第16回 近衛大将・重盛

2012/06/05

 前回、重盛の思慮深さを示すエピソードを紹介したが、今回は朝廷の武官としての重盛の華麗な姿を紹介しよう。
『平家公達草紙』に次のようなエピソードがある。承安四年(1174年)、重盛が右近衛大将だったとき、内裏の近くで火事があった。みなが右大将の到着を心待ちにしていると、重盛は先ぶれの声もはなやかに参上し、すぐに紫宸殿の御階に控えた。重盛の姿は直衣の袖をすかして白銀の籠手が美しく輝き、堂々とした態度であたりに気を配っていたという。「近衛大将とはまさにこういう方を申すのだ」という最大級の賛辞で逸話を締めくくっている。
 この話には裏付け(というより元ネタか?)がある。『建礼門院右京大夫集』に収められたエピソードだ。ある年の十一月、内裏近くで火事があり、かなり危険な状況になった。近衛大将の重盛が衛府の官人を従え、天皇の輿を用意して紫宸殿に待機していたが、直衣に矢を負って中宮徳子の前に参上した重盛の姿は、「いみじうおぼえき」(たいそう立派に思われた)と右京大夫は記している。内裏近くの火事という危急のときにあたって、内裏や天皇を守るべき近衛大将には、人々の動揺を鎮める威厳や沈着さも求められたのだろう。まさに、朝廷の守護者たる平家の面目躍如する逸話である。
 ところで、『平家公達草紙』が編まれた鎌倉時代初頭、近衛大将として名をはせた一人に源頼朝がいる。もっとも本書が編纂された頃、頼朝はすでに他界していただろうし、頼朝の右大将任官もわずか十日に過ぎない。しかし、頼朝はその後も「前右大将家政所」の名義でたびたび下文を発給しており、その書式は征夷大将軍任官後、しばらく途絶えたが、まもなく復活させている。頼朝の公的な立場は、征夷大将軍よりも前右大将として、当時の人々に認知されていたのだろう。
 その頃から遠く隔たらない時期に、『平家公達草紙』が近衛大将としての重盛を賛美した背後には、暗に頼朝の立場を当てこする意図があったと考えられないだろうか。朝廷に大事があればすぐに駆けつけて内裏を守った重盛と、遠く鎌倉に居を定めて「前右大将」の権威だけを享受し、実質的に朝廷を牛耳っていた頼朝。その後継者である頼家、実朝。武家のエゴだけを前面に押し出した幕府に対する不満が、重盛賛美として表現されているのかもしれない。


●参考文献
久松清一・久保田淳校注『建礼門院右京大夫集』(岩波文庫)/ 糸賀きみ江校注『建礼門院右京大夫集』(新潮社)/ 角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/ 上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次著『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』(中央公論新社)/ 高橋富雄著『征夷大将軍』(中公新書)


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