林彪同志にあたえる手紙(2)毛沢東 (1926年6月14日)



われわれは41人の会議の中で36票対5票であの少数の同志たちがどうしても軍委を成立しようと した事を取り消した1件を見るだけで、大多数の人は必ず彼らの「団結に利なく、革命に利なき」 主張を擁護する事はないと知る事ができる。個人主義と反個人主義は、またすなわち個人指導と党の 指導の闘争でもあり、四軍の歴史問題のすべての糸口である。以下の各項は大体に言って (みなその根別れ)一項として正反の両種の意見でないものはない。われわれは簡単にあげてみよう。
 四、四軍の中ではずっと一部の同志が軍事観点に偏向しており、政治観点すなわち大衆観点の上に 立つ人と意見があわなかった。これは一つのきわめて厳重な政治路線問題である。長期の闘争の 経験と工農大衆の影響によって、この種の短銃な観点の頭は、次第にいくらか洗い流され、単純に 「大きな戦をやる」とか「数十の州県を取る」とか言う観念は比較的減少した。ただし完全に 消滅はしていない。機会があれば必ず発作する。とりわけ軍事的失敗のときは、ほとんどなんでも 取り消してよい、ただ銃を保存すればそれでよいとなる。これらの同志が会議のときもっとも いやがるのは、宣伝と組織の問題の討論であり、遊撃工作の中では単純に軍事的影響を拡大して 政治的影響を拡大しようとしない。軍閥軍隊の残余の小団体主義は紅軍に害をなす最大の問題の 一つである。少数の同志たちは努力して小団体主義を消滅しようとしていないだけでなく、反対に 省集団主義を助長する傾向がある。小集団主義が消滅しなければ、2、4団と同様の完全に集団的な 党の指導になれず、紅軍はただの聞こえのよい名称となってしまうにすぎない。
 流寇思想はこれまでずっと紅軍の中ではきわめてひどいものであった。その発生は四軍の中の 遊民成分による。党とこの種の思想は多くの闘争をしてきたが、その尻尾は今もまだ存在している。 以前にこの種の思想を代表していた人は、今もまだこの種の思想を放棄したとは言えない。流寇思想が 政治の面に影響したことのもっとも明らかな表現は、羅霄山脈中段政権問題での違った見解である。 われわれが忘れてならないことは、湘?辺界の割拠の問題での四軍党内の一致はわずかに表面的な ものにすぎず、内面では一部の同志が、時々刻々辺界の闘争から脱離しようとしているのであり、 ひとたび危機が至ったときは、これらの同志はただちに(注、原件はこの後3、4字の脱落がある) 湘?辺界の闘争に参加した人は誰でもはっきりしている事だ。湘?辺界の武装を建設する問題に ついては、紅軍の中から銃を取らなければならないために、これまでずっと一つの闘争になっている。 これは軍事観点と政治観点の二つの違った政治路線から違った見解が生まれていることの表現である。 紅軍のルン・ペン成分が流寇思想を生み出しており、同時に都市政策と紅軍の軍紀に影響している。 責任ある同志もまた明らかに違った意見を出している。一種は軍紀がいくらか敗壊しても、都市を いくらか破壊してもそうたいしたことではないとし、もう一種はこれと反対である。軍紀の 敗壊という一事については、ある同志はむしろ今回の勝利がなかったとしても、今回の軍紀の敗壊は あってはならないこととし、またある同志はこのような深刻な感覚はなく、やれやれ、フーッと 溜め息をついて終わりである。これは最近の例である。これまでの例はきわめて多い。軍紀の問題は 紅軍の一つのきわめて大きな政治問題である。だが、一種の人は厳しく、一種の人は緩やかにして、 効果はたがいに相殺してしまう。大衆の心理の上では、多数の人がやっていれば、少数の人が よくやっていても、結果として良くない影響が生まれる。
 時局の評価についてもまたこれまでずっと違った意見があり、これによって紅軍の行動についての 意見も違っている。特に辺界にいたときはきわめて顕著であった。去年の七月、四軍の大部分が 湘南へ行ったことに付いて一致しているところは、同志たちの大多数はみな誤っていたことを 承認しており、沙田の代表会議もまたこのように承認している。はからずも、最近の少数の同志の 中のおかしな見解は、かえって湘南へ行ったことが正しく、辺界にとどまっていた事が逆に間違って いたと言う。これもまた見解上極端に相反する例証の一つである。
 共産主義者の思想と行動はどうしてももう少し科学的である方がよい。しかし、一部の同志は ちょうど科学とは正反対のものである。一篇の演説、一つの行動からしてすでにきわめて多くの 矛盾を見出す事ができる。話しをしても、この話が生み出す影響を全く考えておらず、正しいか、 正しくないかにかまわず、しゃべりまくって終わりである。「君は何でもしゃべるがいい、 何をしても彼らにはそんなに多く理解させられない」。これはなんという非科学的な態度であろうか。 いやしくも、いくらかでも進歩的な軍隊ならば、規律化が必要である。紅軍本来のこのような 「ぐちゃぐちゃ」な現象は、われわれはそれは一種の原始的なルン・ペンの隊伍の現象であると 考えて、極力この種の現象と闘争するしかない。しかし、同志の中の明らかに一部分の人は意識的 無意識的にこの種の現象を擁護している。すくなくともこの現象に対して、それと戦う決意がなく、 ついに紅軍をして、今に至るも一定の規模に建設できなくさせ、ブルジョア階級の軍隊に比べてすら まだはるかに遅れている、これは実に嘆かわしい現実である。
 「爛牛皮は腐った牛の皮ではなく、爛豆腐は腐った豆腐ではない」、これは朱雲郷同志が 四軍の軍事技術があまりに低すぎる事を形容した憤激の言葉である。四軍で生活したことのある 人はすべて、四軍の軍事技術がきわめて低いところまできている事を承認せざるを得ないであろう。 だがどうしても一部の同志は、軍官の本職を訓練する事をやろうとせず、かえって日々政治上の煽動を おこなって、「土豪をやっつけれないのにまだどんな事をするのだ」というでたらめを 発生させている。この種の現象を改変しなければ、四軍の軍事技術の問題を解決する方法は ないであろう。
 五、最近になって両種の違った意見がもっとも明らかになったものは、軍委問題の論争にすぎるのは ないであろう。少数の同志たちはどうしても軍委がいるとしている。その内面は、党の指導機関を 一つ彼らの手の中に握っておいて、あの久しく抑えこまれていて日の目を見ることのなかった素志 (すなわちこれまでの指導路線とは違ったもう一つの指導路線)を伸ばそうとしている。しかし、 表面に出ている理由は依然として堂々とした立派なものである、惜しいことに完全に一種の 形式主義でしかないが。彼らは言う、「四軍と名乗っているからには、軍委がなければならない」、 「組織系統を完成するには軍委があるべきである」、これは完全に形式主義的な言い方ではないか。 現在はたったの4000余人の小部隊であり、多数の軍があって中央の下に多数の省があるのと 同様になっているわけではない。行軍するときが多い遊撃時代と、駐軍する時が多い辺界割拠の時代と ではまた全く違う。軍隊の指導は集中して敏捷であることを必要としている。少数の同志たちは、 これらの実際的な理由について少しも省みることをせず、ただ形式的に、前委の下、縦委の上に何が 何でも軍委を割り込ませようとしている。人といえばこのような人であり、事といえば このような事である、これはどんな人でも実際には必要のないものであることがわかっている。 しかし、少数の同志たちは九牛二虎の力を振り絞って、どうしても設立しなければならないとする。 つまるところどんな理由で説明できるのか。理由を探し出そうとすれば、私はこれは少数の同志たちの これまでの誤った路線の行き着くところだというしかない。二つの指導路線の最後の闘争は、 われわれが四軍の歴史を明らかにしさえすれば、容易に今回の論争の実際の意義を明らかに できるのである。
 新しい指導機関――軍委を成立させるためには、古い理由を探し出してきて、古い指導機関―― 前委から支部に至る、を攻撃せざるを得ない。彼らが提出した攻撃の理由のもっとも具体的なものは、 @、党が大衆の組織に入れ替わっている、A、四軍党内には家長制がある、である。彼らのこの種の 攻撃はまたすべて形式主義に陥っている。党の組織が大衆組織に入れ替わる事は、四軍の党ができて 以来厳禁しているものであり、前委指導下の工農組織について言えば、いかなる連の連支部も 連兵士委員会に入れ替わった事は無い。これは四軍の中の瞳のある人はみな見ていることである。 党部機関が大衆機関、あるいは政権機関に入れ替わったと言う事、たとえば縦委が縦隊兵士委、 縦隊司令部、縦隊政治部に入れ替わっている、前委が軍兵士委、軍司令部、軍政治部に入れ替わって いると言うことも、これまであった事はない。ただし少数の同志の形式主義もまたここで 発揮するのである。彼らは言う、党部機関は大衆機関および政権期間に入れ替わった事は ないけれども、ただし実際上縦隊司令部は軍司令部に報告する事が少なくなって、軍司令部はひまに なったと。少数の同志たちは、この種の現象は形式主義と必要主義の違いである事がわかっていない。 縦委あるいは前委の指導の強化は、すべての問題(およそ彼らが提出する必要のあるもの)はすべて 会議の席上に提出し討論し決定できる。その後で政権機関の責任ある同志に通知して執行して行く、 そうでなければこれを自由行動(たとえば自由に財政を支配し、自由に銃弾を支配する)という。 このような現れは党部の指導力量の強化の証明である。われわれはこれは一種の進歩の現象であると 承認せざるを得ない。毎回の会議は、政権期間の責任ある同士はみな出席している、そして意見も 求めている。かつ、多くの問題はこれらの責任ある同志の提議を求めてはじめて討論できるもので ある(たとえば作戦計画、官兵訓練計画、等)、みんながみな問題の討論と表決に参加している。 会議の後持っていって執行する、よって行政機関はいくらか簡単になった、いくらか自由になったと 感じるのである。実際上において、結局どんな不満があるのだろうか。軍長はひまになった、ただし 党代表(党部書記とは別のものである)のひまはいっそうはなはだしい。下級の党代表が彼に 報告しないからである。縦隊司令部は軍司令部に報告に行く事が少なくなった。ただし縦隊政治部が 軍政治部に報告に行く事はさらに少ない。後になってからの状態のほうが、これまでの行政の 自由支配に比べて、これまでの報告が多く来て盛り上がっていた時代――湘?辺界の初期――に比べて、 工作上効果があるのかどうか、闘争上いつそう便利なのかどうかを問題にせず、必要上、実際上から 評価せず、単に形式の上から評価する、これは一体どんな共産主義者の態度なのか。実際に 上手くやれないのに、形式上見栄えをよくしたところで、どんな役に立つのか聞いてみたいものだ。  湘?辺界の行委(注、行動委員会の簡称)を批判しながら、行委制度が辺界の闘争の中でどれほどの 効果を収めたのかを問題にせず、ただ形式上、これは党の機関が行政機関に入れ替わったものであると し、やってはならないと考えるに至っては、これもまた同様に形式論の誤りを犯している。このような 形式論が発展して行けば、勢い必ず、すべてのことの効果を問題にせず、ただその形式だけになる、 危険はまさに言うに耐えない。辺界の行委制度は辺界の闘争の上できわめて大きな効果があった。 これは瞳のある人にはみな明白な事である。かつ行委は一面では内部の党部であり、一面ではまた 公開の行政機関である、 

(以下次号)