読書録159(2001.11.23)
井上ひさし『自家製文章読本』(新潮文庫、1987年)
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古本屋に行ったら、100円棚に『文章読本』と題する本がいくつか置いてあった。ど
れも著名な作家によるものばかりなのでまとめて買ってしまった。本書はそのひと
つ。
読書録を書き始めて、僕も「書く文章」というものを意識するようになった。最初は
自分の備忘録としていい加減に書いていたのだが、他人の目に触れる形にしてから
は、やはり「良い文章を」という気持ちが強くなる。
「習うより慣れろ」「継続は力なり」で、初期の読書録を見直すと、最近の文章は随
分とこなれてきたように感じる(以前が酷かったのだが・・・)。書いているうちに
色々と気づいて自分なりに工夫・改良したのであろう。しかし所詮我流である。この
辺で、文章について勉強するのも悪くはないと思った。
▼本書の内容
題名からも分かるように、文章を書きたい人に向けて書かれた読本である。「文間の
問題」「オノマトペ」「和臭と漢臭」など、テーマ別に話が進む。以下、要点のみ箇
条書きする。
・文体は形式ではない。生命おどって書いたものは必ずや文体を持つのだ。
・「話すように書け」と言われるが、書き言葉は話し言葉とは異なるものだ。最大の
違いは、言葉以外の援護射撃(状況等)を期待できないことである。「自分のなかに
眠っている力を、言葉であらわすよろこび」(53頁)、これだけが文章を綴る際の援
軍である。
・「透明度の高い文章ほど名文である」という常識があるが、これは疑わしい。「い
かなる文章にも、それが文章であるかぎりレトリックの力が働いているのである」
(84頁)。
・前の文と、次の文との、間のことを「文間」と呼ぶ。他の文章読本では等閑視され
ているが、この文間は、文章にとって決して無視できない要素である。文間を詰める
か広げるかによって読者の想像の余地を伸縮することができるなど、文章の印象がこ
れによって随分と変わるのだ。
・三島由紀夫はオノマトペ(擬音語、擬態語)を嫌悪する。しかし、日本の動詞の弱
さを考えると、オノマトペの支えが不可欠であり、毛嫌いするのはおかしい。オノマ
トペは具体的且つ感覚的であり、強い力があって読む者を現場へ、現場へと引き摺り
込むのだ。
・日本語文は文末が単調である。これは日本語表現が文末で決定することに由来する
(ほとんど動詞で終わるから単調になる)。多彩な文末はチョムスキーの言う「体系
の空白」なのだ。しかし、この文末問題を運命として受け入れた上で書かかれた名文
は少なくない。
・日本語には漢文的表現と和文的表現がある。漢臭の強い文体ほど公=体制=規範に
近い。したがって、漢臭は大説を述べるにはふさわしいが、小説には不向きである。
・文章を書くというと、まず五分法・四分法や、よい文章をたくさん読むことが説か
れるが、それは順序が逆である。文章の燃料は「書かねばならぬ」という思い込み
だ。それがあって初めて五分法や四分法も役に立つ。
・文章を書くということは、話す、書く、読むとは異なり、半ば自然発生的ではな
く、強制されてようやく身につく能力である。それも使っていないとすぐに錆び付
く。
・「文章の中心思想は短文にまとめるとよい。その短文もできるだけ単純な方が良
い。というのはこの短文が、やがて綴られるはずの文群(=文章)の、一つ一つの文
の染色体となるだろうからである」(222頁)。名作には常にこの「単純さの原理」
(二つの仮説が抗争している場合、より単純な仮説の方が真理に近い)が働いてい
る。
・文体の代わりに四つのし切りを提案する。
(1)文章形式(文章の外見上の特徴)
(2)文章流儀(書き手の個性のあらわれ)
(3)文章成果(2がうまく行くと、この3が実現する。文学上の最上の成果として
の文体)
(4)文章様式(その文章を手本にすれば、その時代の人々がそれぞれ自分の内的経
験を表現できるかもしれない、とそう思い込むような、その言語共同体の手本になる
ような文体)
(1)(2)は学習可能だ。文章の中心思想が決まったら、自分がこれから書こうと
しているのはどんな体裁の文章かを自問自答し、そのお手本を熟読するべし。
・「筆者は何人かのすぐれた書き手を知っているが、一人の例外もなくいずれもすぐ
れた読み手である」(255頁)。
・ことばは時間に対抗するための人間にとっての唯一の武器である。読書行為には
「過去とつながりたい」という願いが、書記行為には「できるだけ遠い未来へとつな
がりたい」という想いが込められている。
▼博学・井上ひさし
本書は、井上ひさしの博学が存分に活かされた文章読本になっている。とにかく自説
を補強する為の材料が多様・豊富なのだ。古典、近代文学の名作、他の文章読本から
の引用はもちろん、広告、文章心理学、情報理論、エスペラント、果てはハナモゲラ
語まで援用するのである。しかもそれらがどれも単に奇を衒っているだけでなく、強
力な論証になっているから驚いていしまう。
中学生の頃に読んだ『ブンとフン』があまりにも面白くなかったので、井上ひさしの
著作は今まで敬遠してきたきらいがあるのだが、本書で大いに見直した。
▼谷崎・三島を斬る!
本書で面白いのは、井上ひさしが大家と言われる先達の文章読本を果敢に批判してい
る点だ。三島由紀夫や谷崎潤一郎の文章読本に象徴される文章常識を次々に覆してい
く手際は痛快ですらある。「透明文信仰」批判やオノマトペ擁護、文体批判などは大
いに納得させられた。権威におもねず、自分の信じた主張を展開する井上ひさしの姿
勢は非常に好感が持てる。
▼時間に対抗する武器としてのことば
全体的にはユーモアの多い本書だが、非常に美しいと感じた個所がある。井上ひさし
の「ことばとは時間に対抗する武器」説である。今回、ざっと他の文章読本にも目を
通したのだが、なぜ我々は文章を書くのか、という根本的な問題について説明してい
るものはなかった。人はなぜ文章を書くのか。テレビなど多様なメディアが存在する
現在、文字メディアの特質は「時間に対抗する武器」にあるという説に僕は大いに共
感した。
言葉が時間に対抗する武器だということは250頁以下に書いてあるのだが、同じ事を
別の角度から述べた以下の文章も美しいと感じたので引用する。
「ヒトが言語を獲得した瞬間にはじまり、過去から現在を経て未来へと繋がって行く
途方もなく長い連鎖こそ伝統であり、わたしたちはそのうちの一環である。ひとつひ
とつの言葉の由緒をたずねて吟味し、名文をよく読み、それらの言葉の絶妙な組合せ
法や美しい音の響き具合を会得し、その上でなんとかましな文章を綴ろうと努力する
とき、わたしたちは奇蹟をおこすことができるのかもしれない。その奇蹟こそは新た
な名文である。新たな名文は古典のなかに迎えられ、次代へと引きつがれてゆくだろ
う。すなわち、いま、よい文章を綴る作業は、過去と未来をしっかりと結び合わせる
仕事にほかならない。もっといえば文章を綴ることで、わたしたちは歴史に参加する
のである」(12頁)。
▼読むことと書くこと
読書録を書き始めて明らかに読み方が深くなったと思う。他方、読書量が増えるにし
たがって、読書録の文章も上達した気がする。明らかに、読むことと書くこととは強
い相関性を持つ。書くことによって自分の理解が確かめられるし、著作者の作業も擬
似体験できる、そしてそれがまた次の読みにも反映されるからだと思う。「筆者は何
人かのすぐれた書き手を知っているが、一人の例外もなくいずれもすぐれた読み手で
ある」(255頁)、と井上ひさしは言う。僕自身、「すぐれた」とは程遠いが、読む
ためにも書き、書くためにも読むという作業を続けたい。
本書は、文章を書くための読本であるが、実は文章を読むための読本でもあると思
う。作者がどういうことに気をつけて文章を書いているのかを知ると、読む時にもそ
の点を注意するようになる。オノマトペ、文間、文末、和臭と漢臭――作家はこれら
を自らの書きたいものにしたがって細かく使い分けているということが本書を読むと
明らかになる。これが文章を書く時の参考になるのはもちろんだが、文章を読む際に
もそんな点に注意して楽しんでみたい。
2001.11.23.
一等航海士のひとこと![]()
書くことは未来へと繋がる行為、
読むことは過去と繋がる行為・・・
身近な例だと「日記」もそんな行為かも
しれないですね。自分の中の時間軸。
そしてこの「読書録」もそんな
過去と未来をつなぐ行為の一部になっているのでしょうか。
お宝、大切に保存していきます!!
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