第12回 忠快の栄達2

2012/04/06

 前回、平家滅亡後、流人でありながら鎌倉の有力者の帰依を受けた忠快のことを書いた。平家出身の高僧として亡き一門の鎮魂を託されたのではないかと勝手に想像したわけだが、彼が優遇されたのは、単に平家の高貴な血筋を引いているという理由だけではなかった。
 鎌倉時代初期成立の説話集『古事談』に次のようなエピソードがある。ある時、十二歳になる北条時政の孫娘が急に気を失った。これという験者もいなかったので、折しも伊豆にいた忠快を招いて祈祷をさせたところ、娘に天狗がとりついていろいろなことをしゃべった。忠快は「これは、貴いお方が妄心を抱いてあらぬ道に堕ちたものです。お気の毒なので経を誦して菩提を祈りましょう」といって、誰がとりついているのか問うたところ、文字も上手に書けないはずの少女が「権少僧良実」と紙に書いた。忠快は「周防僧都の御坊がおいでなのでした(良実の父は周防守藤原孝清)」といって、良実の霊と話をしたところ、「私にはまったく悪意はありません。ここを通った時に、縁側に立っていた少女がたまたま私を見たのでとりついたのです。今はもう帰りましょう」といって退散し、少女は元に戻ったという。
 霊との交信や調伏といった宗教家として必要な霊力を備えていたからこそ、幕府首脳も忠快を尊崇せずにはおられなかったのだろう。
 頼朝・頼家の没後も、忠快は三代将軍実朝から厚く帰依された。建暦元年(1211年)以降、忠快はたびたび実朝のまねきを受けて鎌倉に下り、修法を執り行い仏像供養の導師を勤めた。建保四年(1216年)七月、忠快が相模川の河畔で六字河臨法を修したとき、実朝は一万騎を率いて臨席したという。忠快一世一代の晴れ舞台であった。
 鎌倉で抜きんでた声望を得た忠快も、後鳥羽院全盛の京では目立った存在ではなかった。しかし、承久の乱により後鳥羽が配流されると、代って治天の君となった後高倉院は忠快を重んじ、貞応二年(1223年)には院宣を下して、病気の平癒と長寿を祈願させた。後高倉院は高倉天皇の第二皇子(守貞親王)で、乳父母は平知盛夫妻。兄の安徳天皇とともに都落ちし、壇ノ浦の戦い後、京に送還された。平家と深いつながりをもつだけに、西海で苦楽を共にした忠快に頼むところが大きかったのだろう。晩年は比叡山三塔の一つ横川の長吏に任じられ、七年あまり同職を勤め、安貞元年(1227年)三月、六十六歳で死去した。
 忠快は学僧としてもすぐれており、契中阿闍梨の所説を収録した『密談抄』六十巻の撰述は、仏教史上の偉大な業績の一つに数えられる。また、忠快が起こした天台宗の一派は、彼の住坊のある場所にちなんで「小川流」と呼ばれ、台密十三流の一つに数えられた。その流派は『阿娑縛抄』を著した承澄、一条長成の孫で大蔵卿僧正と呼ばれた良信という二人の優秀な弟子によって継承・発展し、小川流の始祖として、忠快の名は永遠に仏教史に刻まれることとなったのである。


●参考文献
志村有弘訳『原本現代訳 古事談』(教育社)/ 角田文衛著『平家後抄』(講談社学術文庫) /


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