中右記』によれば、この時、鳥羽上皇も「為義を派遣すると路次の国々は滅亡する」として忠盛を支持しました。
 保延元年の海賊討伐は忠盛の武勇を高めると共に、正盛の源義親追討にも似た疑惑を生むことになります。同年八月、海賊を鎮撫し凱旋した忠盛は、首領の日高禅師をはじめ七十余名の海賊を連行しますが、三十名を人目に付く河原において検非違使に引き渡し、残りの四十人は人目に付かないところで引き渡したそうです。そのため『中右記』では、忠盛が捕らえた海賊は、その多くが海賊ではなく、西国の在地武士のうち忠盛の家人ではないものを捕虜の賊に仕立てたのだろうと推測しています。残りの四十人は、即刻釈放されたのかも知れません。海賊追討にことよせて、西国の在地武士を勢力下に組み入れるだけでなく、凱旋パレードにおいて武勇を誇示する政略は、正盛以来平氏のお家芸になっていたようです。
 ちなみに、この追討の功により、忠盛の嫡男・清盛が従四位下に叙されています。清盛が海賊追討に従軍したかどうかは定かではありませんが、この時すでに十八才であり、父と共に西国に赴いた可能性は高いと考えられます。

殿上人を志向し和歌や舞の素養を習得

 ところで、忠盛が最初の海賊討伐を命じられた大治四年(1129年)、崩御した白河院に代わって鳥羽院による院政が開始されています。新たに「治天の君」となった鳥羽上皇は、白河院政への反発から前政権の近臣の多くを退けますが、そうした中においても、忠盛は御厩預の地位を命じられたり、待賢門院や祇園女御への成功により鳥羽院政最初の叙位で正四位下に叙せられるなど、引き続き院の近臣として重用され続けます。鳥羽院自身も平氏の武力と忠盛の政治手腕を高く評価していたからなのでしょうが、時代の分岐点において、忠盛はさらなる発展への足がかりを得ることに成功したといえるでしょう。
 鳥羽院の信任の厚さを示す最大のエピソードは、前述の「内昇殿」にほかなりません。長承元年(1132年)、忠盛は鳥羽院御願の千体観音堂(得長寿院。中央に丈六の観音像を安置し、その左右に五百体の観音像を建てたもので、御堂は三十三間におよぶ。清盛の建てた蓮華王院はこれをならったもの)を造営し、その功により内裏清涼殿への昇殿を許され、晴れて殿上人となりました。宣旨のあった十日後、忠盛は藤原宗忠に会い「今日始めて御前に奉仕する」と語っており、それを聞いた宗忠は「未曾有の事」としてその驚きを日記に記しています。得意の絶頂にある忠盛の姿が目に浮かぶようです。
 もっとも、忠盛の心中は察して余りあるものがあります。忠盛は、武門の棟梁として武功を上げるだけでなく、舞や和歌など宮廷人としての素養を身につける努力も怠りませんでした。清盛が生まれた翌年の元永二年(1119年)、忠盛は賀茂臨時祭に舞人として奉仕しますが、その姿を見た藤原宗忠は「舞人の道に光華を施し」たと絶賛しているほどです。和歌についてはさらに精進を重ねたようで、『平忠盛朝臣集』を編むほどの和歌を残したほか、『金葉集』にも入集しています。鳥羽上皇の「明石の月はどうか」との問いに対して、即座に「有明の月もあかしのうら風に なみばかりこそよるとみえしか」という名歌で答え、上皇の御感に預かったこともありました。そして、忠盛の昇殿に対する思いを表しているのが、『金葉和歌集』所収の「思ひきや雲井の月をよそにみて 心の闇にまどふべしとや」の歌です。「雲井」とは宮中を雲の彼方に見立てた比喩。殿上人になれず心が晴れない胸の内を和歌に託すほど、「内昇殿」に対する忠盛の思いは強かったのです。
 殿上人となった忠盛に対する貴族の嫉妬は激しく、その様子は『平家物語』の「殿上闇討」に詳細に語られています。その年の十一月の豊明の節会(新嘗祭の最終日に行われる宴会)で貴族たちが自分に危害を加えようとしている事を知った忠盛は、銀箔を張った木刀を懐に忍ばせて襲撃者を牽制しますが、天皇の御前で舞を披露している最中に「伊勢平氏はすがめなりけり」と嘲笑され、悔しい思いを抱くのです。後年、清盛が位人臣を極めたことを誰よりも喜んだのは、草葉の陰から見守る忠盛だったに違いありません。忠盛在世時の平氏は、まだ地下人と蔑まれていた武士のイメージを払拭しきれないでいたのでした。

日宋貿易で巨万の富を得る

 武門としての名声、宮廷人としての地位のほかに、忠盛がもう一つ手に入れたものが、日宋貿易を通して得た圧倒的な財力でした。
 寛平六年(894年)の遣唐使廃止以降、太宰府が大陸や朝鮮半島との貿易の管理を行っていました。唐の商船が博多に入港すると朝廷から「唐物使」が派遣され、朝廷による舶来品の買い付けが行われた後、民間人が交易を行うことが許されるというシステム。唐の舶来品に目がない京の貴族の中には、自ら太宰府に使いを派遣し、唐物使の取引が終わる前に舶来品を買いあさる者もいるほど、唐物は人気がありました。それだけに、貿易の利益は途方もなく大きく、11世紀頃には唐物使による官営貿易は形骸化し、太宰府の役人が私貿易により私腹を肥やすようになったといいます。さらに院政期には、九州沿岸の荘園領主が宋船を自領に招き入れ、直接交易を行うようになっていました。


太宰府政庁跡

 忠盛による日宋貿易の関与を物語るエピソードが『長秋記』に記されています。長承二年(1133年)、九州に来着した宋の交易船と太宰府の官人が交易をしていたところ、忠盛が自分で作った下文を院宣であると偽って、「宋船が来着したのは院領の神崎荘領であるから太宰府は関与してはならない」と、即刻交易を中止させたのです(宋船が来着した場所が、有明海に臨む神崎荘そのものか、博多にあった神崎荘の所領なのかは不明ですが、最初に交易を始めたのが太宰府の官人だったことから、後者であると考えられます)。当時、忠盛は鳥羽院の院司で、後院領(院が直接管轄する荘園)である神崎荘を知行していました。偽の院宣を作成してまで官の干渉を排除した意図は何かというと、それは私貿易を展開するために他なりません。宋船が来着した時、忠盛は京にいたと推定されており、在京中も常に九州における宋船の動向に目を配るほど、貿易に対して熱意を持っていたのです。
 忠盛が神崎荘の知行を望んだのは、日宋貿易を進めるためであることはいうまでもありませんが、そもそも忠盛が外国貿易に目を付けたきっかけは何だったのでしょうか。前述のように、保安四年(1123年)に忠盛は越前守になりました。宋の船は博多だけでなく、越前国敦賀にまで足を延ばして貿易を行うこともあったといい、越前守在任の経験から、貿易の利に着目するようになったのでしょう。そして、より本格的な貿易に乗り出すために、九州での貿易の足がかりとして神崎荘の知行を望んだものと思われます。

忠盛から清盛へ

 その才覚と努力によって平家の武力・財力・家格を飛躍的に高めた忠盛。受領としては伯耆、越前、備前、美作、播磨と西国の大国を歴任、官職は中務大輔、右京大夫、右馬頭、待賢門院の政所別当、美福門院の院庁別当、内蔵頭など数々の顕官を務めました。そして、仁平三年(1153年)に死去したときは、正四位上刑部卿にまで達していました。刑部卿といえば太政官を構成する八省の一つ刑部省(罪人の収監や事件の訴訟などを扱う役所)の長官であり、正四位上といえばその上はもう公卿しかありません。もう少し長生きをしていれば、「武士として初めて昇殿を許された」忠盛は、あるいは「武士として初めて公卿に列せられた」人物として歴史に名を残したかもしれません。
 忠盛の死については、かの悪左府・藤原頼長が日記に記しています。「数国の吏を経て富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ、しかれども人となり恭倹にして、いまだかつて奢侈の行あらず。時人これを惜む」。巨万の富をなし武名を恣にしながら、奢ることなく鳥羽院に仕え巧みに宮廷を遊泳した忠盛の姿を端的に伝えているといえるでしょう。
 忠盛の死の三年後、「武者の世」の到来を告げる保元の乱が勃発、忠盛から家督を引き継いだ清盛のもと、平氏一門は未曾有の発展を遂げることになります。ただ、それは清盛が一朝一夕に築き上げたものではなく、時代が大きな転換点を迎える中、清盛が忠盛の路線をしっかりと継承したからこそなし得た快挙にほかなりません。平家の栄華は、忠盛・清盛の二代が築き上げたといっても、言い過ぎではないのです。



●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 安田元久著『権勢の政治家 平清盛』(清水書院)/ 竹内理三著『日本の歴史6 武士の登場』(中公文庫)/ 和田英松著『官職要解』(講談社学術文庫)/梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)


Copyright(C)Misturu Nakamaru