第3回 維盛の舞

2012/01/18

 平家の公達の中で、もっとも容姿に恵まれていたのは誰だったのだろうか。この答えは実に簡単である。というのも、平資盛の恋人としても知られる歌人の建礼門院右京大夫が、自身の歌集の中でその問いに答えてくれているからだ。「平家の公達は今の世の人々を見渡しても、とても際立っていた一門であったが、維盛は特に容貌、心配りがたぐいまれで、古今の中で比べる者もないほどであった」。そう、資盛の兄維盛こそ平家随一のハンサムさんだったのだ。
 どれほどの美しさだったのかというと、右京大夫いわく「ありがたかりしかたち(たぐいまれな美貌)」は昔も今も比べるほどがないほどであった。たとえば、賀茂祭における維盛のりりしい警固姿は「絵物語に書かれている人物のように美しく見えた」という。一緒に見ていた西園寺実宗(公経の父)は「うらやまし見と見る人のいかばかり なべてあふひを心かくらむ」と詠んだ。「うらやましいことだ、維盛を見る女性という女性はすべて、恋人になれる日をどれほどひそかに思っていることか」というのだから、男でもほれぼれするほどの男ぶりだったのだろう。男もうらやむルックスに加え、立ち居振る舞いも優美だったという維盛は、当時の宮廷のアイドル的存在だった。
 その維盛の一世一代の晴れ舞台となったのが、安元二年(1176年)、法住寺殿の南殿で催された後白河法皇の五十歳を祝う賀宴であった。二度の試楽(予行演習)を経て迎えた本番。三日目の後宴に登場した維盛は、藤原成宗(成親の次男)とともに艶やかな「青海波」の舞を披露した。この日の賀宴の様子を描いた『安元御賀記』は、維盛の舞姿を次のように記録している。「維盛朝臣の足の運びや袂を振って舞う姿は、この世にまたとない様子で、入日の影にいちだんと美しく映えて見えた。それはほかに比べる者もないほど艶やかだった」
 右京大夫によると、維盛の舞姿を見た人々は「光源氏のためしも思ひ出でらるる」といいあい、「花の美しい色つやも、この君の美しさに圧倒されてしまいそうだ」と褒め称えたという。光源氏のためし(先例)とは、『源氏物語』「紅葉賀」で、光源氏が頭中将とともに青海波を舞って賞賛された故事をさす。平家嫌いで堅物の九条兼実さえ、維盛の舞姿を見て「維盛は容顔美麗、嘆美するに足る」と日記に記したほどだから、その優美さはいかばかりであったろうか。
 後年、維盛は富士川の戦い、倶梨迦羅峠・篠原の戦いという、平家にとって大事な合戦において総大将を務め、いずれも大敗を喫した。ともすれば平家没落のA級戦犯のようにいわれるが、平家全盛期の平和な世においては、立派に平家のブランドイメージを高める広告塔の役割を果たしていたのだ。


●参考文献
久松清一・久保田淳校注『建礼門院右京大夫集』(岩波文庫)/ 高橋昌明著『平家の群像』(岩波新書)


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