毛沢東の林彪同志にあたえる手紙(1926年6月14日)



 林彪同志
 一、きみの手紙(注、林彪が1929年6月8日、毛沢東にあたえた手紙を指す)は 私にきわめて大きな感動を与えた。きみの勇敢な前進により、私の勇気もまた起きてきた。 私は必ずきみと、すべての党の団結と革命の前進をはかる同志たちとともに、全ての有害な思想、 習慣、制度に向かって奮闘する。現在の論争問題は個人的な、一時的な問題ではなく、 すべての四軍の党の、1年来の長期にわたる闘争の問題だからである。しかしこれまで、 種種の原因によってそれを隠蔽してきたが、最近になってようやく暴露してきたのである。 その実、これまでの隠蔽こそが誤りであり、現在の暴露こそが正しいものである。 党内に論争問題が発生することは、党の進歩であり、後退ではない。 いそいで調停しあいまいにしてしまい、双方の違いを消し去り、もって低俗ないわゆる大事を 化して小事とすることこそが退歩なのである。私は今回発生しなかったならば、 恐るべき悪い結果になるだろうと思う。白沙会議(注、1929年6月8日、 福建省上杭県白砂で召集された中共紅四軍前委の拡大会議をさす)のあと数日もしないうちに、 問題はすでに党内大衆のなかで熱烈に討論されてきている。私は同志たちと共に必ず この問題の徹底的な解明を要求し、調和してあいまいにし、模稜両可、是非を分けないことを 絶対にみとめない。かつ必ず、一つの、党の団結と革命の前進に利益のある意見を選択し ならびに擁護できる。これは絶対に疑いのないことである。
 二、四軍の闘争の歴史がわからなければ、現在の論争問題の来源がわからず、 その来源がわからなければ、四軍ができてから現在までの二つの思想体系の闘争の全ての問題の 性質がわからない。問題の主要な点には以下の各点がある。(一)個人の指導と党の指導、 (二)軍事観点と政治観点、(三)小集団主義と反小集団主義、(四)流寇思想と反流寇思想、 (五)羅霄山脈中段政権の問題、(六)地方武装の問題、(七)都市政策と紅軍の軍紀の問題、 (八)時局についての評価、(九)湘南の失敗、(十)科学化、規律化の問題、 (十一)四軍の軍事技術の問題、(十二)形式主義と必要主義、(十三)分散主義と集権、 (十四)その他の腐敗思想。まず私に以下に言わせてほしい。
 桟、個人指導と党の指導、これは四軍の党の主要な問題である。この問題を討論するには、 われわれがまずはじめに注意しておかなければならないことは、四軍の大部分は旧式軍隊から 形を変えて出てきたものであり、かつ失敗の環境の中から引っ張り出してきたものである、 という点である。われわれはこの二点に注意すれば、すべての思想・習慣・制度がどうして このように改めがたいのか、そして党の指導と個人の指導がどうしていつも分裂・抗争し (注、元件は「抗分」のあとに八―九字の脱落がある)、長期に一種の闘争状況の中にあるのかを 知ることが出きる。紅軍はもとより旧式軍隊から変わってきたものであるから、 一切の旧思想・旧習慣・旧制度の擁護者といくらかのこの種の思想・習慣・制度に反対する人が おこなう闘争をもまた持ちこんできた。これが党の指導権が四軍の中で今にいたるもまだ絶対的に 建立できていない第一の原因である。これだけではない。四軍の大部分は失敗の環境の下から 引っ張り出されてきたものであり、(これは1927年である)、結集はまた失敗の前の党の 組織であり、非常に薄弱であることはもとより、失敗の中で完全に指導を失っていた。 その時救いを得たのは、十の原因の中の九までは個人の指導に頼ってようやく救いをえたと言える。 これによって個人の膨大な指導権が作られた。これは党の指導権が四軍の中で絶対的に建立できない 第二の原因である。この二つの原因を明らかにして、われわれはさらに四軍党組織の以後の歴史を 見れば、個人と党の闘争の盈虚消長の機がいっそう明らかに成る。四軍が成立してからのち、 党は連に普遍的な基礎を建設したことから、現在上級の指導機関は闘争の政策の正しさ (湘?辺界特委、四軍軍委前委)、辺界各県の地方党部の建立、大衆闘争の発展、に対して、 個人の役割を次第に減少させ、党の指導を次第に強化させている。おおよそ三つの自記に 分けることができる。四軍の成立から去年の九月に再び省経地区に帰るまでが第一の時期である。 この時期は省境地区の逐次の戦争の勝利と湘南の失敗を含んでいる。党はこの時期の中では絶対的な 指導権を持つことはできず、小団体主義が十分に存在し発展しており、党はあえて銃器の上での 調動の試みをせず、紅軍・後方兼顧主義と少数の同志の紅軍本位主義は衝突しており、 軍需制度と編成法規は建立できていない。個人が政治と武器を支配することは常にあった事で、 この時期の党は連から軍にいたるまで、その実態から言えば、一種の従属的地位にあり、 いくつかの問題の上では絶対的に個人に従属していた。
 去年の九月再び省経地区に帰ってから、三月14日汀州を占領するまでは第二の時期である。 この時期に党は理論の上で小団体主義の建設(注、前後の文脈から、「建設」は「批判」の 誤りであろう)を開始出来た(実践の上ではまだできないけれども)、軍需制度の建立では、 七十五丁の長銃で一連とする制度(注、原件は「制度」の後に7―8字の脱落がある。)を成立した。 しかしまだ短銃(注、原件は「短銃」の後に約30字の脱落がある)には触れることができなかった。 銃を抜き取って地方に与えることは第一の時期のように困難ではなくなっていた。この時期内に 小数の同志は極力頭を低くしてきて、党は確かに指揮の地位にあった。支部から前委にいたるまで 大体上はみなこの様であったといえる。この時期ないにはいくつかのはっきりとした特徴がある。 第一は、湘南の失敗および大余の逃難の情勢のもとで、個人は何の大方向での指導も示すことはなく、 同時に党の指導に頼らなければ必ず失敗する可能性があった。第一の時期のように逐次の 軍事的勝利がなかったことは、党の指導が台頭した第一の原因である。第二に、この時期内の党の 組織と同志たちの政治的程度、闘争の経験は第一の時期に比べて確実に進歩している。少数の同志の 不正確な言論・行動が一般の人の擁護をえることはかなり容易ではなくなった。これによって 自分でもいくらか控えようとしている。これが党の指導が台頭してきた第二の原因である。 第三、この時期内に二つの新鮮な友軍に出会った。すなわち紅軍(注、彭徳懐、籐代遠の率いる 紅軍第五軍である。この軍は1928年12月井岡山革命根拠地に到達して紅四軍と会合した)と 二、四団(江西紅軍独立第二・第四団を指す。1929年2月、紅軍第四軍と第二・第四団は 吉安県東固で会合した)である。五軍は四軍に大きな影響を与えることは出来なかったが、 ただ小団体主義を打ち破る一点では確かに四軍に相当の刺激を与えた。特に柏路会議 (注、柏露会議は、1929年一月四日、江西省寧岡県柏路村で召集した 中共紅軍第四軍前委・湘?辺界特委・紅軍第四軍第五軍軍委等の連席会議をさす。 会議は中共第六回全国代表大会の決議を伝達し、いかにして湘?両省国民党軍の井岡山革命根拠地に 対する第三次「会剿」を粉砕するか、ということと紅軍の行動方針の問題を討論した。 彭徳懐が紅軍第五軍と第四軍32団を率いて井岡山を留守し、毛沢東・朱徳が紅軍第四軍主力を 率いて?南へ出撃し、外線機動作戦を実施することを決定した)で四・五軍の合篇の問題を 討論したとき、彭徳懐同志の憤激の表明は、少数の同志にすこぶる大きな打撃を与えた。 ニ、四団にいたっては、四軍の同志は彼らに会ってまったく穴があったら入りたいくらいであった。 彼らは、指導員が軍官を支配しており、前五冊(注、原件はこうなっている、 おそらく花名冊をさしているのであろう)上の軍官の名前は指導員の後に並んでいる。 一発の弾丸も党を通じなければ支配できない。彼らは絶対的に党の指導である。 これもまた四軍の党の指導の強化を援助した原因といえよう。
 汀州から現在までが第三の時期である。この時期内、党と紅軍の各方面はじっさいに これまでに比べていずれも進歩があった。一、ニ、三縦隊の編成によって、 小集団主義は事実の上から減弱を開始した、(注、原件は「縦隊委員会」の前に、 はっきりしない文字が三字ある)縦隊委員会は前委に比べていっそう役割を果たしている。 各級の党部はいっそう遠慮するところなく各種各様の問題を討論している。短銃の数目もまた 規定できている。政治部の成立で、司令武の職権もまた制限された。これはすべて組織に 関する方面のものである。政治路線の方面について、六回大会が指示した政治的任務は工作の上で 実現を追及して行けるようになり、時局の展開によって紅軍の組織もまた拡大した。 ただし党の意志がきわめて大きく伸張したことにより、個人の意志はこれまでにない痛苦を 感じるにいたリ、一連のいくつかの勝ち戦を戦ったことと、一種の形式主義の理論が遠方から到来し、 この三様が合流してもって近日の論争が爆発したのである。論争の焦点は現在の時代に軍党部は いるのかいらないのかの問題である。少数の同志が断固として軍委を必要としたために、 ついに前委を攻撃せざるをえず、ここにおいて党の機関の本体の問題に渉及し、 「党はあまりに多くを管理しすぎている」「権力があまりに前委に集中しすぎている」ということが 彼らの攻撃のスローガンと成った。弁論の中で支部工作に論及すると、ある人は支部は ただ同志の教育だけをすればよいという事を言い出している。これまた党の管轄範囲という 問題から出てきたものである。彼らは党が管轄する範囲は限定されるべきであると 主張しているのであるから、支部の工作もまたやはり限定しなければならないと 主張せざるをえないのである。党の意志が伸張し、個人の意志が減縮し、 一切の問題はすべて各級の党の会議の席上で決議した後、はじめて党員個人が決議にてらして 工作を執行することが許されるから、個人には英雄式の自由がなくなった、ここにおいて 相当の自由が必要であるということから、「一丁の銃でも党に伺いを立てなければ成らないのか」 「馬夫に食う飯がないことでも党に管理してもらうのか」という要求が出てきている。 これは彼らが党部の精密細小な工作を嘲笑するスローガンとなっている。 以上は彼らが湖雷の前委会議(注、1929年五月末あるいは6月はじめ、 福建省永定見湖雷で召集された中共紅四軍前委会議をさす)のときに発表した意見である。 議論した問題は三つ(党の勢力の及ぶ範囲、支部の工作、個人の自由がないこと)に 分かれているけれども、ただし精神は一貫している。つまり個人の指導と党の指導の 覇権争奪の具体的な表現である。最近の論争問題が発生した後、ある同志は、 四軍の党に一つの危機が到来した、もし少数の同志がおこなう個人主義の指導が勝利したならば、 その時は必ず君からの手紙が言っているような一種の党の団結・一致を破壊し、 革命の前途に不利なものが到来するだろう。タダし私はそうは成らないだろうと信じている。 現在の四軍の党員は第一・二の時期に比べていずれも明らかな進歩があり、各縦隊の基礎はすでに 動揺できないものになっており、個人の私的な欲望からする決定は必ず大衆の拒絶するところと なるからである。
(以下次号)