平家物語で該当する章段:巻一「殿下乗合」
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執拗に基房をつけ狙う重盛

 平家物語の創作した虚構のうち、これがもっとも有名なのではないだろうか。平家物語の常套表現の一つとして、二人の人物を比較して、その一方を賞賛することでもう一方を貶めるというやり方がある。もっとも典型的なのは横紙破りの清盛と功臣の重盛という構図。これは平家物語巻二の鹿ヶ谷事件における「小教訓」「教訓状」などの章に顕著である。そのほか、清盛なき後の平家の惣領である宗盛の愚鈍と弟知盛の聡明もある。この殿下乗合事件も、そのようなイデオロギーのもとに事実をねじ曲げられた事件の一つといえる。また、平家物語には事件の因果関係を際立たせるために日付の改変も多く、この話も実際は七月三日に起きている。当時の貴族の日記によると、事件の経過は以下のようなものだったらしい。
 その日は法勝寺の法華八講の初日で、基房は法勝寺に参る途中だったという。そこで基房の行列は女車に乗った資盛と出会ったのである。基房の舎人や居飼が資盛の車の無礼をとがめ、資盛の車をうち破るなどの恥辱を与えた。それが重盛の子であることを知り驚いた基房は、乱暴を働いた舎人や居飼を重盛に引き渡し、勘当することで事件に決着を付けようとした。しかし、重盛の怒りは基房の想像以上に激しく、重盛はそれを返上した。その程度の処置では済まさない、ということだったのである。報復を恐れた基房はさらに七月五日、随身や前駈七人を勘当し厩政所に下したり、舎人や居飼を検非違使に引き渡したりなどした。
 それでも、重盛の怒りはおさまらなかった。七月十五日に基房は法成寺に参詣する予定だったが、二条京極辺に重盛の兵が群集して基房を待ち受けているとの情報が入ったため、参詣を中止してもいる。そして、その三ヶ月後の十月二十一日、高倉天皇の元服定のために参内する基房の行列を、重盛の侍が襲撃した。前駈五人が馬から引きずり落とされ、四人が“もとどり”を切られた。当時において、もとどりを切られるということは非常な恥辱であった。基房は参内を中止せざるを得ず、当然朝議は延期された。その後二十四日には重盛、基房が共に参内しているが、この時は重盛の方が報復を恐れて、多数の武士を引き連れていたという。

息子の尻拭いをすることになった清盛

 つまり、事件の首謀者は清盛ではなく嫡子の重盛であり、またそれによって恐縮したのが重盛ではなく基房の方であったことがわかる。当然、資盛の態度に怒った重盛が、資盛を伊勢国に蟄居を命じたということもなかったのだろう。、資盛は承安元年四月に、越前守を重任しているからである。では実際、この時清盛はどうしていたのだろうか。
 九条兼実の日記『玉葉』によると、九月二十日、十月三十日には清盛は福原の別邸にいたらしい。つまり、事件の起こった十月二十一日にも清盛は福原にいたであろうから、清盛が事件に関与していないことは確かである。そればかりか、十月三十日には法皇の命を受けた藤原光能が福原の清盛と面会している。これは、事件により天皇の元服定の議が延期になったことに対する善後策の打ち合わせだったらしい。さらに十二月には摂政基房が太政大臣を兼ねることとなり、これは基房を慰撫するためだろうといわれている。
 このように、清盛は事件と無関係であるばかりでなく、息子である重盛の無責任な行動に対する尻拭いのようなことまでしているのである。高倉天皇は建春門院滋子の子、つまり清盛の妻時子の甥にあたる。その高倉天皇の元服のための大切な打ち合わせをぶち壊すような愚かなまねを、清盛がするはずもなかった。

“おごる平家”は重盛にも当てはまる

 この事件を見る限り、重盛が温厚で誠実一辺倒だったわけではないということがわかる。当時重盛は正二位で権大納言、対して基房は正一位で摂政、当然貴族の中で最高位にいる人である。その基房があらん限りの謝意を示しているにもかかわらずそれを突っぱね、三ヶ月も経った後に報復を実行した重盛の行動からは、“おごる平家”というだけでは説明できない、陰湿な性情を感じる。ちなみにこの事件の二年後に、重盛の家人が春日神社の神人を殺害するという事件が起きている。公正に見れば重盛の家人が罰せられるべきであったが、重盛は無理矢理これを押さえつけた。そのため、怒った興福寺の衆徒が大挙して上洛する寸前にまで騒ぎは発展してしまうのである。平家物語の叙述からだけではうかがい知れない、公正を欠いた重盛の身勝手な性格の一端を、ここにも見ることができる。
 重盛は病弱だったためか、非常に信仰心が厚かった。この事件の当時も病気のために権大納言を辞し、四月に復帰したばかりの時だった。しかも、同じ年の十二月には再び職を辞している。それが、九年後の治承三年には四十二歳で死去してしまうのだから、仏教の盛んな時代のことでもあり、仏に帰依するのも無理のないことであったろう。平家物語では、重盛が東山の麓に四十八間の精舎を建立して、一間ごとに燈籠をかけ、さらに毎月十四・五日には一間に六人ずつ、計二百八十八人の若くて美しい女房を配置して、念仏を唱えさせたという逸話を伝えている。このような重盛だったからこそ、平家の作者は重盛には必要以上な敬意を払ったわけであるし、事実を歪めてでも、重盛には完璧でいてもらわなければいけなかったのだろう。

病弱な重盛の中にある二面性

 では、物語に描かれている重盛像は全くの虚構なのであろうかというと、やはりそうでもないようなのである。慈円は『愚管抄』の中で、重盛についてこう書いている。「イミジク心ウルハシクシテ、父入道ガ謀叛心アルトテ、トク死ナバヤナド云ト聞エシニ、イカニシタリケルニカ、父入道ガ教ニハアラデ、不可思議ノコトヲ一ツシタリ」。「不可思議ノコト」とはまさにこの事件を指すものであるが、慈円から見た重盛も「イミジク心ウルハシ」い人物だった。また『百練抄』にも重盛について、「武勇時輩に軼(すぐ)るといへども、心操甚だ穏かなり」と記されており、貴族の間では非常に好感を持たれていたことがわかる。


重盛が建立した灯籠堂を継ぐといわれる浄教寺

 完璧な人間などいないわけだから、当然重盛にも温厚なところもあれば、陰険なところもあった、ということなのだろうか。ひょっとしたら報復の理由は、武士としての誇りを傷つけられたというところにあったのかも知れない。だとすれば、政治家として平家の未来を考えて冷静に対処した清盛よりも、重盛の方が遙かに荒々しい“武人”であったといえる。あるいは、病気により神経がまいっていたか。いずれにしても、平家に描かれている“聖人君子”然とした重盛よりも、時には判断を誤り、我が子かわいさから不公平なことをしてしまう、真実の重盛の方が人間味があっていいのではないだろうか。横紙破りの入道清盛が軽率な息子のためにハラハラさせられる、というのは面白い。「しようがない息子だ」と嘆息する姿が目に浮かぶようだ。しかもそれが宗盛ではなく重盛なのだから、なお面白い。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ 兵藤裕己著『平家物語-〈語り〉のテクスト』(ちくま新書)/ 角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)/ 永井路子著『「平家物語」を旅しよう』(講談社文庫)


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