第18回 末代の賢王

2013/01/26

 今回の主役は高倉天皇である。仮にも「一天万乗の主」である高倉を、平家一門のコーナーに単独で取り上げるのは恐縮だが、母は清盛の義妹である建春門院滋子、妻は清盛の娘徳子なのだから、ファミリーの一員といってさしつかえないだろう。
「末代の賢王でいらっしゃったので、(その死を)世人が惜しむありさまは、月日が光を失ったかのようだった」
「すぐれて立派で人々が心を寄せることは、天皇親政の全盛期であった醍醐・村上天皇にも劣らない」
 以上は『平家物語』が二十一歳で崩御した高倉を評して述べた言葉である。「べた褒め」の観があるが、舅である清盛の横暴に心を痛め、死期を早めたことへの同情、あるいは清盛への「あてつけ」の意味もあるのだろう。そのうえで同書は、天皇の優しさを裏付ける、次のような逸話を紹介している。
 天皇が十歳ばかりの頃、内裏朔平門の近くの築山に植えられた紅葉がお気に入りだった。ところが、ある夜、強い木枯らしが吹いて葉を吹き散らしてしまう。しかも、事情を知らない宮内省の下役人たちは、自分たちで飲む酒を温めるために、散乱した紅葉を集めて燃やしてしまった。驚いたのは築山を管理する蔵人である。下役人たちを叱りつけ、「お前たちはすぐに禁獄・流罪になるだろう。私もどれほど叱られることか」と嘆いた。ところが、それを聞いた天皇は機嫌良く微笑み「『林間に酒を煖めて紅葉を焼く』という詩の心を、誰が彼らに教えたのだろう」と、白楽天の詩をひいて役人たちの「風流」を愛でたという。
 高倉の心の広さと教養の深さを知らしめる逸話だが、事実かどうかは定かでない。では、これも清盛の悪行を際立たせるために、物語作者が造形した人物像なのかというと、そうではなさそうだ。これよりもさらに美しい佳話が、建春門院に仕えた建御前(藤原定家の同母姉)の『たまきはる』に残されている。
 承安四年(1174年)三月、高倉が十四歳の時のエピソードである。法住寺殿へ行幸していた天皇が内裏へ還御する日、蔵人が迎えの車を差し向けるのを忘れてしまった。父後白河と建春門院は立腹した様子で、蔵人を罷免してしまえと言う声が漏れ聞こえてきた。色を失った蔵人は身じろぎもせずに縁側にかしこまっていたが、高倉は蔵人をとがめなかったばかりか、「この行幸をもう一日延ばしてくれたことについて礼を言おう」と蔵人に伝えたのである。その後、法皇の怒りの声は聞こえなくなり、後白河が我が子をいとおしく思う様子が外からもありありとうかがわれたという。失態を演じた臣下を気遣いつつ、さりげなく父母への孝心をアピールする当意即妙の物言いに、さしもの専制君主も頬を緩めたのである。
 これほどの慈悲深さと孝養心、機知を備えた天皇が人々に慕われなかったはずはないだろう。「末代の賢王」という物語の評価も、あながち誇張とはいえないようである。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 三角洋一校注『新日本古典文学大系50 とはずがたり たまきはる』(岩波書店)/ 井上嘉子著『五常楽 平家公達徒然』(シースペース)


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