林彪同志にあたえる手紙(3)毛沢東 (1926年6月14日)



 四軍党内の家長制を攻撃するにいたっては、これも同様に一種の形式主義的な見方である。 ここでわれわれは何を家長制と呼ぶのかを問う。そのあとではじめて四軍の中に家長制があるのか どうか知る事ができる。そうではなく、口からでまかせを言えば必ず事実と符合しないだろう。 家長制の定義は、個人の命令だけがあって、集団の討論はなく、上級の委任派遣だけがあって大衆の 選挙はない、もしみんなが承認するのがこの定義であるならば、それではわれわれは見てみようでは ないか、四軍の党内にこの定義で言うところと同様のものがあるかどうか、そうすれば家長制が あるかどうかがわかるだろう。四軍の党の集団的討論は、支部から前委にいたるまでずっと このようであった。各級党部の会議、とりわけ全委、縦委両級の会議は、常任委員会、全体会議に かかわりなく、出席すべき委員のほかに、ほとんど毎回非委員の責任ある同志の参加がある。 もし少数の同志たちが健忘症を患っているのであれば、現在各縦委の会議録(三縦委は去年の 五月からのすべての会議録があり、一回も欠けていない)前委会議の会議録(今年からの 会議録がある、一回も欠けていない)を調べる事ができる。大きな問題、たとえば井岡山の出発の 問題、東固の分兵の討論、今回の論争および分兵問題の討論、等々はすべて大衆の意見を求めている。 四軍の党内にはただ個人の命令だけがあって集団の討論がないというのは、どうひねっても 言い通す事はできないだろう! 各指導機関の設立について言えば、支委(注、紅軍の中の 中共支隊委員会をさす。支隊は当時は営に相当する)から縦委、全委にいたるまでは、中央が 委任派遣したものである。ただしこれは四軍の党内の家長制の証明にはならない。四軍の党内では 事実上家長制を見出す事はできない。どうして少数の同志はこのような口実をつかうのか。 この種の言い方にはどんな客観的な來源があるのか。そうだ、それはつまり四軍の中には党部書記が 紅軍党代表を兼任する一種の制度があり、いくらかの同志は党代表と書記が職務上は別々の ものである事がはっきりせず、党代表と軍官の権限がこれまではっきりとしていなかったために、 つねに権限をめぐる争いが発生し、これによって頭がはっきりしていない人が、党代表がどこで 工作していても、党の書記がそこで工作しているとみなしてしまう事を引き起こしている。 三縦隊のいくつかの連の同志はその連の支部書記を「旦那」と呼んでいるが、つまりこのようにして 引き出されてきたものである。この弊害を除去するためには、党代表と書記を分けるしかない。 これには、一面では内部から人を探すべきであり、一面では外から多くの人を探してきてはじめて 解決できるものである。(これまでの兼任は人材があまりに少ないと言う事実によるものである事は、 みんながみんな知っている事である)。形式主義の根源は唯心主義である。唯心主義の根源は ルン・ペン、農民と小ブルジョア階級の成分の中から生まれてきた個人主義である。これと 小集団主義、流寇主義、単純な軍事観点等々は一つの路線の基礎の上にあるものであり、 一つのものにすぎない。この種の思想の発展のもう一つの方面は必ず分権主義である。――これも またルン・ペン、農民、小ブルジョア階級を代表する一種の思想であり、プロレタリア階級の 闘争組織(階級的組織――労働組合、階級の先鋒隊の組織――共産党、あるいはその武装組織―― 紅軍、どれであろうと)とあいいれないものである。軍委、前委の分権の形式が存在できないのは、 つまりこの理由である。
 虚栄心、誇張、英雄思想等々の腐敗思想は、すべて個人主義の一つの頭として出てきたものである。
 六、われわれは唯物史観論者である。すべての事は歴史と環境の二つの面から考察して 初めて真実にいたることができる。私はいま四軍ができて以来の歴史的問題の各方面を指摘し、 もって最近の問題(軍委問題、ただし原則の問題)は歴史的な結末であり、歴史上の一種の誤った 思想路線上の最後のあがきである事を証明した。われわれは絶対に紅軍の来源とその構成要素を 忘れてはならない。五月分の統計では、全軍の1324名の党員のうち、労働者311、農民626、 小商人100、学生192、その他95、労働者と非労働者の比例は23%隊77%である。個人の 思想を討論するとき、彼の出身、教育と工作の歴史を忘れてはならない。これは共産主義者の 研究態度である。四軍党内には明らかに一種の、農民、ルン・ペン、小ブルジョアジーの上に 樹立された正しくない思想がある。この種の思想は党の団結と革命の前とに不利なものであり、 プロレタリア階級の革命の立場から離れる危険がある。われわれは必ずこの種の思想(主要なものは 思想問題である、その他のものは小節である)と奮闘しなければならない。(注、原件は「奮闘」の あとに7、8字の脱落がある)、もってこの種の思想を克服し、紅軍の徹底的な改造を 追及しなければならない。すべての腐敗した旧思想の?除と紅軍の改造に障害のあるものは、必ず、 いささかの猶予もなくこれに反対しなければならない。これが同志たちの今後の奮闘の目標である。
 私が前委を離れることをせいきゅうしたことについては、別にこの種の闘争に消極、 不参加ではなく、そこには以下の理由がある。
 (一)党内の誤った思想との奮闘については、二年来すでに私の力をふりしぼってきた、 現在私はまた問題の内容を提出して以後、多数の同志たちに不断の闘争をおこなわせてはじめて 最後の勝利をうることができる。
 (二)私は四軍にいる日があまりに長くなっている。一種の歴史的地位から発生してきた影響は きわめてよくないものである。これが私が指摘しようとする中心の問題である。
 (三)わたし個人のからだはあまりに弱く、知識はあまりに貧しい、それゆえ私は中央を経て モスクワへ留学にゆき、兼ねてしばらく休息する事を希望している。中央の許可がえられない間は、 前委から私を地方へ派遣して少し仕事をし、私が環境を変えることによってそうとうの進歩を 得られるようにしたい。
 (四)四軍の党はすでに比較的堅固な基礎を持っている。わたしが去った後も、決して良くない 影響はないであろう。党の思想上の分化と闘争はすでに始まっている。決して、わたしが 去った事によって勝利の目的に到達できない事はない。それゆえきみの手紙の後の一段は 考えすぎである。もちろんわたしの工作は、わたしはただ意見を提出できるだけであり、 決定は党部でなければならない。わたしは一日離れなければやはりみんなとともにもう一日 思想闘争をおこなう事ができる!
 Cの敬礼
      毛沢東
       6月14日新泉にて
(中央档案館に保存する抄件に基づいて印刷)

 この手紙は、かつて『毛沢東選集』に収められていたが、後に削除された。その『毛沢東選集』と いうのは、もちろん現行のものではなく、その初版本でもない。いわゆる『辺区版』である。 革命前の共産党の指導する民主政府は、大部分がいくつかの省の境界地区に活動の中心が あったために**辺区政府と呼ばれる。中共第七回大会で毛沢東思想の旗を掲げた党は、各地区で それぞれ『毛沢東選集』を編集し出版した。そのため各地でさまざまな形の『毛選』が出版される 事になった。そして、このさまざまな辺区版『毛選』の中で、この『林彪同志にあたえる手紙』は つねに収録されていたものである。その内容は井岡山から古田会議にいたる二年あまりの間の、 紅軍内部の重要な政治、思想問題が、きわめて明白な言葉で、きわめて理路整然と述べられて いるから、党と軍の歴史を学び研究する上で欠く事のできないものだったからである。
 ところが解放戦争の後半になって、党中央から各辺区の党に通知が出され、今後この文章を 『毛選』に収録しない事になった。林彪本人が申し出た事によるとされている。しかし、文章の 内容の重要性から言って、林彪の申し出が何だというのか? 『毛選』にはもう一通、1930年に 林彪に宛てられた手紙も収録されているが、そちらは『小さな火花も広野を焼き尽くす』と題名を 変えて収録されている。こちらも名前を変えるだけでよかったのではないか? そうは行かなかった。
 この手紙は、当時毛沢東が朱徳とその取り巻きを痛烈に批判し、紅軍の改造を断固として主張し、 闘争した活動の中の一部である。この点は一読してわかるだろう。ではなぜこの手紙は『毛選』から 削除されたのか。それは、全中国の解放を前にして、党の主要な指導者の固い団結を全中国、 全世界に示す必要があり、そのために明らかに朱徳を批判したとわかる文章を、党の公認の指導者で ある毛沢東の論集の中に残しておくのは具合が悪いと、当時の中央が感じていたためであろう。 だが、「修正」はこれだけにとどまらなかった。
 1949年末から3ヶ月間にわたって毛沢東はソ連を訪問し、スターリンと何回か会談したが、 その中でスターリンは、すでに各地で『毛沢東選集』が出版され、ロシア語訳があるにもかかわらず、 『毛沢東選集』の編集と出版を希望した。それはつまり、スターリンがすでにある『毛沢東選集』を 認めようとしていないと言うことである。スターリンを恐れる中国の一部の指導者は、、そこで、 『毛沢東先週』の改定を開始せざるを得なかった。それはまさに、スターリンの中国の党に対する 思想的・理論的介入の再開であり、まさにスターリンの威信をかけたものであった。中共党内では、 毛沢東選集編集委員会が成立し、毛沢東からは相対的に独立してこの作業をすすめ、その結果著者の 本意を多くのところで捻じ曲げる『毛沢東選集』が創り出されてきたのである。この闘争は、巨大な、 複雑な過程であり、革命後の中国社会主義の本質問題に深くかかわっており、今はこれだけの事しか 言えない。
 国内的事情と、これに連動したスターリンの干渉と言う、二つの要素があって、中国革命の歴史は 大きくゆがめられて書きかえられ、それに合わせて毛沢東の論文も多くの削除と書き換えが おこなわれたのである。この状況は、1993年の毛主席生誕100周年を期に、いくらか 緩められるまで続いた。これ以後、それまで档案館の奥深くに秘蔵されてきた多くの文献が、 はじめて日の目を見るようになった。この文章もそうしたものの一つである。ただし、この文章は、 先に述べたように、辺区版の『毛沢東選集』に収録されていたから、その原本なり、 コピーなりを持っている人にはそれほど珍しいものでは無い。しかし、それらの文献を読み、 研究してきたと称する人々が、中国革命と毛沢東思想の真の内容について、なんら正確な論述を なしてきていなかった事も、あまりに明白である。
 このようにして歴史が書かれてゆくならば、すべての歴史は現在の過去への投影でしかないだろう。 もし現在の社会を変革しようとするならば、そのような歴史のインチキを打ち破る事は、 きわめて重要な課題の一つとなるだろう。金日成の抗日パルチザン戦争時代の伝記のデタラメを 暴いた一冊の本が、朝鮮社会に救いがたい混乱を引き起こしたように。日本と世界各国の歴史と 教育にはあまりにデタラメが多い。残念なことに中国においても例外ではない。文化大革命だけが それを撃破する巨大な国民運動になろうとしていたのだ。挫折したとはいえ、その巨大な 歴史的意味は計り知れない。このことがわからないものは、決して文明人とは言えないだろう。