第11回 忠快の栄達1

2012/04/01

 一般にはあまり知られていないが、平家一門はけっこう「名僧」といわれる人物を輩出している。平重盛の孫(師盛の子)で、百万弁知恩寺の開基となった源智などは代表例だが、平家都落ちの際、すでに僧籍に入っていたために、壇ノ浦の戦い後も生きながらえた人は少なくなかった。教盛の子忠快もその一人である。
 平治の乱の3年後の応保二年(1162年)生まれ。すでに世は平家の全盛期になろうとしていたが、忠快は早くから出家して覚快法親王(鳥羽院の第七皇子)の門下に入り青蓮院に止住した。養和元年(1181年)十一月に権律師となるが、翌年兄の通盛、教経らとともに都落ちに従い、壇ノ浦で捕えられ文治元年(1185年)七月に伊豆へ流された。
 平家の権勢をバックに僧侶として高い地位に上った忠快であったが、実は彼の運命が開けるのは平家滅亡後なのである。同年七月二十六日、伊豆国田方郡小河郷にある伊豆国府に到着した忠快は、狩野宗茂の監視下に置かれ、国府の近くで四年間の配所生活を送った。平家の虜囚とはいえ、僧侶である忠快は粗略な扱いは受けなかったようだ。それどころか忠快は、この流罪期間中に頼朝をはじめとする鎌倉の有力者の帰依を受けるに至ったのであった。
 文治五年(1189年)頃、帰洛した忠快は、幕府から父教盛の旧領である東山の三条小川高畠の土地を返還され、そこに住坊と持仏堂を営んだ。彼の住まいは小川殿、持仏堂は宝菩提院と呼ばれた。
 建久六年(1195年)には、東大寺の供養のために上洛した頼朝に伴われて鎌倉に招かれた。この時、平知盛の遺児で中納言禅師と呼ばれた平増盛も同行し、その後、勝長寿院に止住したという。増盛は知章の弟、知忠の兄だったと推定されているものの、そのほかの情報はほとんど伝わっていない謎の公達である。平家の生き残りではもっとも嫡流に近い人物だったが、早くから僧籍に入っており、都落ちにも同行しなかったため配流されず、忠快とともに重用されたのだろう。
 その後の忠快の栄達は目ざましく、建仁三年(1203年)には師である慈円の譲りを受けて権少僧都に任じられ、承元年間(1207~11年)に法眼、権大僧都に、建暦年間(1211~13年)には僧侶の最高位にあたる法印にのぼった。僧侶とはいえ、叙位に鎌倉の意向が反映されないわけはないから、幕府の後押しがあってのことだろう。
 ところで、幕府が忠快や増盛を重用したのは、その学識や徳もさることながら、平家一門の鎮魂の目的もあったのではないだろうか。平家を滅ぼした当の頼朝がするわけにもいかず、さりとて大懺法院を拠点に活動する慈円たちに任せっぱなしというのも無責任である。平家の血を引く僧侶なら、あえて頼朝が頼まなくても一門の菩提を弔い続けるであろうし、彼らを庇護する幕府としても、多少なりとも平家に対して罪滅ぼしができたことになる。俗人ではないので幕府を脅かすこともない。
 そう考えると忠快の出世も、頼朝の度量の大きさなどと評価することはできない。冥界にいる平家に対する恐怖心、罪なき一門を滅ぼした罪悪感は、つねに頼朝の心をさいなんでいたのかもしれない。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 龍肅訳註『吾妻鏡』(岩波文庫)/ 角田文衛著『平家後抄』(講談社学術文庫) /


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