第8回 徳子の入内

2012/03/10

 承安元年(1171年)の平徳子の入内は、清盛の権勢と平家の栄華を象徴するできごとだった。
 武家の棟梁の娘が天皇に入内する--。実は後世、武士が天下を取った世になっても、徳川秀忠の娘の東福門院和子など数例があるのみで、将軍の娘の入内はほとんどない。平家に代わって天下を取った源頼朝すら、娘の大姫を入内させたくてもできなかった。
 清盛の太政大臣就任にはほとんど反発しなかった貴族たちも、この入内には抵抗感を示している。天皇の妃の父が遁世した清盛では都合が悪いということもあり、徳子は入内に先だって兄重盛の養子となったうえ、鳥羽法皇の中宮待賢門院璋子の先例にならって後白河法皇の猶子とされた。貴族の批判をかわすねらいもあったのだろうが、先例にこだわる九条兼実などは、「生まれた時から白河法皇の養女だった待賢門院とは違う。しかも徳子の養父である後白河は天皇の実父なのだから、兄弟姉妹の結婚になる」と皮肉を述べている。
 それだけに、ようやく入内の実現にこぎつけた清盛の感慨もひとしおだっただろう。入内の日の風情も、平家の栄華を寿ぐような情趣ある夜だった。十二月十四日、院御所法住寺殿で裳着の儀式(女性が成人した証として初めて正装する儀式)を行い、夜になって高倉の待つ大内裏に向った。明月の光が満ち、白砂が昼のようにまぶしく輝く中、七条殿の桟敷で後白河法皇と建春門院が入内の行列を眺めたという。
 二十六日、露顕(ところあらわし。現代の結婚披露宴にあたる)の日、徳子に女御の宣旨が下され、高倉天皇との結婚が正式に認められた。女御より身分の高い中宮にのぼるのは翌年二月、建礼門院の院号で呼ばれるのは高倉が崩御した後である。
 中宮となった徳子の御所や高倉の里内裏(平安宮の外に営まれた仮の内裏)である閑院内裏は、平家の公達や親しい人々が集う、いわば平家のためのサロンでもあった。建礼門院右京大夫もサロンの一員だったことはいうまでもない。『建礼門院右京大夫集』に記された彼女の回想も、承安四年(1174年)の正月、天皇が中宮のもとへ渡御したときの様子から始まっている。普段着の直衣姿の天皇と正装した中宮の装いが、「目もあやに(まぶしいくらいに)」美しく見えたといい、次の和歌を詠んだ。「雲のうへにかかる月日のひかり見る 身の契りさへうれしとぞ思ふ」(宮中にお仕えして、日月の光のような主上と中宮のお姿を見ることができるわが身のめぐり合わせがうれしい)
 天皇・中宮に仕える人々をも満ち足りた気持ちにさせる、平家全盛期の一場面であった。


●参考文献
糸賀きみ江校注『建礼門院右京大夫集』(新潮社)/ 高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)


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