第14回 静遍の改宗

2012/05/17

 忠快、源智と平家出身の僧侶が続いたので、「平家高僧列伝」の第三弾をおおくりしたい。今回は平頼盛の息子で権大僧都になった静遍である。前回の源智が、早くから法然に師事し、遺言ともいえる一枚起請文を授かったのに対して、静遍は法然の教えに疑問を持ち、これに反駁しようとして法然の著述を徹底的に研究した。その結果やいかにということになるわけだが、その前に静遍の前半生を簡単に記しておこう。
 生まれは仁安元年(1166年)。伯父清盛が内大臣、従兄弟重盛が中納言なった年であり、平家が破竹の勢いで巨大権門と化していたときだ。父頼盛が従三位・非参議となり一門三人目の公卿になったのもこの年である。平家全勢期に生を受けた静遍であったが、すでに保盛、仲盛、光盛という三人の兄がおり、庶子でもあったためであろう。若くして醍醐寺に入り僧侶となった。
 静遍が高い学識を有していたことは、文治四年(1188年)に醍醐寺座主勝憲から小野流を、元久元年(1204年)に仁和寺上乗院の法印権大僧都仁隆から広沢流を受けたことからもうかがえる。いずれも平安中期に起こった真言宗の流派で、合わせて十二流に分かれたため、「野沢十二流」「根本十二流」などと呼ばれれた。静遍は野沢両流を修めた高徳の僧として声望を集め、権大僧都に任じられたのであった。
 この頃、静遍は法然の専修念仏に疑問を抱き、これに異を唱えるために彼の代表的著作である『選択本願念仏集』を熟読した。伝統的な真言宗の奥義を極めた静遍だけに、新興の教えに胡散臭さを感ぜずにはいなかったのかもしれない。しかし、結果はまったく逆だった。静遍が法然の思想に感銘を受け、たちまち念仏信者となってしまったのである。しかも静遍は、しなくてもよいのに法然の墓に詣でて自らの非を詫び、権大僧都を辞して高野山に入り、浄土教を学んで『続選択集』を著した。権大僧都という高い僧官をもち、人々の声望を集めながら、その地位におごるどころか、新興の教義に心服し、自ら地位と名声を捨てたのである。異端の宗派は徹底的に排撃した不寛容極まりない当時の宗教界において、静遍の潔さ、求道の精神、学問に対する真摯な態度には目をみはらされる思いがする。
 承久三年(1212年)、後高倉院の院宣を受けて禅林寺(紅葉の名所として知られる京都東山の永観堂のこと)に入り、ここを浄土宗の道場とした。真言宗の野沢両流を修めただけに、静遍が浄土宗についても当代随一の学識を極めたのは当然だったといえよう。『続選択集』のほか『秘鈔口決』『三宝院問答記』などの著作をものして浄土宗西山禅林寺派の基礎を築き、元仁元年(1224)年、高野山の蓮池谷で五十九歳の生涯を閉じのであった。  


●参考文献
角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)


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