読書録92(2001.07.22)
松本清張『ゼロの焦点』(新潮文庫、1987年改版)
| 阿刀田高『日曜日の読書』(読書録90)の課題図書のひとつである。松本清張の代表的推理小説でもある。 相手の過去をほとんど知らないうちにお見合い結婚をした禎子。結婚後一週間で夫・鵜原憲一が行方不明になる。禎子は憲一の会社の後輩と、憲一の行方を探すが、後から協力してくれるようになった憲一の兄の奇妙な行動に気付く。そして第一の殺人事件が発覚する・・・。 阿刀田高によれば、松本清張の推理小説の特徴は、動機の強調である(『日曜日の読書』、162頁)。犯罪には必ず動機があり、動機を追及すればそこには人間ドラマがある。そう考えた松本清張は、推理小説を単なる娯楽的トリックものではなく、動機を重視した社会派小説として描くことに成功したのである。 (以下、内容に関わりのある個所はハイライトをしないと読めません) 1950年代後半に書かれた本作品は、戦後直後の混乱が尾を引いて生じた悲劇を描いている。被害者の妻である禎子に、犯人に対して、「自分の名誉を防衛して殺人を犯したとしても、誰が彼女のその動機を憎みきることができるであろう」(393頁)と考えさせているのは松本清張自身の思いであると言って良いであろう。今からはなかなか想像しづらい動機が潜んでいるのだが、当時の社会状況を垣間見ることができ、興味深い。 推理小説史的にみて、社会派推理小説を確立したという意味では、本作品は優れているのだろう。しかし、正直、ひとつの作品として今読んだ場合、決して満足できる内容ではなかった。いくつかの不自然な点が気にかかるからだ。 |
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まず細かいことだが、長男・宗太郎、次男・憲一という名前の付け方に違和感を感じ
る。憲一も長男のような名前だからだ。
謎解きにあたる主人公・禎子が自身の危険を感じないのも不自然だ。禎子は、一緒に
事件の真相を探っていた本多が死んでも、自分が殺されるとは思っていない。犯人は
真相に迫る者を殺害していたので当然、禎子も狙われてもおかしくない。
禎子や本多が警察に自分が知っていることをほとんど言わないというのも違和感を感
じる。僕は警察を信用し過ぎている、あるいは、「罪の無い人が疑われたらどうしよ
う」という気持ちが希薄なのかもしれないが、禎子や本多は警察不信とも思えるほど
何も言わない。本多が殺された時点で、禎子が彼は憲一失踪・宗太郎殺しの謎を追っ
ていたと警察に打ち明けていれば、事件は警察によって解決されたのではないか。さ
らに言えば、本多が知っている範囲を警察に打ち明けていれば彼は殺されることはな
かったのではないか。この辺りの彼らの心理は理解に苦しむ。
それから禎子や本多が聞き込みを行なうと、皆、ペラペラと知っていることを話すと
いうのも非現実的でないか。特に、医者は自分が見た遺体やその家族に関する情報、
遺書の内容に至るまでを他人に話すものであろうか。
本多の殺され方も不自然だ。宗太郎が青酸カリ入りウィスキーで殺されて、そのこと
を知っているのに本多もウィスキーを飲んでしまう。普通は注意するであろう。ま
た、ウィスキーを差し出した久子もウィスキーを出せと犯人に命令された時点で宗太
郎の殺人犯を疑っても良いはずだ。
禎子が最後に犯人に「自分の名誉を防衛して殺人を犯したとしても、誰が彼女のその
動機を憎みきることができるであろう」(393頁)と同情を寄せる場面があるが、新
婚一週間で夫を殺された妻の心理として、この感情は不自然な気がする。もっと犯人
を憎むものではないか。同じ女性としての同情を差し引いても納得できなかった。
禎子と憲一がお互いのことをほとんど知らずにお見合い結婚するというのはどうなの
だろう。1950年代後半のお見合い結婚はこんなものだったのだろうか。
以上、疑問に思った点を述べてきたが、社会派推理小説の先駆としての本作品の価値
は変わらないことは言うまでもない。古典として読むには値するだろうし、読んでい
てドキドキする場面も多かった。ただし、この作品はほぼ半世紀前の作品であり、現
在とは時代背景が大きく異なる部分が多々ある。また、今ではより現在的な社会派推
理小説も多いことだろう。今、ただ楽しむためだけに推理小説を読みたいと言われた
ら、この作品は薦めない。
2001.07.22.