平家物語で該当する章段:巻四「源氏揃」「鼬之沙汰」「信連」「競」「山門牒状」「南都牒状」「永僉議」「大衆揃」「橋合戦」「宮御最期」「若宮出家」「通乗之沙汰」「鵺」「三井寺炎上」
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平家物語の魅力は“わかりやすさ”

 平家物語が長い歴史の中で、貴賤・老若男女を問わず、多くの人々に受容されてきた理由はいろいろと考えられるが、中でも政治性の希薄さ、悪く言えば“幼稚さ”があげられるのではないだろうか。例えば、この事件の直前、治承三年十一月に起こったクーデターにしても、重盛の逝去により歯止めを失った清盛が、感情に駆られて暴れ出すといった風に描かれている。また、だいぶ時を隔てるが、頼朝と義経との不和の原因として、梶原景時による讒言を頼朝が用いたとしたことなども同様である。
 “梶原の讒言”は事実だったにせよ、頼朝がそれを頭から信じたと言うより、頼朝が自身考えていたことの裏付けを、梶原の報告で得たという程度のことだったろう。また、平家との合戦や京の治安維持により義経が京で人気者となり、頼朝の地位を脅かすという恐れもあったかも知れないが、何よりも義経が頼朝の許しもなく、朝廷から勝手に官位を授けられたり、壇ノ浦帰還後に平大納言時忠の娘を娶ったりしたことが、源氏を中心とする武士の世の中を作ろうとしている頼朝にとって許せないことだったのである。
 もちろん物語で描かれる事柄は、大筋では間違っていないのだが、それは読者が共感しやすいような形で提示される。政治の裏面を巧みに描いたところで、一般庶民にとってはどうでも良いことであり、むしろ人間関係の軋轢や感情のもつれなどから、種々の事件が起こってくるほうが、自分たちの生活や感情などに照らし合わせて考えたとき、非常に受け入れやすいのである。そして、さらにその背後には、もっとも大きな力である“運命”の転換や、悪業による“応報”など人智の及ばない世界が厳然として存在する。究極的にはそれが大きな裏付けとなって、読む者、聴く者に迫ってくるのである。

事件のきっかけは“馬”の貸し借り

 さて、以仁王の謀反の場合も頼政挙兵の動機は非常にわかりやすい形で紹介されている。ある時、頼政の嫡子伊豆守仲綱のもとへ、宗盛からの使者が来た。仲綱が秘蔵の「木のした」という名馬をぜひ連れてきてほしいというのだ。仲綱は大切な名馬のこと、現在療養中で厩にはいないと嘘をついて使者を追い返した。あきらめかけた宗盛だが、いや昨日も見た、今日も見たという目撃談の数々を耳にして、仲綱は馬が惜しくて嘘を言ったのだな、憎い奴よと、再三再四、馬を請う手紙を仲綱の屋敷に届けさせた。このことを知った頼政は、そんなに見たいというものを隠すことがあるか、すぐに馬を宗盛卿に届けよ、と仲綱に命じる。仲綱は泣く泣く木のしたを宗盛の元へ届けるのだが、宗盛は馬に「仲綱」という焼き印を押し、庭に引き出しては来客の前で「やれ仲綱を出せ、やれ仲綱を鞭で打て、はれ」などさんざんに辱めを与えたのである。これを聞いた仲綱は大いに憤り、頼政もこれほどまでの恥辱を受けて我慢していることがあろうか、ということで今回の謀反を思い立ったのだった。
 このように頼政の謀反は感情的で、あらゆる人々が共感できる仕組みになっている。しかし、この馬の話、自分とその一族の命運を賭けるには、あまりにばかばかしい理由といえるのではないだろうか。そもそも、このクーデターの首謀者が頼政であるという証拠はないのである。では、この謀反を最初に思い立ったのは誰なのだろうか。これには地方武士を含めた反平氏勢力、権門寺院、閑院家を含めた八条院などの諸説がある。


園城寺(三井寺)山門

 また、この物語でも重要な働きをする園城寺の勢力も見逃せない。当時、寺院勢力の平家に対する反感が高まっており、興福寺、園城寺はもちろん、それまでどちらかといえば親平家の態度を保持してきた延暦寺までも、平家に批判的な目を向けるようになっていた。きっかけはこの乱の直前に挙行された高倉上皇の厳島御幸だった。通常、天皇が位をすべり、上皇になって後の最初の社参は石清水八幡宮、賀茂社、春日社、日吉社のいずれかに決まっていたのだが、清盛の圧力によって上皇は厳島へ赴くことになった。そのため、このことを不満とした園城寺の大衆が上皇の出発直前に蜂起し、興福寺、延暦寺、そして京都周辺の武士団にまで呼びかけて、後白河法皇と高倉上皇を奪って京都を脱出させるという騒ぎになりかけた。
 これは失敗に終わったものの、寺院勢力が結束するきっかけとなるのである。乱がこの事件の二ヶ月ほど後に起こっていることを考えると、謀反は園城寺の衆徒が計画したものとも考えられる。王の弟の円恵法親王は園城寺の長吏であったから、以仁王と園城寺の関係も決して浅いものではない。園城寺側が以仁王に呼びかけたのか、それとも王の方から園城寺へ打診したのものか。いずれにしても頼政による計画という線は薄いのではないだろうか。

謀反の動機は以仁王の方が多い!

 頼政と以仁王とでは、むしろ以仁王の方が謀反を思い立つ動機は強かった。以仁は能筆で笛の名手であり、広く諸道に精進した優れた器量の持ち主であった。『愚管抄』によると、以仁は広く学芸を学ぶ中で皇位を望むようになったという。兄の守覚が七歳で仏門に入り、以仁も後を追うように天台座主最雲の弟子となったが、すぐに師の最雲が没したため還俗し、元服する。これはこの直前に、六条天皇が即位しており、おそらく短命に終わるであろう六条の皇位を見据えての元服であったといわれている。以仁王は後白河法皇の第三皇子で、高倉天皇の異母兄にあたるが、こうしたことから高倉天皇の即位に当たっては有力な対立候補であった。
 しかし、高倉天皇の母は清盛の北の方、平時子の妹滋子であり、後白河の寵を一身に受けていた人である。物語にあるように建春門院からの圧迫があったことは確かなようで、そのため王は不遇のうちに人生の大半を過ごした。憲仁(後の高倉天皇)は以仁元服の九日後に親王になっているが、以仁の方はというと“親王”にすらなっていない。さらに治承三年のクーデターの際には、師の最雲から譲られ以仁王が知行していた常興寺とその荘園を平家に没収されるという憂き目も見ている。なおかつ乱の直前、治承四年四月には安徳天皇が即位しており、皇位継承の道は完全に絶たれているのである。
 皇位への執着と平家に対する恨みは当然強かったわけで、『吾妻鏡』によると以仁王の令旨にも現在の政権を倒して自ら“新皇”として即位する意志が記されていたという。その決意も並々ならぬものがあったらしく、園城寺にこもる以仁王に対して引き渡し要求があった際も、この地で死ぬ事をも辞さないほどの覚悟を見せ、まわりを感嘆せしめた。以上のことを考え合わせると、やはりこの謀反は以仁王の計画によるもののように思える。ちなみに九条兼実の日記『玉葉』では、相少納言宗綱(物語では“維長”とある)に「国を受け取る相の持ち主である」と言われたことを乱逆の原因としている。動機についての信憑性はともかく、ここにも叛乱が頼政主導のもとに行われたという認識は見られない。

乱に荷担した頼政の真意は

 物語としては、天皇家の王が私の野望のために謀反を計画したとするよりも、源氏(平家に対立するものとしての)である頼政が事件を思い立ったとするほうが無難である。また、源氏である頼政の企てとしたほうが、この先展開される源平合戦の第一幕としてはふさわしい。たしかに頼政は、保元・平治の両合戦ではなんとか勝ちにまわったもののさしたる恩賞もなく、平家全盛の京にあって源氏としては例外的にその命脈を保ち続ける程度であった。しかし“鵺退治”の逸話に代表されるように武に優れ、また和歌もよくし皇族や上級貴族との親交も深かった。
 このように文武両道に誉れ高く、そして何よりも一族の中では異例の三位という高い地位に進むことができた頼政が、齢七十を過ぎて、勝ち目のない謀反を企てるかという疑問が残るのである。頼政はこの事件の前年、治承三年十一月のクーデターの直後には出家までしている。また、彼が三位に昇進することができたのも清盛の推挙によるものだ。頼政の家系は代々大内守護を家職としており、父の仲政も従五位上までしか進んでいない。頼政の三位というのはまったく異例のことで、兼実も『玉葉』の中で「時人耳目を驚かさざる者なし」と言っているくらいである。謀反が失敗に終われば、その責めはあまねく一族に及ぶということは重々承知していたはず。保元・平治の合戦では同族を敵に回してまで、自分たち一族の命脈を保とうとした頼政なのだ。
 もっとも、たとえ以仁王が持ちかけた謀反だったにせよ、頼政がそれに協力したことは確かなわけで、そこには彼なりの確固とした信念があったことだろう。不遇の源氏の一人として、また人生の残り少ない老武者として。前年のクーデターにより平家政権の独裁はいよいよ強まり、さらにその体制は強固になったように見えた。しかし、そのことが反平氏の気運を高めたことを頼政も強く感じたに違いない。今、呼びかければ諸国の源氏はきっと立ち上がる、そう読んだのであろう。
 ひょっとすると平治の乱の際、同族の義朝を裏切ってまで京に残ったのも、いつか平家に取って代わろうという野望を持っていたからかも知れない。そしてその後、平家全盛の京において機が熟すのをじっと我慢して待っていた……。だとすると、大変な気の長さであり、執念である。しかし頼政はそれをおくびにも出さず、平家と仲良くやってきたのである。その証拠に、以仁王を追跡するため三井寺に派遣する軍勢の大将の一人に選ばれているのだ。
 齢長け、三位という高いくらいに登ってもなお、頼政の心の奥底では武人としての血が青白い炎となって消えることがなかったのだろう。謀反そのものは失敗に終わるものの、以仁王と頼政のまいた種は確実に全国に広がっていった。ほどなく頼朝・義仲の挙兵がし、義経という天才の出現によって、平家はあっという間に族滅してしまう。そして、その後に訪れる武士主導の世界は、おそらく頼政が思い描いていた以上のものだったに違いない。先駆者の悲劇ともいえるが、平家打倒の先鋒として歴史に名を残し、華々しく散っていった光栄ある役割を与えられたのである。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 上横手雅敬著『源平の盛衰』(講談社学術文庫)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)/ AERAMook『平家物語がわかる。』(朝日新聞社)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 安田元久著『人物叢書・後白河上皇』(吉川弘文館


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