第13回 源智と一枚起請文

2012/05/02

 忠快に引き続き、今回も平家出身の高僧をとりあげたい。今回ご登場いただくのは平重盛の孫で法然の高弟となった源智である。
 京都大学の北側に百萬遍知恩寺という寺がある。寺の名は知らなくても、百萬遍は地名にもなっているので聞き知っている人は多いだろう。浄土宗四大本山の一つで、鎌倉時代末期、疫病が流行した際、第八世善阿上人が勅命により十七日間、宮中で念仏を百万遍唱えて疫病をおさめ、後醍醐天皇より百萬遍を寺号を賜った。実はこの寺の実質的な開基が源智なのである。この寺は、延暦寺の円仁が建てた「賀茂の河原屋」と呼ばれる神宮寺が前身で、その後、比叡山を下りた法然が一時止住し、弟子の源智に引き継がれた。
 尊卑文脈によると源智の父は平師盛で、重盛の孫にあたる。師盛については詳しいことは分かっていないが、母は清経らと同じ藤原経子なので、藤原家成の外孫ということになる。治承二年(1178年)に正五位下若狭守となり、翌年備中守に転じた。寿永二年、一門とともに都落ちし、一ノ谷の戦いでは資盛たちとともに三草山の陣を守り、その後、一ノ谷に転戦して源氏軍に討たれたという。『平家物語』によると、このとき師盛は十四歳であった。
 ここで疑問が生じる。「法然上人行状絵図」によると、源智は建久六年(1195年)の時、十三歳だったというから、生まれは寿永二年である。『平家物語』の没年に従えば、源智が生まれた時、師盛は十三歳。当時は数え年だから、誕生月によっては十一歳ということもあり得る。いくら当時の人が早熟でも、この年で子どもはできないだろう。また、都落ちの直前、師盛は異母兄の資盛とともに、木曾義仲入京を迎え撃つために出陣している。三草山の守備ならともかく、源氏軍の入京という危急存亡のときに十三歳の少年を、わざわざ前線に派遣するとも思えない。おそらく『平家物語』に十四歳とあるのは誤りなのだろう。
 同母兄の清経が長寛元年(1163年)生まれだから、その三、四歳下だとして、戦死の年齢は十八、九歳くらいが妥当である。源智の母は不明だが、平家都落ちにあたっては身重だったせいか、あるいは乳飲み子の源智を抱えていたため、維盛の妻同様、一門と行動をともにせず、源氏の追及を逃れて息子を育てあげた。時すでに源氏の世となっていただけに、子育ての苦労は並大抵ではなかっただろう。源智は十三歳の時、法然に弟子入りしたが、天台座主慈円のもとで出家をとげている。比叡山の実力者の庇護により身の安全を図るためだったのだろう。
 数年後、源智は法然のもとに帰り、以後十八年間にわたって親しく近侍した。法然の信頼が絶大だったことは、入寂の二日前、源智に直筆の「一枚起請文」を授けたことによく表れている。念仏の意味や心構えなど、浄土宗の要諦を説いたもので、法然自身の誓いの言葉が述べられていることから、「御誓言の書」とも呼ばれている。師の教えの核心であると見抜いた源智は、これを大切に首にかけて誰にも見せなかったが、親交のある僧にこわれて見せたものが世に広まった。
 知恩寺に移った源智は、そこで隠遁生活を送りつつ多くの宗教書を著した。その後、比叡山衆徒によって破壊された大谷寺(知恩院)の修復に尽力し、法然に次ぐ知恩院の開山第二世とされた。しかし、晩年はもっぱら知恩寺で隠遁同様の生活を送り、教団・宗派の拡大にはあまり積極的ではなかったようだ。性格や思想的な理由もあるのだろうが、源氏の追及をかいくぐり生き延びた幼い頃の体験が、派手な布教活動のブレーキをかけさせたのだろうか。そして暦仁元年(1238年)、北枕で西に顔を向け、念仏を二百余編唱えて往生を遂げた。享年五十六。  


●参考文献
角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/ 高橋昌明著『平家の群像』(岩波新書)/ 浄土宗ホームページ/ 国立国会図書館ホームページ


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