<主な登場人物>

新三位中将資盛
重盛の次男で、当時は越前守。歌人として有名な建礼門院右京大夫との恋が有名。壇ノ浦で弟の有盛、従兄弟の行盛と共に入水した。

松殿(藤原基房)
関白忠通の次男。氏の長者、摂政関白従一位まで登ったが、治承三年の清盛によるクーデターにより太宰権帥に左遷。後に木曽義仲と提携を結び、息子の師家は摂政従二位となった。

入道相国(平清盛)
従一位太政大臣、法名は浄海。父は刑部卿正四位上平忠盛、母は祇園女御の妹といわれる。相国は大臣のことで、相国禅門とも。

小松殿(平重盛)
清盛の長男で母は右近将監高階基章の娘。邸が小松谷にあったことから小松殿と呼ばれた。鹿ヶ谷事件の首謀者の一人藤原成親の妹を妻に持つ。物語では常に模範的な息子として、また忠臣として描かれる。


<事件のあらまし>

 嘉応二年十月十六日(史実では七月三日)、重盛(清盛の嫡男)の次男で十三歳の資盛は、雪がまばらに降る中を、若い侍三十騎ばかりを連れて鷹狩りに出かけた。蓮台野や紫野、右近の馬場で一日中狩りを楽しみ、夕方になって六波羅に帰ってきた資盛一行は、大炊御門猪熊で参内途中の摂政藤原基房の行列と鉢合わせとなった。基房の供の者たちは下馬の礼をとらない資盛一行の無礼をとがめたが、資盛の供の侍は皆二十歳以下の若者であり、平家の威光を笠に着て驕り高ぶっていたため、下馬するどころか行列をかけ破って通り抜けようとした。怒った基房の供達は、辺りが暗くなっていたこともあり、まさか入道清盛の孫とも考えないで、また薄々知ってはいても気づかぬ振りをして、資盛をはじめ供の侍達を馬から引きずりおろし、さんざんに辱めを与えた。
 這々の体で六波羅に逃げ帰った資盛は、このことを祖父清盛に訴えた。清盛は大いに怒り、いかに摂政といえども清盛の身内にこのような恥辱を与えるとは許せぬ、他人にも見くびられるぞ、と基房への報復を口にする。しかし父重盛は、そもそも下馬の礼を取らない資盛の方に非があるのだから、かえってこちらが謝りたいくらいだ、と言って嘆き、そのとき一緒にいた供の侍達にも説教をして帰らせたのだった。
 だが、重盛の諫言にも清盛の怒りはおさまらなかった。清盛は重盛に内緒で難波経遠、妹尾兼康をはじめ六十余人の侍を集めて、基房への報復を命じる。そして同二十一日、完全武装した三百余騎の六波羅兵は、高倉天皇(当年十歳)の元服の儀を打ち合わせるために参内する基房の一行を、猪熊堀川の辺で襲撃したのだった。
 今日を晴れと着飾る前駈・御随身(前駈は貴人の外出時に騎馬で先導する者、貴人の護衛として従う近衛府の舎人)を、あそこに追いかけここに追いつめして馬から引きずり落として乱暴したうえに、それぞれの“もとどり(髪の毛を頭のうえで結ったもの)”を切り落としていった。藤蔵人大夫隆教(伝未詳。『玉葉』では高範)も、これはお前のもとどりとは思うな、主のもとどりだと思え、などとと言われて、やはりもとどりを切って落とされた。その後は、基房の牛車にまで簾を落とすなどの狼藉を加えると、兵達は喜びの鬨をあげて六波羅に引き揚げていった。摂政基房は参内もできず、泣く泣く邸へと帰っていくのだった。これぞまさに平家の悪業の始まりであった。
 このことを知った重盛は大いに驚き、事に当たった侍達を罰した。加えて、「既に十二三にならむずる者が、今は礼儀を存知してこそふるまふべきに、加様に尾籠を現じて、入道の悪名を立つ。不孝のいたり、汝一人にあり」として、資盛を伊勢国で謹慎させたので、これを聞いた人々は大いに感心したという。


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