第19回 維盛の狩り

2013/02/08

 光源氏にたとえられた美しい容姿と、舞や朗詠、笛など豊かな芸術の才に恵まれた貴公子維盛。貴族として申し分のない素養を備えた彼であるが、肝心の武人としての資質はいかなるものであったのだろうか。
 それなら歴史が証明しているではないか、という方がいるかもしれない。富士川の戦いや北陸遠征など、平家の命運を左右する重要な戦いに総大将として出陣し連敗を続けたのは確かだ。都落ち以後は最前線に立つこともなく、弟の資盛たちが義経軍を迎え討った三草山の戦いにも参加しなかった。そして、一ノ谷の戦いの後、屋島を脱出して那智沖で入水自殺を遂げたのは周知のとおりである。
 敗戦を重ねて一門内での立場を失い、敵とまみえることなく自ら命を絶った維盛。武人らしからぬ最期といえなくもないが、真実の維盛は本当に軟弱一辺倒のお坊ちゃんだったのだろうか。
 中山忠親の日記『山槐記』に、次のようなエピソードが残されている。治承二年(1178年)一月二十三日、鹿ケ谷事件から約半年後のこと。大雪の朝、鞍馬寺へ参詣するために、忠親が上賀茂神社の東の美土呂坂を越える道を北に向かっていたところ、峠に差し掛かったところで狩りを終えて引き返してきた維盛の一団と出会った。この時、維盛は折烏帽子に直垂、指貫を身につけ、武士が狩りの時につける行縢(むかばき。獣の皮でつくった両足の覆い)をつけており、騎馬の侍五人と猟犬十五匹を連れていた。維盛は忠親を見て馬を降り、忠親も腰を地面に下ろさせた。当時、忠親は従二位権中納言であり、従四位上の維盛は貴族社会の決まりどおり、下馬の礼をとったわけである。
 忠親が聞くと、維盛は鞍馬の入口にあたる市原野で狩りをした帰りであるという。維盛一行の獲物は鹿二頭、猪一頭、鶉一羽で、天秤棒代わりの弓や竿を使って獲物をぶら下げていた。ただし、これは獲物のすべてではなく、仕留めた鹿は全部で五頭だったようだ。この後、忠親は維盛から力仕事などの雑役をする「力者」を借りて、無事に雪深い峠を越えることができたという。深雪の中、獣の皮をつけて狩りにいそしむ維盛。優雅な貴公子のイメージに似つかわしくない絵がらであるが、こうした光景も武門平家の公達の、日常の一コマだったのである。
『玉葉』によると、富士川の戦いでは圧倒的な劣勢の中で、維盛自身は源氏との一戦を辞さない決意を示したという。しかし、侍大将の伊藤忠清はもはや勝ち目なしと見て撤退を主張し、将兵の多くもこれに同意した。水鳥の羽音に驚いて潰走したのはこの決定の直後のことである(水鳥が飛ぼうが飛ぶまいが撤退はすでに決定していた)。
 もちろん、維盛が主張する通り源氏軍と戦ったとしても勝ち目はなかっただろう。忠清の判断の方が妥当であり、維盛の主戦論は軍事指揮官としての無能さの露呈といえなくもない。しかし平家の圧倒的な劣勢は、忠清が吉日にこだわって出陣を引きのばしたため、前線部隊の大庭景親や橘遠茂が源氏軍に壊滅させられたことに一因があったのであり、維盛一人に責任を負わせるべきではない。
 むしろ、劣勢の中でも武人としての闘志を捨てず、戦いを主張した維盛の悲壮な決意を重視すべきだろう。維盛は、決して追討使としての責任を放棄したわけではなく、ましてや平家の武名を軽んじたのでもない。貴族たちの怨嗟を尻目に厳島や宇佐で遊び歩いていた清盛に「不覚の恥」などと言われる筋合いはなかったのである。


●参考文献
高橋昌明著『平家の群像』(岩波新書)/ 川合康著『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)/ 『玉葉』(名著刊行会)/ 『増補史料大成 山槐記』(臨川書店)


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