平家物語で該当する章段:巻一「鹿谷」「俊寛沙汰 鵜川軍」「御輿振」「内裏炎上」、巻二「座主流」「一行阿闍梨之沙汰」「西光被斬」「小教訓」「少将乞請」「教訓状」「烽火之沙汰」「大納言流罪」「大納言死去」
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平家打倒の謀議はあったのか

 鹿ケ谷事件は平家に対する反発が具体的な形となって表れた最初の事件としてよく知られている。『平家物語』によると、安元三年(1177年)五月二十九日、摂津源氏の多田蔵人行綱が東山鹿ケ谷の山荘における院の近臣による平家打倒の謀議を密告。驚いた清盛は院の近臣である西光法師、藤原成親・成経父子、平判官康頼、俊寛僧都ら、謀議にあずかったとされる院の近臣を捕縛し、斬首あるいは流刑に処した。
 この政変により多くの院の近臣が処分されたことは事実であるが、はたして行綱が密告したような「平家打倒の謀議」が実際にあったのか疑問が残る。というのも、謀議が露見したタイミングがあまりにも平家にとって都合が良かったからだ。以下『平家物語』の記述を離れて、史実としての「鹿ケ谷事件」の経過を追ってみたい。

発端は比叡山の強訴

 当時、後白河法皇と比叡山とは抜き差しならない対立関係に陥っていた。事の発端は、加賀守・藤原師高と弟で目代の師経が延暦寺の末寺と所領問題を起こし、師経が末寺を焼き払ったことにあった。延暦寺は師高の配流を求めたが、師高が法皇第一の近臣の西光法師であったことから、後白河は師経だけを配流にしてお茶を濁そうとした。しかし大衆は納得せず、四月十三日、日吉社や祇園社の神輿を奉じて高倉天皇の閑院内裏に押し寄せた。このとき、後白河の院宣により内裏を警備していた平重盛の軍兵の放った矢が神輿の一つに命中、大衆にも死傷者が出る事態に発展。怒った大衆は神輿を置き去りにして帰山したうえで、ふたたび強訴を行う動きを見せた。四月二十日、後白河は神輿を射させた責任から、やむなく師高を尾張へ配流に処し、神輿を射た武士を禁獄した。
 しかし、これで引き下がる後白河ではなかった。五月四日、大衆の強訴は座主である明雲の責任であるとしてその身柄を監禁し、座主職の解任と所領の没収を断行した。二十日、明雲の罪名を決める陣定(じんのさだめ)が開かれ、公卿たちにより明雲の還俗・流罪を猶予する決定が下されたが、後白河はこれを無視して独断で明雲の伊豆配流を決めた。
 これに対して延暦寺の大衆は二十三日、伊豆へ護送途中の明雲を近江の瀬田橋の付近で奪い取り比叡山に連れ帰るという強硬策に出た。怒った後白河は左大将・重盛、右大将・宗盛に坂本への出撃を命じたが、両人は清盛の指図に従うと述べてこれを固辞。だが、あくまで比叡山を攻めたい後白河は、二十四日、知盛の腹心である平家長を使者として福原に派遣し、その二日後の二十七日、清盛自ら上洛する運びとなった。翌日、院御所で後白河と対面した清盛は、比叡山への武力攻撃を命じる後白河の要請をしぶしぶ了承する。

清盛を「危うくすべき」計画が露見

 清盛がこの措置に不満であったことは、『玉葉』に「入道内心悦ばず」とあることからもうかがえる。天台座主・明雲は清盛が出家する際、受戒役を引きうけてくれた人物である。また、清盛が若かりし頃、家人が延暦寺の末社である祇園社の神人と乱闘事件を起こし、比叡山の強訴を招いたことも教訓となっていたであろう。清盛と平家にとって、比叡山を敵に回して得るものは何もないのだ。だが、政界一の実力者である清盛も、治天の君である後白河直々の指令を拒むわけにはいかなかった。この時、清盛は窮地に立たされていたといっていい。
 ところが、比叡山攻撃を間近に控えた六月一日、事態は急変した。明け方、西光が明雲を讒言したかどで捕縛され、拷問の末「入道相国(清盛)を危うくすべきの由、法皇および近臣等、謀議せしむるの由」を白状し、六月二日未明、五条坊門朱雀で斬首された。藤原成親・成経父子も捕縛されて西八条に押し込められ、翌日成親は備前へ配流、流刑地で殺害された。三日夜には法勝寺執行・俊寛僧都のほか、中原基兼、平資行、平康頼らが次々と捕えられ、このうち俊寛と康頼、および成経が鬼界ヶ島に流された。六日には明雲の赦免が決定され、比叡山への武力攻撃は未然に回避されたのであった。

多田行綱は密告者か?

 以上が当時の記録類等から知られる事件のあらましである。『平家物語』に記すところと大枠で一致しているが、不審な点も少なくない。最大の謎は「密告者」の存在である。
 『平家物語』によると、事件が露見したのは多田蔵人行綱の密告によってであった。これは慈円の『愚管抄』をはじめ、鎌倉時代初期に成立した『六代勝事記』や鎌倉後期成立の『百練抄』にも記されている。 しかし、清盛ができれば避けたいと考えていた比叡山攻撃の直前の密告は、あまりにもタイミングが良すぎる。神祇伯・顕広王の日記によると、清盛の上洛は後白河が派遣した平家長の福原下向がきっかけであり、行綱が福原へ赴き謀議をもらしたという『愚管抄』の記述と異なる。また、行綱が密告者であれば、後白河の逆鱗に触れてその後の京で活動は制約されるはずだが、実際にはその後も後白河の命により京や摂津で軍事活動に従事しており、木曾義仲との法住寺合戦の際も後白河方の武力として戦っている。行綱の密告という線は薄いといわざるをえない。
 山荘を提供したのは誰かという問題もある。『平家物語』によると鹿ケ谷の謀議の場所は俊寛僧都の山荘とあり、今も鹿ケ谷の山中に「俊寛僧都忠誠之碑」なる石碑があるが、『愚管抄』によると蓮華王院の執行である静賢法印の山荘であったという。しかし、事件直後の人事で静賢が俊寛の後任として法勝寺の執行に任命されているのを見ると、山荘の所有者が静賢というのにも疑問が残る。静賢は何事につけても控えめで誠意ある人柄であったようで、清盛とも懇意であったことから、謀議の場を提供したことは不問に付されたのかもしれない。

清盛が仕組んだ政変

 もう一つの疑問は、鹿ケ谷における「平家打倒の謀議」は本当にあったのかどうかということである。前述のように、『玉葉』に伝聞情報として「入道相国(清盛)を危うくすべきの由」を白状したとあり、『愚管抄』にも「成親、西光、俊寛ナドアツマリテ、ヤウヤウノ議ヲシケル」とあるから、何らかの謀議はあったようである。
 だが、それは平家を武力で排除するような計画だったのだろうか。捕えられた人物の中には検非違使の康頼や惟宗信房などの武官もいたが、その戦力は微々たるものであろう。よしんば摂津源氏の有力者である行綱が謀反に加担していたとしても、平家の兵力に匹敵するはずもないことは、軽率な院の近臣にも分かるはずだ。ましてや、この時京中には比叡山強訴への対応で平家の軍兵がひしめいていたのである。
 武力によって平家を傾けようとしたとすれば、院の近臣が期待したのは比叡山の大衆ではなかったか。平家軍に比叡山を攻撃させることで、大衆の怒りの矛先を平家に向けるとともに、武力衝突による平家の戦力の損耗を期待したと考えられはしないだろうか。後白河をそそのかし平家と比叡山を衝突させることが、「平家打倒」の計画そのものだったのかもしれない。
 もちろん、「謀議」の内容は全く違うものだったかもしれない。それこそ『平家物語』のいうような酒宴における乱痴気騒ぎ程度のことであった可能性も高い。『平家物語』では謀議の席で法皇や成親、西光が猿楽に興じている様が描かれているが、猿楽は政治批判につながることが多く、酒の勢いも手伝って平家への不満が表面化したのかもしれない。だが、比叡山攻撃を回避したい清盛にとって、それはどうでもよいことであった。西光ら院の近臣を処分する口実さえあればよかったのだ。すなわち「鹿ケ谷事件」は『平家物語』のいうような、比叡山攻撃の直前に、たまたま平家打倒の謀議が露見し、近臣の一斉摘発に至ったわけではなく、攻撃を阻止して比叡山に恩を売ると同時に、平家に害をなす近臣勢力を一網打尽にするべく清盛が仕組んだ政変とみるべきである。

重盛の教訓状

 もう一つ、鹿ケ谷事件においてよく知られているエピソードに重盛の「教訓状」がある。後白河が謀議に加担していることを知った清盛が法皇を幽閉しようとするが、重盛の諌止によって思いとどまるというものである。しかし、鹿ケ谷事件の時点で清盛に法皇を幽閉する意図はなく、重盛の聖人君子ぶりを強調することで清盛の横暴を際立たせようとする『平家物語』の演出であることは明らかだ。重盛は成親の妹を妻にしている弱みがあり、清盛を諌止できる立場にはなかった。事件直後に重盛が左大将を辞任しているのも、そのことと無関係ではないだろう。
 この時、清盛が後白河を幽閉しなかったのは、治天の君が不在になることで院政を行う主体がいなくなることを避けたかったからといわれる。あるいは西光が白状した謀議の内容が、後白河を幽閉するには根拠薄弱だったのかもしれない。歴史的事件としてとらえられてきた『平家物語』の「鹿ケ谷事件」にも、平家のおごりや清盛の横暴を際立たせるための演出が多分に施されていたのである。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 丸山二郎校註『愚管抄』(岩波文庫)/ 河合康著『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)/ 高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)/ 五味文彦著『人物叢書 平清盛』(吉川弘文館)/ 元木泰雄著『平清盛の闘い』(角川書店)/ 下向井龍彦著『日本の歴史07 武士の成長と院政』(講談社)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)


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