読書録581(2005.09.17)
大嶽秀夫『日本型ポピュリズム』(中公新書、2003年)
| 今回の総選挙は小泉与党の圧勝で終わりました。なぜ小泉は空前の勝利をおさめることができたのか。一つの説明としてポピュリズムという言葉が使われることがあります。しかしこのポピュリズムは日本の政治にとってどのような意味を持つのでしょうか。それは危険な扇動なのか、それとも必要な政治戦術なのか。そのようなことが気になって手にとったのが本書です。 ・大嶽秀夫(おおたけ・ひでお) 1943(昭和18)年、岐阜県に生まれる。京都大学法学部卒業後、東京大学大学院博士課程修了。シカゴ大学、ハンブルク大学、パリ政治学研究所に留学。専修大学助教授、東北大学教授を経て、現在、京都大学法学部教授。政治課程論担当。 |
▼本書の内容
【まえがき】
1990年以降、政治不信(政党とくに与党と官僚への不信)と、ときおり現れる特定政
治家への期待の高まりと、その退潮が繰り返されてきた。細川護熙、菅直人、橋本龍
太郎、加藤紘一、小泉潤一郎、田中真紀子、小沢一郎、石原新太郎。共通するのは、
政党や官庁を敵に仕立てて、改革の姿勢を演出している点である。
【序章 「政治改革」とは何であったのか
1990年代政治の帰結としての2000年総選挙】
1990年初頭における「改革派」は、(1)新保守主義(小沢一郎に代表される。小さ
な政府、二大政党制を目的とする。)、(2)市民参加型(成熟した市民の多様な意見
を代表、集約する機能を政党に求める)、(3)社民勢力の3グループに分けられる。
細川政権はこれら改革三派結集によって実現した。しかし、三派は協調が困難で結局
崩壊、改革構想も実を結ばなかった。
90年代後半の橋本改革は基本的には小沢路線に近いものであり、官僚組織にメスを
入れるという点では民主党の官僚批判を「盗用」したものであった。ところが景気後
退と金融危機もあって橋本は財政改革で躓き、退陣に追い込まれた。
結局自民党は公共事業をテコに景気回復を優先させる政策を採り、2000年の総選挙
では、財政改革を主張した民主党が都市部で躍進した。
【第一章 派閥政治の終わりの始まり
「加藤の乱」にみる自民党内権力構造の変容】
「加藤の乱」の分析を通し、派閥力学という自民党内権力構造が変容したことを指
摘する。派閥が以前のように機能しなくなった理由としては、小選挙区制の導入、官
邸主導の強化などが挙げられる。
【第二章 国民投票的首相選出の実現 小泉純一郎の自民党総裁当選】
派閥の力の低下、地方首長選挙への注目、森首相の国民的不人気、などが手伝っ
て、首相も国民の支持が高くなければならないという雰囲気が生まれた。2001年の自
民党総裁選は、「国民投票」による首相選出の様相を見せた。そこで橋本圧勝の予想
を覆して総理総裁となったのが小泉純一郎である。
小泉には大衆動員の才能があった。中でも最も注目されるのは、「派閥」「抵抗勢
力」という敵を作ることで自らを立てる善玉・悪玉二元論である。
【第三章 日本におけるネオ・リベラル型ポピュリズム
小泉総裁誕生の比較政治学的考察】
小泉政治はポピュリズムだとしばしば評される。
ポピュリズムとは、《「普通の人々」と「エリート」、「善玉」と「悪玉」、「味
方」と「敵」の二元論を前提として、リーダーが、「普通の人々」の一員であること
を強調すると同時に、「普通の人々」の側に立って彼らをリードし「敵」に向かって
戦いを挑む「ヒーロー」の役割を演じてみせる、「劇場型」政治スタイルである。そ
れは、社会運動を組織するのではなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持
を調達する政治手法の一つである。》(118-9頁)
20世紀アメリカで最も成功したポピュリストとされるレーガンと小泉を比較すると
次のようなことが言える。
(1)二人ともネオ・リベラルな政策志向とネオ・リベラルのもつ政府批判・政治批判
を主張の中核にもつ。しかし、小泉には体系的な理念がない。
(2)二人ともテレビを通じた大衆へのアピールが効果的である。しかし、小泉の場
合、レーガンとは異なりこれは「科学的手法」によるものではない。また、レーガン
は小話が巧みであった。
また日本は、首相の任期が保障されないため、常に国会議員の支持が必要となると
いう制度上の違いもポピュリズム機能の土台としては大きい。
2000年総選挙では、党首を前面に出した各政党のCMが流布された。これは日本政治
におけるポピュリズムへの転換がどの党においても起こったことを象徴するものであ
る。
【第四章 戦略なきポピュリスト政治家 「真紀子旋風」と「真紀子騒動」】
政策理念が欠如しているにもかかわらず高い人気をもつに至った田中真紀子を素材
に、日本におけるメディア政治とポピュリズムとの関連を再検討する。
田中真紀子は、鈴木宗男と外務官僚という悪玉を利用して、善悪二元論を展開し人
気を維持し続けた。それを支えたのがテレビ、とくにワイドショーであった。田中真
紀子に批判的な番組を作ると苦情が殺到するため、彼女を「悲劇のヒロイン」として
とりあげ続けたというあるプロデューサーの証言もある。いずれにしても、田中真紀
子の異常な性格、政策理念の欠如がメディアでとりあげられることは極めて少なかっ
た。
【第五章 テレビニュースの変容 日本におけるポピュリズム登場の背景として】
90年代以降顕著になったポピュリズムの背後には、マスメディアの新しい潮流が存
在し、それが政治の動向に大きな影響を与えている。90年前後、単なる娯楽に飽き足
らず、内外の政治、経済の動きを知りたいという欲求を持つ視聴者に応えるため、テ
レビはワイドショー的報道番組を立ち上げていった。
このような報道番組は、複雑な問題について理解を促す効果があった反面、政治を
娯楽としてみる傾向を助長し、政治の劇場化を生んだ。そして「劇場型」政治のもつ
善悪二元論が強化された。
アメリカとの比較すると、日本におけるポピュリズムの特徴は次のように指摘でき
る。
(1)アメリカではテレビがポピュリズムを助長するのに対して、新聞は辛らつな批
評や解説でそれを中和・解毒する。日本ではテレビの人気を新聞が増幅する傾向があ
る。
(2)日本のメディアにおいては、その横並び体質と視聴者に媚びる性質がとくに強
い。
(3)日本ではテレビの発言が世論に対してもつ権威が大きい。
以上の理由から、日本社会には、ポピュリズムの登場に抵抗する力が決定的に不足
しており、(あきさせる)「時間」という解毒剤に頼らざるを得ない。
【あとがき】
今日の日本政治にとって最大の不幸は、「改革派」が、常にマクロ経済的に誤った
政策を掲げ、政権をとったとたんにそれを推進してきたことである。この10年の日本
政治の「期待と幻滅のサイクル」を生んでいる構造的要因はここにある。マスコミや
世論に定着した「道徳的禁欲主義」による政策判断を止めない限り、このサイクルを
克服し、深刻な不況という日本にとって最大の課題を解決することは不可能である。
マスメディアによって、あまりに「道徳主義」化し、善玉・悪玉二元論に固まって
しまった有権者の判断を、成熟した大人の「現実主義」によって、克服すべきときが
きている。
▼全体の感想
説明不足だったり、一冊の本としてのまとまりがないなど、不満はありますが、読み
方によってはおもしろい本でした。
ポピュリズムは日本ではしばしば《統治責任を放棄し、大衆に「甘い」政策を訴える
「大衆迎合主義」と同義》(110頁)に使われます。例えば、田原総一郎が「痛みの
伴うことを言う小泉はポピュリストでない」(読書録206参照)と言う場合は、この
意味です。
しかし、大嶽秀夫は政治学上の概念整理から、ポピュリズムとは、
《「普通の人々」と「エリート」、「善玉」と「悪玉」、「味方」と「敵」の二元論
を前提として、リーダーが、「普通の人々」の一員であることを強調すると同時に、
「普通の人々」の側に立って彼らをリードし「敵」に向かって戦いを挑む「ヒー
ロー」の役割を演じてみせる、「劇場型」政治スタイルである。それは、社会運動を
組織するのではなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手
法の一つである。》(118-9頁)
と定義し直します。こうすると、抵抗勢力という敵を設定する小泉純一郎もポピュリ
ストということになります。
ポピュリズムという言葉が何を意味するのか、まだ流動的でよく分かりません。しか
し、ジャーナリスティックに飛び交っている「ポピュリズム」という言葉を政治学の
立場から整理した点は評価できます。少なくとも、ポピュリズムには「大衆迎合主
義」と「善悪二元論的劇場型政治スタイル」という二つの使われ方があるという区別
は有用です。
▼不満点 その1
ただし、本書のポピュリズムの論じ方には疑問もあります。
まず、ポピュリズムの定義が110頁まで現われないことです。それ以前にもポピュリ
ズムという言葉は使っているのですから、少なくとも暫定的な定義を頭にもってくる
べきでしょう。
次に、ポピュリズムに関する説明(第三章)も深みに欠けます。例えば、ポピュリズ
ムが没価値的概念なのか、評価を含む概念なのかもよく分かりません。恐らく大嶽秀
夫は否定的にこの言葉を使っているのでしょうが、ポピュリズムには彼自身認めるよ
うに、一般の人が政治に関心を持つようになるという利点もあります。このポピュリ
ズムの功罪をどう評価すればよいのか。それは立花隆が指摘するように(読書録
331)もはや不可逆的な現象なのか、はたまた克服すべき現象なのか。この点がはっ
きりしません。
また、ポピュリズム=善悪二元論と考えた場合、自民党を親米的反動保守と批判した
革新勢力も、自民党と官僚の癒着を批判している民主党も、自民党を悪玉にしている
ポピュリズムだということになります。そうすると何でもポピュリズムということに
ならないかという懸念もあります。
加えて、ポピュリズム登場の背景にあるメディアの分析にも一部疑問があります。例
えば、本書には、(A)『ニュースステーション』や『NEWS23』といった報道番組が
ポピュリズムを助長した、(B)小泉政治はポピュリズムである、という二つの命題が
あります。しかし、(A)で挙げられている番組が小泉政権に対しては批判的であるこ
とを考えると(以前、テレビ朝日社長も、選挙前の一部番組報道で、公平を欠いて民
主党を持ち上げたと認めました)、(A)と(B)は必ずしも一貫しません。この点は説明
が必要でしょう。
▼不満点その2
大嶽秀夫の問題を認識する態度にも疑問を感じました。彼はあとがきで、《今日の日
本政治にとって最大の不幸は、「改革派」が、常にマクロ経済的に誤った政策を掲
げ、政権をとったとたんにそれを推進してきたことである。》(239頁)と述べてい
ます。景気回復(恐らく財政支出)を優先させないから日本の政治はダメだ、そのダ
メな政治を許しているのは善玉・悪玉二元論(ポピュリズム)に固まったメディアだ、
と主張するのです。
しかし、財政支出をした方がよいかどうかは専門家の間でも意見の分かれる問題で
す。それを財政支出すべきと決めつけて上のような結論を導く態度は大いに疑問で
す。大嶽秀夫自身が正しいと考える方向に政治が向わないのはポピュリズムのせいだ
と言っているように聞こえます。これは論理的にもおかしく(なぜならポピュリズム
でなくても、政治が大嶽の考えと違う方向に向かうことはあるから)、政治の言葉と
しては許されるでしょうが、慎重さ、客観性を求められる学者の態度からは勇み足の
ように思えます。
実は小泉ポピュリズム批判をする人には往々にしてこのような安易な論理が見られま
す。すなわち、小泉がやっていることには反対だ、しかし国民の小泉人気は高い、小
泉のやっていることはよくないのに国民の人気の高いのは小泉がポピュリズムを利用
しているからだ、となるのです。しかしそもそも「自分の考えが絶対に正しく小泉が
間違っている」という考え自体が正しいのかをまず検討すべきです。この作業を無視
したポピュリズム批判はレトリックの範囲を超えません。
▼その他
一冊の本としては不満でしたが、個々の論文にはおもしろい分析も含まれていまし
た(深みはいまいちですが)。
第三章では、レーガンと小泉が比較されています。そこでは、小泉にあるのは素朴な
効率主義だけで、レーガンのような「新自由主義」「新保守主義」といった思想的な
体系はないと分析されています。これはその通りかもしれません。ただ、それでは日
本の他の政治家で思想的な体系を持っている人がいるかというと、その点は心細いも
のがあります。また、思想的な体系を提供できない学者にも責任の一端があります。
ブレアがブレーンとして採用したギデンズのような学者が日本にいるでしょうか。
第四章は、戦略なきポピュリスト政治家として田中真紀子をとりあげています。上杉
隆(読書録330)や立花隆(読書録331)の視点とはまた異なり、メディアの動向に注
目している点が特徴です。
▼終わりに
以上の感想を総合すると、本書は個々の論文を一冊の本として十分まとめきれていな
い、ということになります。構造としては、事例研究を集めたものなので、最後にそ
れらを束ねる結論が一章分くらいは欲しかったところです。「ポピュリズム」という
言葉を、政治学の領域で位置づけようという試み自体、たいへん興味深いものである
だけに、この点は残念でした。今後、より深く、より包括的なポピュリズム論を期待
したいです。
ところで、大嶽秀夫は、ポピュリズムに対する抗体が不足している日本人には、飽き
る「時間」が必要であると述べています(第五章)。この論が正しいとすると、田中
眞紀子が飽きられているのは彼女がポピュリストだったからということになります。
逆に4年も政権の座についている小泉純一郎は単なるポピュリストではないということ
なのでしょうか。今回の総選挙に対する大嶽秀夫の見解が気になるところです。
2005.09.17.
●関連読書録
【政治史・事情】 http://www6.plala.or.jp/Djehuti/NDC300.htm#312