第1回 重衡のいたずら(1)

2012/01/08

 気の向くまま、平家の公達たちの人となりなどを紹介するコーナーである。公達たちの生ぬるい日常やあまり知られていない一門の事績を紹介していくつもりだが、知られざる公達の素顔に迫る! といった高いハードルはもうけていないので過剰な期待は禁物である。
 のっけから言い訳がましくて恐縮だが、ようはマイナーな公達を紹介し、せめて名前なりとも覚えていただければそれでよいというつつましい企画なのである。とはいえ、今回はさすがに最初なので、比較的知られていて、なおかつ私の一番好きな公達に登場願おうと思う。清盛の五男重衡である。
 「知られている」といっても、日本史上の事績としては「南都焼き打ち」の総大将を務めたことが著名な程度。重衡の名を知らしめているのは、いうまでもなく『平家物語』である。南都攻めでは大衆たちの悪行を鎮めるために出陣したが、野戦の明かりにするためにつけた火が不運にも燃え広がり、図らずも東大寺・興福寺の焼失を招いた。一ノ谷の戦いでは乳母子に裏切られて捕らわれの身となり京に送還。法然と対面してこれまでの罪を懺悔し受戒を遂げ、どのような罪人であっても阿弥陀仏の名号さえ唱えれば往生を遂げられると励まされる。京ではかつての郎等の尽力により恋人の内裏女房とも再会し、鎌倉に送られた後は千手という美女にかしずかれ愛された。平家滅亡後、奈良に送られる途中、妻の大納言典侍と最後の対面を果たし、木津川で処刑、梟首された後、遺骸は妻によって引き取られ手厚く葬られた。
 重衡は南都焼き打ちの主犯であり、『平家物語』が嫌う「仏敵」にほかならない。それにもかかわらず、同書は終始重衡を好人物として描く。これは、必ずしも物語の興趣を深めるための創作ではなく、実際の重衡にそうした魅力があったからだろう。それを裏づけるように、重衡の愛すべき人柄を伝えるエピソードがいくつかある。その一つが今回紹介する「重衡のいたずら」である。
 平家全盛期における公達たちの日常を描いた『平家公達草紙』の逸話である。かつては清盛の娘婿の藤原隆房が編纂にかかわったとされたが、官職名に誤りが多く引用文献にも構成の改作の影響がみられることから、隆房説は否定されている。ただ、他の日記や歌集などには見られない独自のエピソードを掲載しており、魅力的で貴重な資料であることは間違いない。  さて、重衡の逸話だが、それは治承元年(1177年)三月頃のことであった。平知盛、重衡、維盛、近衛基通、藤原隆房らが閑院内裏に集まっていた。高倉天皇は「雨が降って退屈な夜だ。何か目の覚めるようなものはないか」といった。基通は「管弦はいかがでしょう」と提案したが、天皇は「もっと笑えるようなものはないか」という。すると重衡が進み出て「いざ朝臣たち、一つ思いついたのですが…」といい、盗人のまねをして中宮(平徳子)の方の女房たちを驚かそうと提案した。人数が多いとうまくいかないだろうということで、重衡と隆房の二人が直衣を裏返しに着て、直衣の衣の袖を解いて冠を包み隠し、女房たちのもとへ向かった…。
 「管弦」というありきたりな基通の提案に、伝統的貴族らしい古さを感じるのは私だけではないだろう。また、生真面目な知盛、維盛が黙して語らないのもむべなるかなと思われる。そのような中、泥棒の真似をして女房たちを驚かすという愚にもつかないアイデアを出したのが重衡であった。興味深いのは、重衡が口を開いた時、高倉天皇が「いつものように重衡が、さりげない風をして面白いことを言おうとしているぞ」と言っていることだ。何となく場の雰囲気が煮詰まった時、重衡が突飛な思いつきで盛り上げるようなことがたびたびあったのだろう。高倉天皇が身を乗り出して、期待に胸を躍らせながら重衡の次の言葉を待っている様子が目に浮かぶ。
 では、事の顛末やいかにということになるわけだが、ちょっと長くなりすぎたので、今回はここまで。次回を乞うご期待。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 久松清一・久保田淳校注『建礼門院右京大夫集』(岩波文庫)/ 角田文衛著『平家後抄(下)』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(下)』(塙書房)/ 明月記研究会編『明月記研究』(櫻井陽子著「『平家公達草紙』再考」)


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