平忠常の乱をきっかけに、維衡流が台頭

 後三条天皇や白河天皇に仕え、当代随一の学者であった大江匡房は『続本朝往生伝』のなかで、一条朝の代表的な武士として、源満仲・満正・頼光、平致頼(良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも)とともに平維衡を挙げています。朝廷の支えとして、一条天皇がとくに頼りにしていた「天下の一物」というわけです。さらに、鎌倉時代に成立した少年教訓のための説話集『十訓抄』にも「頼信、保昌、維衡、致頼とて、世に勝れたる四人の武士」と伝えられています。
 維衡は貞盛の子で(『今昔物語』では孫)、伊勢平氏の祖といわれる人物です。これまで見てきたとおり、この系統の桓武平氏は平高望以来、坂東を基盤として発展して来ました。しかし、平家物語「殿上闇討」で清盛の父・忠盛が「伊勢平氏(瓶子)はすがめ(酢瓶)なりけり」とからかわれたという有名な説話からもわかるように、いつの頃からか平氏一族の中で伊勢を基盤とする者が現れ、忠盛・清盛の時代には「伊勢平氏」が定着していたのです。そのもとを築いたのが維衡だったのですが、坂東を基盤とした平氏の一族の中で、なぜ維衡が伊勢を根拠とするようになったのかは分かっていません。
 もともと維衡の系統は、貞盛流平氏の嫡流ではありませんでした。貞盛の嫡流は維衡の兄・維将、その息子の維時(後に貞盛の養子になる)へと受け継がれ、彼らは京に進出するとともに坂東諸国の受領を歴任し繁栄しました。長元元年(1028年)、平忠常(武蔵国を地盤とした村岡五郎良文〈平将門の叔父〉の孫)の乱が勃発すると、維時の息子で当時、検非違使右衛門尉だった直方が追討使に任命されました。直方は後の鎌倉幕府で代々執権を務めた北条氏の祖といわれる人物で、当時「極めたる兵」と評されるほどの武士でした。しかし、忠常の頑強な抵抗の前に乱を鎮圧することはできず、直方は召還され、その後任として派遣された清和源氏の源頼信(八幡太郎義家の祖父)が乱の鎮圧に成功したことで、坂東での源氏の影響力が強まるのです。それに伴い、貞盛流平氏の中心も、維時・直方流から維衡の系統に移っていきました。

維衡の伊勢守の任期はわずか二ヶ月

 維衡も他の貞盛流平氏と同様、坂東と深い関係を持っており、998年~1021年にかけて下野守、上野介、常陸介などを歴任しました。そして、下野守と上野介の間の寛弘三年(1006年)に伊勢守に任ぜられ、それを機に伊勢国内に所領を開発し、「伊勢平氏」としての地盤をつくったといわれています。しかし、維衡の伊勢守としての任期はわずか二ヶ月間でした。はたしてこの短期間のうちに、後世「伊勢平氏」と呼ばれるほどの基盤を作り上げることができたのでしょうか。
 その疑問に答える記述が、藤原行成の日記『権記』に残っています。同記の長徳四年(998年)十二月の記事にある、下野守維衡と散位致頼(良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも)が伊勢国の神郡で私合戦を行い、住民に迷惑をかけているという記事がそれです。先述したように、維衡の伊勢守任命はこれより八年後の寛弘三年(1006年)ですから、このことから維衡と伊勢国との関係は、伊勢守任命前からだったことがわかります。『今昔物語集』によると、伊勢国で武芸を競い合っていた両者を中傷する者がいたことから合戦が始まったということですが、当時の武士が武名を何よりも重んじ、命をかけてこれを守り抜こうとしていたことがわかります。
 合戦の舞台となった「神郡」とは伊勢神宮領のことで、度会・多気・飯野・員弁・三重・安濃の六郡があり、このうちのいずれかに維衡は在住していたようです。そもそも、当時の朝廷では五位以上の者が許可なく畿外に出ることを禁じており、維衡は当時四位だったにもかかわらず、下野でも京都でもない、伊勢国において合戦を繰り広げていたのでした。伊勢に基盤がない限り、このような長期にわたる合戦(親子二代に渡って続いた)を続けることは困難だったはずです。

親子二代にわたる係争を経て“伊勢平氏”が成立

 さて、この『権記』の記事は、当時右大弁だった行成が藤原道長に相談した政務上の問題のひとつで、行成は道長に、伊勢神宮司と国司に命じて二人を京に追い上らせるべきだ、と言上しています。そこで、朝廷は二人に召喚状を出して検非違使の庁に出頭させ、ことの次第を詰問しました。維衡との合戦において有利にことを運んでいた致頼は非を認めなかったのに対して、維衡は過状(詫び状)を提出しました。両者の対応の違いは朝廷の裁定にもあらわれ、長保元年(999年)十二月、致頼が位をはく奪されて隠岐に流されたのに対し、維衡は位をそのままに淡路への移配にとどまりました。そして、維衡は間もなく許されて京に戻り、三年後には致頼も召還されて元の五位に復したのです。
 このような状況の中、寛弘三年(1006年)に右大臣・藤原顕光の推挙により、維衡は伊勢守に任ぜられますが、前述のとおり二ヶ月で解任されます。もともと、先のようなもめ事を起こした維衡ですから、時の左大臣・藤原道長は維衡の伊勢守就任には反対だったのです。ところが、任官の手続きの段階で、過って維衡の名が書き入れられ、天皇の裁可まで降りてしまいました。そうなった以上、道長といえども決定を覆すことはできず、そのため、このような短期の任官になったものと思われます。
 維衡と致頼の争いは、この代では決着がつかず、それぞれの息子である正輔、致経へと受け継がれていきます。折しも、平忠常の乱が房総半島を席巻していた時で、乱のあおりをくって安房国を追われた国司に代わって正輔が安房守に任ぜられていました。しかし、致経の妨害を受けたため赴任することができず、多くの戦死者を出すほどの合戦を伊勢国内で続けなければなりませんでした。
 結局、泥沼の争いに終止符が打たれるのは、致経が比叡山の横川にこもって出家し、治安三年(1023年)に没した時でした。致経の出家の原因は不明ですが、これにより伊勢における維衡流の地位は安定し、ここに“伊勢平氏”が成立するのです。

伊勢を中心に武士団を形成

 その後、致経との合戦が朝廷での心証を悪くしたものか、正輔は伊勢平氏の本流からはずれ、正度の系統が台頭してきます。正度は越前守になっており、子息の維盛・季衡・正衡らも、検非違使を経て受領に任ぜられ、中央では南都北嶺の強訴鎮圧に活躍しています。同時に、伊勢はもちろん伊賀や尾張まで勢力をのばし、おのおのが国内の地名を名乗り、本拠地における勢力基盤を強固にしていました。そして、在地の人々との主従関係をテコに、伊勢平氏の武士団を形成していったのです。
 とはいえ、この頃はすでに前九年の役・後三年の役を制した源頼義やその息子の義家が圧倒的な武名をはせており、伊勢平氏などは源氏の影に隠れた存在でしかありませんでした。義家が「天下第一武勇之士」とたたえられ、諸国の百姓から貴族並みに荘園の寄進を受けていたのに対し、平氏一族は内裏へ乱入した熊野先達を捕らえたり、盗賊を追捕して位を上げるといったことが関の山でした。
 しかし、そんな伊勢平氏も、正度の孫・正盛の代になって飛躍的な発展を遂げることになります。時は、稀代の独裁者・白河法皇の院政期、政治や権力の構造が大きく変わろうとしていた時期でした。


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●参考文献
下向井龍彦著『日本の歴史07 武士の成長と院政』(講談社)/ 竹内理三著『日本の歴史6 武士の登場』(中公文庫)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)


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