平家物語で該当する章段:巻五「都遷」「月見」「物怪之沙汰」「早馬」「富士川」「五節之沙汰」「都帰」
あらすじを読む


寺院勢力に挟まれた平安京を捨て福原へ

 平清盛が約四百年続いた平安京を捨て、福原への遷都を実行したことは史上有名である。平家物語はこれを「平家の悪行の極み」と評した。これも後白河法皇幽閉や南都の焼き討ちとともに、平家の横暴を語る上では欠かせない重要な事件であり、清盛悪人説の裏付けの一つになっている。確かに、これら一連の行為が当時の平家にとって政策的に妥当なものだったかといえば議論の残るところであり、むしろ“失敗”だったとしたほうが当たっているかも知れない。ただ、日本史上まれにみる大変革期の渦中にあって、将来を達観できなかったとしても、それは清盛一人の責任ではあるまい。歴史に関わった一人ひとりが、それぞれに自分の責任を果たそうとしていたに過ぎない。福原遷都も清盛にとっては決して無謀な政策ではなく、周囲の状況を見ての必然的な行動だったのである。
 以仁王の謀反を鎮圧した直後の治承四年五月末、清盛は安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇の福原遷行を発表した。この時点ではこの遷行が“遷都”であるとは公表されておらず、そういう噂はあったものの、なぜ福原へ行くのかということはまだ誰も知らなかった。しかし、六月二日には福原に入り、同十一日には内裏となった頼盛の邸で遷都についての議定が開かれ、ようやく人々はこれが遷都であったことを知るのである。三井寺、興福寺が以仁王に荷担したことで、寺院勢力の反平家運動がいよいよ抜き差しならないものになってきていると感じた清盛だったが、これら寺院勢力を武力によって弾圧することは避けたかったのである。
 この時代、寺院勢力の朝政への干渉が頻繁に行われ、朝廷への賢しらな要求は度々におよんでいた。何か不満があるごとに、強訴を強行し狼藉を繰り返し、その被害は罪のない都民にまでおよんだ。そして、無法な要求を突きつけられるたびに、朝廷はその対応に苦慮せざるを得なかったのである。今回、延暦寺は謀反に加わらなかったものの、平家と友好的だった上層部の力が弱まり、これもいつ平家に反旗を翻すか分からないという情勢であった。このような、有力な寺院勢力に挟まれた京都ではいざというときの防衛もままならない。遷都の理由のひとつはそこにあった。

真の武家政権確立のためには制法からの脱却が必要だった

 だが、清盛が遷都によってめざしたものは、古い制法の束縛からの解放であった。制法とは、貴族一般に染みついている古い慣習や考え方のことである。京都では何をするにも旧来の慣例や偏見が大きな障害になる。平安京は法皇をはじめとする貴族と寺社勢力が団結して、新しい独裁者である平氏を閉め出すための制法の砦であった。新しい政治を始めるには、制法を生み出し、院政の基盤となる古代的貴族社会そのものを否定する必要があったのである。つまり、平安京を捨てることが前年のクーデターの総仕上げであり、それによって平家のめざす真の意味での武家政権の樹立が成るのである。
 しかし、この福原遷都は半年で終わりを告げる。周囲の貴族たちばかりではなく、宗盛をはじめ一門の多くが、京都への帰還を希望していたのである。特に宗盛とは口論になるほどであった。一門のうち還都に反対したのは平大納言時忠一人だけだったという。またちょうどこの頃、干ばつと疫病の難が人々を襲った。七月下旬には九条兼実や摂政基通など多くの人が病気になり、特に高倉上皇の病気は重かった。さらに延暦寺の衆徒が、遷都を止めなければ山城・近江を占領するとまで言い出したのである。さすがの清盛も、還都を認めざるを得ない状況になっていた。こうして平家の威信は地に墜ち、武士の平家離れは一挙に進み、比叡山も源氏に与力するようになった。また、公卿の間でも後白河法皇の院政を復活させようという意見がでるなど、清盛のクーデターを真っ向から非難する姿勢も見えだした。

平家政権は公家政治最後の砦

 結局、「平家最大の悪行」といわれる福原遷都は失敗に終わった。しかし、一体これはだれにとっての“悪行”だったのだろうか。晩年の清盛が尽力した政策が公家政権のためではなく、あくまで平家政権の存続という利己的な理由によるところが“悪”だというのなら、それも間違いではない。たしかに公家にとって平家の政策の数々は“悪”である。中でも福原遷都は伝統的な公家政治を否定し、新たな軍事独裁政権の樹立を目指すものだったからだ。一般に、平家が源氏に負けたのは、平家が藤原氏のまねをして貴族化し柔弱になったためだという捉え方が浸透しているが、必ずしもそうではないということがこの「福原遷都」からわかる。遷都こそ、武家政権樹立に対する清盛の熱意の現れであり、清盛が天皇の外祖父になったことだけで満足していたのではないことがわかる。手段と目的を取り違える清盛ではなかった。
 少なくとも治承三年のクーデターまでの平家は、あくまで公家政治の中で勢力の伸長を図ってきたのであり、それ自体は公家政治を否定するものではなかった。治承三年十一月のクーデターから翌四年十一月の還都までの間が、純粋に平氏による軍事政権が存在した期間といえる。しかし還都は失敗し、平清盛による真の意味での武家政権樹立は失敗に終わった。それが失敗した以上、その後の平家は既存の政権を守るために戦うしかなくなった。つまり、還都後の平家の戦いは平家一門のための戦いであるとともに、公家政治存続のための戦いとなったのである。平家政権は公家政治の最後の砦となったのだ。
 しかし、法皇を始め公家たちは自身武力を持たないにも関わらず、平家をバックアップするどころか、それを滅亡させてしまう。そしてその後も、ただ公家に対抗する当面の敵を撲滅するために、その場しのぎの政策を続けた。時代の転変にまったく無自覚であり、あくまで制法にとらわれ続けた。平家の都落ち以後、頼りにしていた源氏が、平家以上に恐ろしい存在になるとも知らずに。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬著『源平の盛衰』 (講談社学術文庫)


Copyright(C)Misturu Nakamaru