読書録654(2006.08.31)
J. D. Salinger, THE CATCHER IN THE RYE
(Little, Brown and Company, 1991)
J.D.サリンジャー(村上春樹訳)『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
(白水社、2006年)
J.D.サリンジャー(野崎孝訳)『ライ麦畑でつかまえて』
(白水社、1984年)
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読書録649で僕が成長過程で共感した作品として井上靖『あすなろ物語』を紹介しました。今回は同時期に共感したもう一つの作品、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をとりあげます。なお、原作は1951年刊行、野崎孝訳は1964年、村上春樹訳は2003年のものです。 ・J.D.サリンジャー(J. D. Salinger) 1919年1月1日ニューヨーク市生まれ。1951年発表の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(『ライ麦畑でつかまえて』)で一躍アメリカ文学を代表する作家の仲間入りをする。気難しい性格で知られ、1965年を最後に作品を発表しておらず、隠遁生活を続けている。 ▼あらすじ ホールデン・コールフィールドが、ペンシルヴァニアの高校を退学させられた後、自宅のあるニューヨークを彷徨するまでの3日間の話をする。 ▼感想 本作品にはあらすじというほどのものはありません。ホールデンの一人称の語りで進みます。しかもホールデンは16歳で高校を退学させられた少年。それを原著で200ページも読まされておもしろいのかと思われるかもしれませんが、これがおもしろいのです(笑)。 第一に驚くべきはホールデンの語り。まず口調がテンポがいい。このテンポを再現しようと翻訳も頑張っているのですが、やはり原著にはかないません。単語の種類は多くないのでこのテンポを味わうためにもぜひ原著で読みたい一冊です。 次に話にユーモアがあります。冒頭から、通っていたペンシー高校の広告には馬に乗った生徒の写真が載っているけど馬なんて一度も見たことない、という具合です。 また、ホールデンの思考や洞察力にはなかなか鋭いものがあります。例えば僕が好きなのは次の箇所です。 《僕は、千ドル賭けてもいいけど、イエスは絶対にユダを地獄になんか送らない、と言った。今でも僕は、千ドル賭けるね。もしも千ドルあったらば。あの使徒たちだったら、どの人だって、ユダを地獄に送ったろうと思う――しかも、さっさとさ――しかし、何でも賭けるけど、イエスは絶対にそんなことはしない。》(野崎訳「14」156頁) これは遠藤周作のユダ観、イエス観に近く、僕も同感です。それから、最後の方でアントリーニ先生にする「わき道」の話も印象に残っています(「24」)。この作品のことを言っているようでもあり、また、教育とはどうあるべきかということを考えさせられます。 それにしても、ホールデンの語りはすごく自然でリアリティーがあります。本当に16歳の少年が語っているように感じられるのです。そもそも将来何になりたいかと妹のフィービーに聞かれて、ライ麦畑で子どもたちが崖から落ちそうになるのを捕まえる人(キャッチャー・イン・ザ・ライ)だと答えるのがすごい。しかもこの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という言葉はロバート・バーンズの詩の一節である"If a body meet a body coming through the rye"の"meet"をホールデンが"catch"と間違えたことから連想されたものだというのですから込み入ってます(「22」)。でもそれがいかにもホールデンらしくて自然なのです。サリンジャーが30歳の若さでこの作品を書いたということよりも、30歳にもなって16歳の少年の気持ちや話し方をここまで書けたことに驚嘆します。 ホールデンの魅力はその語り口だけには終わりません。やはりホールデン自身に何か惹きつけるものがあります。彼は弁護士の父親を持つお坊ちゃまで私立の全寮制の学校に通います。しかし周りが"phony"(インチキくさい)のに嫌気がさし、勉強にも身が入らずついには退学させられるのです。これだけを聞くとユーモアといい、インチキを嫌う性格といい、夏目漱石の『坊っちゃん』(読書録50)を思い出すかもしれません。しかし「坊っちゃん」が一応大人として精神的に安定しているのに対し、ホールデンは思春期の少年らしくいろいろな箇所にアンビヴァレント(両義的)なところや不安定さを残します。 そもそもホールデンが裕福な家に育ちながら落ちこぼれであるということ自体アンビヴァレントです。また、正義感が強いかというとそうとも言い切れなくて嘘をついたり、臆病だったりもします。つまり、イノセント(純粋)なところが残っているのも確かなのですが、結構悪かったり弱かったりするところもあるのです。でもそれがまたホールデンのリアリティーを高めていますし、読者の共感を呼ぶのではないでしょうか。 それでは当時の僕はこの作品のどこに惹かれたのでしょうか。ひとことで言うと、思春期に苦しんだり悩んだりしているのは自分だけではないと感じられたことです。僕もホールデンのような年頃(あるいはもう少し上の年齢まで)には不安定な部分を持っていました。例えばホールデンは妹のフィービーに好きなものやなりたいものを挙げろと言われて即答できずに困ってしまいます(「22」)。この場面は井上靖『あすなろ物語』(読書録649)で鮎太が信子に言われる「貴方は翌檜でさえもないじゃあありませんか」という言葉同様、僕の胸にぐさっと突き刺さりました。 この作品は読者に解答を与えるものではありません。むしろ読者と考えや悩みを共有することによってその重荷を少しでも和らげるものです。遠藤周作の言う「苦しみの共有」ですね。最初にこの作品を読んだ時、ホールデンが精神療養施設のようなところに入れられているラストにがっかりしたものですが、今ではその先というのは自分で切り開いていくものなのだろうという気がしています。 なお、翻訳の違いですが、野崎訳は古いので今読むと言葉づかいに多少の違和感があります。でもホールデンのつっぱている側面はうまく表現できています。対して村上訳のホールデンはお坊ちゃま的なところが強くあらわれている気がします。どちらを選ぶかは好みの問題なのでしょうが、できれば頑張って原著に当たって欲しいです。 2006.08.31. |
●関連読書録
・村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』
http://www6.plala.or.jp/Djehuti/655.htm
【『ライ麦畑でつかまえて』関係】 http://tinyurl.com/q78oa