日本丸航海記

勝組もいたハワイ   昭和28年   日本丸ニ等航海士 筒井利明

 

     船が出るでる四本マストの日本丸

 焦がれ焦がれた練習船が

ヒロの港をあとに見て

帰る練習船の元気よさ

アロハします日本丸よ

 

これは、プナ(ハワイ島の東南部)のパポアに住む槇尾為次さんという六十三歳の一世老人が作った、練習船に寄せた親愛の詩である。足の不自由な槇尾さんは、この詩を娘さんに託して、ヒロにいる日本丸までわざわざ届けてくれた。昭和二十八年のことである。

この年は、航海訓練所の練習船が、戦後の本格的な遠洋訓練航海を再開した年である。その間に、遠洋航海が中断された十年余の歳月がすぎていた。戦前では、大成丸、進徳丸、わが日本丸と海王丸四隻の練習帆船が、年に一度ぐらい、交互にハワイに寄港していた。

日本の情報が手紙以外に得られなかった当時では、日本全国から集まった乗組員や実習生のホットな話を直接聞くのは、それに飢えていた一世にとって渇望の的だった。

そして、戦争で遠洋航海は中断し、故国からの生の話など夢のような存在になった。われわれの航海はそうした空白のあと、久しぶりの訪問と再会であったから、ヒロでの歓迎ときたら大変なものだった。私はこのとき、ニ等航海士で日本丸に乗っていた。

「日本は戦争に敗れたが、なお、こんな立派な船が残っていた。学生たちの元気な姿も見て安心した」そう言って、船尾にはためく日の丸の旗を涙を流して拝んでいた一世たちの姿。彼らの、戦時中の御苦労、祖国日本の敗戦と、その胸中は察するに余りあるものがあった。

さらには、神州不滅の信念も尊し、というべきだが、しかし、こうした祖国愛もエスカレートしすぎると、日本では想像もつかない勝組と称する一世のグループが生まれてくる。私も、勝組(氏名)と印刷した名刺を数名の人から受けとった。彼らは、ハワイは人種の坩堝であり、日系人はその中でもっとも優れているのだから、戦争に負けるはずがないと言うのであって、今は休戦中であるという解釈をしていたようであった。

ハワイの日系人のあいだでは、柔道や相撲がとてもさかんだった。私が引率して、実習生が出場したヒロの土俵は、道路に隣接した公園の中にあったが、脱衣場といえば簡単な囲いだけである。看視人もいないので、貴重品置き場はどこかとたずねたら、「ヒロには泥棒も乞食もおらんじゃけん、そんな心配は無用です。私らがピクニックに行くときでも、家に鍵など掛けずに出かけます」という返事である。大らかなることかくの如し。まさにハワイは太平洋の楽園だった。

ヒロから西岸のコナまで相撲の試合に行く途中、車を運転してくれた宮田繁春さんという人は、「白菊の歌」を、正調の詩吟入りで何度も歌って聞かせてくれた。すくなくとも十年余の空白があるのに、よく覚えていたと感心させられたが、われわれが練習船で歌っていたのは聞き覚えであやふやだったから、改めてハワイで正調を学ぶといった一幕もあった。ハワイでは、日本では考えもつかぬほどの「明治」が根強く生きているのである。

さて、ヒロの劇場で、私が制服姿でフラダンスをみていたときのことである。幕間に、腰みののままステージを駆け降りてきたダンサーがそばにやって来て、サインを求められたので、これにはおどろいた。

生まれて初めて他人からサインを求められたことでもあったが、出演者が一観客にサインを求めるというのも、また前代未聞である。帆船練習船のオフィサーだったためであるかもしれないが、妙にくすぐったく、顔がほてる経験だった。これも、ハワイならではの出来事だろうか。

 

 

 

日本丸航海記―2

 

戦後初の太平洋横断

昭和二十九年、日本丸二等航海士筒井利明

昭和二十九年五月一日、日本丸は、東京港竹芝桟橋を出港し戦後初の太平洋横断の訓練航海を実施した。八月十七日東京港に入港するまでの航海記を、その航海に乗船した実習生が書いたもの「日本丸航海記」の中で昭和三十一年、東京の清水書院から出版された高校一年の教科書に採用された東京商船大学航海科二回生菊池 煕君の「旋風をついて」を下記に紹介する。

 


総員オン・デッキ!

五月七日。本船正午位置、東経百五十六度十五分、北緯四十度十五分。

正午ごろから西南西のスウェル(長涛)が発生し、風も南寄りの風力4ぐらいの不定なものとなった。このうねりは低気圧が再び近くに来ていることを示している。午前七時の気象通報によれば、低気圧の中心から二百浬以内は風速三十ノット(約十五メートル)以上という。このような大規模の低気圧は一般に冬季の旋風にしか見られないものなのであるから、全く季節はずれのものに違いない。そしてまた本邦を襲った旋風は、太平洋に達すると急激に発達し、現在本船がいる海面付近で、その最高潮に達するという。したがって本船は今晩あたりから相当の荒天を覚悟しなければなるまい。自記気圧計の針は、午後二時の千二十六ミリバールを最高に、以後次第に下降し、下降の度合は時間が経つにつれて大きくなっている。旋風近しの感をますます深める。

「総帆畳み方、実習生甲板部、総員オン・デッキ」

としゃべっているスピーカーの声を、夢うつつに聞いて目をさました。時計をみると丁度午前四時半、五月八日のことであった。棚の上からほうり出された本だとか定規だとか鉛筆などがころげ込んでいるボンク(寝床)から抜け出て上甲板へ。かなりの揺れ方だ。何かにすがらなければとても歩けない。

緑色の中共服のような雨合羽をまとった同僚の顔をみると、どの顔も、どの顔も青白んで、ゆううつそうだ。ミッドナイト.ウォッチのものであろうか、グショグショにぬれた雨合羽を着て寒そうに立っている。

「寒いだろう」というと、「おれは真夜中から今までに、服を三度着替えたのだぜ。一度は見張り当番中に、一度はスパンカーの絞帆に、そして今度だ。これでぬれたらもう全く着替えるものがなくなってしまう。寒さも寒し、そのうえ全然寝てないので眠さも眠しさ」とこたえる相手の青白い顔に、鳥肌が立っているのが夜目にもよく見える。

風は、ひときわ強くなって、風力6ぐらいにもなったであろうか。われわれの顔に噴水のように飛び込んで来る雨は、しぶきを交えて、目にしみ、口を塩辛くする。夜は薄ぼんやりと明けて来たが、周囲二浬そこそこしか見えない狭視界である。船長は、舵輸の前に立って動揺するたびごとに足を浮かして調子を取っている。各デツキ・オフィサー(甲板士官)たちは船長のまわりをぐるりとかこんで、緊張した面持ちで立っている。

人員の点呼が終わる。船長は重々しく口を切った。「気象電報から推測すると、本船の西南西約二百浬の所に中心示度九百八十ミリバールぐらいの低気圧がある。二十五ノットの速力で東北東に進んでいるので、本船はその中心に入る危険性がある。低気圧の中心から五百浬以内は風速三十五ノットから四十五ノットくらいの強風が吹いている。この圏内から離脱するためには余りにも本船機走の速力は遅い。しかし、帆走による荒天航海も君たちの技術練度から見て、適当でない。そこで今から機走に移る。これからは風力はますます増大し、収帆の機を失うまいと定時より一時間半も前に君たちを起こしたが、ローリング(横揺れ)は激しく、風雨は強く甚だ危険である。君たちはまだ十分にマスト・ワーク(檣上作業)に慣れていないから、くれぐれも注意して、事故のないようにやり遂げてもらいたい」

逆巻く海と、ちぎれ飛ぶ波頭に乗って、暴れ馬のように白い腹をゆすってうめく本船。雨で鉄坂のように張り切って薄闇に浮き上がって見える帆。風がリギン(索具)を切る鋭い連続音。操舵歯車が鳴らすガラガラという音。その中で途切れ途切れに聞こえて来る船長の話は終わった。われわれは、この雨で鉄板のように固くなった帆を畳むのだという決意がみなぎって来る。「荒れ狂う海はわれわれを英雄にする。」われわれは黙々として雨としぶきとでぬれたリギンを伝って登って行く。この荒れ狂っている大自然の舞台に、現実に「死」が起こり得るという考えが突然頭の中にひらめいた。全神経は手と足の先に集中する。

舵を風上いっぱいに切って風をぬいたため、各セールは手傷を負った鷲のように、暴れ廻っているヤードに腹をもたせ、両腕の全力をふりしぼって、セールをたぐり込むのであるが板のようにかたく、石のように重いセールは、ふやけて軟らかくなった手の指には、とうてい捕えられそうもない。風の息を捕えて、少し伸びきったセールをグイと持ち上げれば、ようやくヤードに巻き込むことができた。

まさに決死の作業だ。冗談を飛ばすものはだれ一人としてない。四十数メートルの下に拡がる海面は、まるで洗濯桶の水のように泡立って見える。ここまで上がると、しぶきはさすがにとどかないが、雨が頬を刺すようにたたきつける。私は雨が痛いものだということをはじめて感じた。

ふと気がつくと、親父の遺言だから高い所へ登らんとか何とかいっていたY君が、私の隣で真剣そのものの表情で、ヤードのハンドレール(ジャキステイ)にしがみついている。私の顔を見てニヤッと笑った。なるほど舞台の上ではみな勇者になれるものだと感ずる。それからわれわれは下のヤードに移って、さらに両手両足をふんばりながら、つぎつぎとセールを畳んで行った。

やっと総帆をたたみ終ってデツキに下りると、雨合羽は雨を通し、下の三枚のシャツまでも、すっかりびしょ濡れになっており、手足は棒のように硬くなっていた。そして急に寒さが感じられ、鳥肌ができて、ガタガタ体が震えだして来た。索具を片付けおわり「わかれ」の号令がかかる。時に六時三十分。同時刻、機関の用意もできたので直ちに機走を開始した。

われわれは三十ノツト以上の強風の脅威を受けているので風にさからって航行することは、本船のように風圧抵抗の大きな船では操舵の自由を失い、強大な波浪にほんろうされるので、風を船尾より受けて走ることとし、針路を北東に変えた。こうすれば暴風圏内でも舵効きを保持して航行できるのだが、一方そのために旋風の中心に接近してゆく。

舷窓から海水が

セールを畳み終わって、グシヨグシヨにぬれたシャツを着替えたり、ボンクに落ちた本や定規をもとの本棚に返して、ひもでラッシング(固縛)したりしていると「まだブラインダー(盲蓋)をかけていない部屋は今直ちにブラインダーを掛けよ。掛け終わったらチーフ・オフィサー(主席一等航海士)まで届けよ」と怒鳴っている。

われわれ実習生の部屋は、下甲板の前部にある。六畳敷きくらいの広さがあって、一室に八人を収容できる。舷側には二つのスカッッル(舷窓)がついている。この舷窓のネジをはずして、外板についた舷窓のワク(枠)とガラスの間に鉄板の盲蓋をはさみこんで、波浪による衝撃からガラスを守ろうというのである。

船が動揺しない時は一メートル余りも水面の上にある舷窓なのだが、今日は激しくローリング(横揺れ)しているので、約十秒おきに数秒間、水面下にくぐっている。だから盲蓋は舷窓が水面より上にある五〜六秒の間に入れてしまわなければならない。舷窓が水を切って上がってくる瞬間、K君がサッとネジをはずした。

「ブラインダー!」

すかさず盲蓋を持っていたY君がK君に渡す。

「いけない。反対だ、裏返せ」

Y君があわてて盲蓋を裏返し、再びK君に渡そうとする。だがその数秒間のズレは決定的であった。

K君が大急ぎで盲蓋を舷窓にはめようとしたとたん、舷窓まで海水が持ち上がり、必死になって海水を入れまいと、盲蓋を舷窓に押さえつけているK君の努力も空しく、猛烈な水圧はK君を吹き飛ばし、それを追いかけるように青灰色の水柱が舷窓いっぱいにドッと飛び込んできた。ボンクの上に投げ出されたK

君は、恐ろしい勢いで流れ込んでくる水柱を、ただ、呆然として見とれるばかり。Y君はその水柱を頭からかぶって床下にスッころんでいる。しかし船が反対舷に傾き始め、舷窓が水上に浮かんだ時、K君は手早く盲蓋を入れ、舷窓のネジを締めた。 

幸い今度はうまくいったが、私たちの第三号室は、数秒間の海水の流入によって、水深一尺ばかりの池になってしまい、船が揺れるたびごとに、靴、バケツ、箒、洗面器、シャボン、タバコのカンなどが水面を右往左往している。私のボンクは丁度舷窓の真下であったから、毛布や、シーツや、枕などは、ズブぬれである。W君は絞帆作業でぬれた服を着替えようとして、衣服の入っているボンクの引出しを開けた時に海水が入ったからたまらない。引出しの中に海水がいっぱい入って、着替える服もなくなってしまった。K君とY君がしきりと自分たちの不手際を詫びる。万止むをえない。これも一秒間に入る水量はその破口面積、破口水深に関して

という式の実証のようなものだ。

ぬれた物は清水ポンプがロック・アップ(錠前止め)されているから、塩水を取り去ることもできない。仕方がないので絞ったうえ、ロープにくくりつけて天井から吊るしておく。それにしても、あの注水の凄いことはどうだろう。ほんの数秒の間であったのに二、三トンの水が入ったのである。水柱が直角に吹き出して来るのを私ははっきり見た。全くの計算式では、とてもあの物凄さは感ずることはできない。

 

旋風の中心

正午近くなって自記気圧計を見ると、気圧はほとんど直線的に一時間に四ミリバールずつ下落していって、いったい、どこまで下がるのか分からぬほどである。風はますます強まり、船体の動揺は激しく、巨浪はついに上甲板を洗うようになった。そのうねりの波長は約百メートル、波高十メートルくらいで海面の波頭は風に吹き散らされて、海面は吹雪のように一面の波しぶきで真白となる。

十三時十五分、風が急に衰えて、風向は南々東から南となって風力2となり、雨雲が四散し天気は小康を得たかのように見えた。気圧計は九百五十八ミリバールを示している。この時の本船の推定位置は、東経百五十八度四十三分、北緯四十二度二十分であった。

われわれはついに旋風の中心に入ってしまったのだ。海面は、周囲から吹き込まれる風によってできた三角波が、うねりと重なって、平穏な風の状態にしては意外なくらい泡立っており、船体の動揺は相変わらず激しくつづく。

十三時三十分、風は急に南西に方向を変じたと思う間もなく、「一天にわかにかき曇り」の言葉そのままに、天候は急速に変化し、海面は再び阿修羅の如き様相を呈し始める。青黒い三角波が鰐の歯のような波頭を立てて、本船のまわりをのたうち狂う。いよいよ旋風の後半円に入ったのだ。

その後、風向は西南西、風力は7から8と増大した。船は針路を南東に転じて、相変わらず風浪を右船尾より受けて航走する。このころから気圧はグングン上昇し始め、十四時三十分には九百六十、ミリバールにまで上がる。小山のような巨浪が瞬時にして水平線をおおったかと思うと、フォックスル(船首楼)に巨大な水圧をたたきつけ、次の瞬問に、船首は水平線をはるか越えて空中へと舞い上がる。船体の動揺はますます激しくなり、船内のいたる所でゴロンゴロン、バタンバタンと盛んに物が倒れ、ころがる。両舷の傾斜角は最大四十五度に達しながら、海面いっぱいのしぶきの中を難航する。十五時、ついに風速は、かつてわれわれが経験したことのない秒速四十五メートルに達し、上甲板上の一さいの交通は禁じられ、ために気温・水温の測定が不可能となった。迫り来るうねりと、逆巻く怒濤と波しぶきは、その強烈な風圧と相まって後方の見張りを不可能にしてしまい、常に上甲板も海水に洗われる始末となってしまった。

私が船橋に立っていると、波長が百メートルもあるかと思われる巨大な長波が音もなく右舷船首に盛り上がったかと思う瞬間、それがゴーツとすさまじい音をたててウェル・デッキ(凹甲板)になだれ込んだ。船はイヤイヤをするように頭を左右へねじると、グーツと左舷に傾いた。三十度ほども傾いたとき、ふと傾きの速度が遅くなって、今度はスタビリティー(復原力)で元にもどるかと思ったが、そうではなくて、さらにユラリユラリと一層左舷に傾いてゆくではないか。それが止まるまでの時間が何と長く感じられたことであろうか。私の感じでは、この瞬間日本丸の甲板は、確かに水平よりも垂直に近くなったのである。私はヴォイスチューブ(伝声管)につかまり、ようやくのことで、足をとられ転倒するのをまぬがれた。

この時私は、初めて恐怖の念に取りつかれた。そして、いつもは考えたこともないこの船のメタセントリック・ハイト(GM)の大きさとか、復原力の限界とかについて考えてみた。考えてみれば笑止千万なことだが、事実私の背中には冷汗が流れたのである。「沈むということもあり得るわけだ--。そうしたらこの海面の水温は十二、三度であるから、まず助かりっこはないのではないか」という不思議に現実的な予想がふと頭の中を通り過ぎていく。

十九時にいたり、ようやく雨は止み、気圧は九百九十三ミリバールとなって、それが低落した時と丁度同様のピッチで上昇し始めた。風向は北西に変じても風力は一向に衰えを見せず、海面は白一色のしぶきと泡で、灰色の空とともに極めて不気味なものであった。船はキチガイ娘のように「かんざし」を振り乱し、それについているチェーンやロープやブロックなどをガチャガチャかきむしりながら狂奔しつづけた。ピッチング、ローリング、ヨーイングとありとあらゆる動きをキチガイ娘は示す。その周期はもはや十秒どころではなくもっと短く、もし上甲板に立てば惰力のために体はどこかへ飛んで行くかと思われるほどであつた。

翌九日午前三時頃まで風力6ぐらいの風がふきつづけたが、同四時にいたって風力は3となり、さしもの猛威をふるった旋風も過ぎ去った。

 

サロンも大荒れ

旋風の中心が過ぎ去って、動揺がひときわ激しくなると、下甲板の学生居住区までライフライン(救命索)が張られ、すべり止めの砂がまかれた。下甲板の学生部屋の中は、舷窓に盲蓋が入れられているために外の明りはぜんぜん入らず、六十ワットの電球が一つ、薄明るくそこを照らしている。すべての通風口は遮断されたので、ジメジメした湿気と人いきれでむんむんし、炭酸ガスが充満していた。色々なものが雑然と足の踏み場もないほど投げ出され、それらは船が動揺するたびごとに、室の一方から一方へせわしく動き廻る。タップ(バケツ)にいっぱい入れていたはずの水は、動揺で半分ほどもこぼれてしまい、床に落ちているものをぬらす。それらをだれ一人として片付けようとする者がいない。片付けたとしても、それはむだなことなのだ。荒天日課で課業はないから非直(非番のこと)の学生たちはなすことを知らず、狂乱怒濤の海を外に、ただ死んだように眠っている。

帆を畳み込み、開口部をしめ、移動物を固縛し、その他、シケ(荒天)に対してありとあらゆる準備をした後は、いかに海が荒れようが、風が強まろうが仕方がないことである。舷側をうつ波、プロペラの空転の不気味な振動、バルクヘツド(防水隔壁)のドア(扉)のきしめき、物がころがり、ぶつかりあう音、それらは、ただ彼らにとっては薄気味悪い思いをさせるばかりだった。

そのさなか、いくら揺れても食慾だけは減らないというK君、腹の虫に起こされて目が覚めた。どんな容器に入れた水でも床におけば、すぐこぼれ出してしまうので、一策をあんじてヤカンを天井からつるしていたら、それがローリング(横揺れ)のはずみでM君の顔に衝突したので、K君大笑い。

それで目が覚めたM君、

「この辺で転覆したらどうなるかな」

と真顔でいう。

「まあ助からんな。でもいいさ、おれ一人じゃないのだからあきらめるワイ」

「でも、本船は世界有数の帆船だから、たとえ、このヤカンがだな、天井にひっつくほど傾いたとしても沈まないさ。もっともその前に君なんか、その羽目板に頭をぶつけて…」

「何をいってやがるんだ。お前じゃないか、ヤカンを頭にぶつけたのは」と応酬する。そして私に、「夕食はまだか?」と聞く。

「ウン、サロンでやっているらしい。握り飯に豚のテキだといっていたがな」というと、K君むっくと起き上がって、大事にしまってあったわれわれの武器なる箸とスプーンを取り上げて出て行った。私もそれに誘われてついて行った。

動揺が激しいのでサロンまで昇っていって食事するのもおっくうとなる。それにしてもこのローリングの中でも食事を作らなければならない司厨員の苦労は、並大抵のものではないであろう。どんな情勢になっても胃袋を休めるわけにはゆかないわれわれである。私は先刻、船長が司厨長に「食事は作れるか」とたずねていたのを覚えている。

サロンは、机や椅子が一からげに固縛されて左舷側のすみに積み重ねられ、中央には救命索が張りめぐらされている。われわれの仲間は床の上にどっかと腰をおろし、車座となって大きなパット(皿)に入れた豚のテキを、箸をつかうは面倒とばかりに手で鷲づかみにして喰っている。

そのそばに、ランニング・シャツに鉢巻きというかいがいしい姿で衛生係のK君が、せっせと握り飯を握っている。ぐんと傾くごとにズリ動く飯箱をかかえて、そばの救命索にしがみつく。

昼食の時に飛散したサンマの残骸が、あちこちにゴロゴロし、飯が点々と散らばった中で、フンドシ一つに帽子を頭にのせたのや、海水をかぶって着るものがなくなり、毛布を腰に巻いてそれをローブの切れ端で縛ったのや、種々雑多の奇妙なかっこうで握り飯をほおばっている有様は一歩外の、この世のものとも思われぬ烈しい荒海に比べて、なんと滑稽なことであろうか。

「サアサア握り飯だよ。お菜はテキと野菜サラダ。飯はいくらでもあるから食いたいだけ食ってくれ」

K君はこういって飯屋の親父のように張り切って握っている。私はK君から握り飯をもらい、車座の一隅にあぐらをかいたとたん、予期しない事が起こったのである。

フワリと船の右舷が持ち上がったと思ったら、私は坐ったまま滑り出していた。そして見る見る積み重ねられている机や椅子が近付いて、アッという間に椅子の脚に首をガンとばかりに打ち込んだ。握り飯を右手に、テキを左手に持っていたので、椅子をおさえるひまなくぶっかり、右手の握り飯はつぶれて指の間から飛び出ていた。今度は反対に左舷が持ち上がり右舷の舷窓も天井も羽目板も遥か下の方に見え、「サロンは広いなあ、まるで滑り台みたいじゃないか」と感心している間もなく、砂とサンマの残骸のある床の上をズルズル滑って右舷の羽目板にドシンと体をぶつけ、骨がガシンと音を立てる。後ろを見ると、先ほどまでいた連中や、飯箱、テキのバットもみんな私と一列になって右舷の羽目板に吸い寄せられて、何もない。痛さをこらえて起き上がる間もなく、再び左舷の机や椅子の脚が林立して黒い穴を見せている所へ突撃する。滑りながら私は何か特攻隊員の気持を想像した。突っ込めば危険と分かっても、どうにもならない。その時、必死になってサロン真中に突っ立ったマストの根っこにすがりつくことができた。この時だれかが、「あぶないぞ」と怒鳴る。

見れば固縛索がゆるんだのか、机や椅子がこちら目掛けてやって来るではないか-長さ五メートルにもわたる大きな机や椅子が不気味な音を立てて。私は本能的に骨折、重傷という考えが頭の中にひらめいたが、逃げ場を失って再び右舷の羽目板にへばりつく。そして目の前に来た時は全く観念した。しかし幸いな事に机は私の寸前でぴたりと止まった。やれやれと息つくひまなく机は左舷に走り出して、その後をこれまた一生懸命になって追いかけている自分を知った。

もう食事どころの騒ぎではなかった。ただ、てのひらに握りつぶした飯くずが食事中であったことを思い出させるだけである。結局、私は冷汗の出る滑り台を幾回となく滑ったまでのことであった。重傷者はなかったが、この時サロンにいた連中は一人残らず打撲傷を受け、或る者は足を捻挫し、また或る者は書棚のガラスに手をぶち込んで裂傷した。

荒天、風呂に及ぶ

明けて九日も八日の夕刻とほとんど変わらない時化振りである。それでも気圧は千十ミリバールに回復した。風向は西で風力4ぐらいとなって船の針路は予定通り東にとって予定の航路に乗ることができた。荒天日課で課業なく、部屋はブラインダー(盲蓋)を閉めたままなので真暗く、部屋におれば全く朝夕の区別がつかない。

十日は、土曜日の洗濯日課、風呂が荒天で無かったために、本日に振りかえられる。洗濯でゆううつな時化気分も一緒に洗い流してしまい、さて風向はいかにと見ると南西の風、帆走には絶好のクォーター.ウインド(船尾方向と正横方向との中間から吹いて来る風)だ。はたして九時半、スピーカーが「総帆かけ方、総員オン・デツキ」と号令をかける。われわれは嬉々として作業に取りかかった。相変わらずのローリングに檣上作業はスリル満点だが、八日の絞帆に比べたら物の数ではない。驚くべき敏速さでロイヤルを残してガスケット(括帆索)が解かれる。その間に機関は停止する。

「ロアー・トップスル掛け方」

「インナー・ジブ掛け方」

「アッパー・トップスル掛け方」

等々スピーカーの号令が矢つぎ早に風を切って聞える。

「エッサエッサ」の掛け声も勇ましく、一つ、また一つと、遂にロイヤルを除いた総帆を展き終わる。風向は南西、風力5。船体は水面下の推力から解放されるや、相次いで上方の風のそれに押し出されて微妙に身揺るぎすると、やにわに左舷にぐっと傾いた。速力はグングンと増してたちまち七ノット半に達する。

帆走になっても打ち寄せる波が大きいために、舷窓、カーゴ・ポート(載貨門)等のちょっとのすき間を見つけては、海水が船内に流れ込み、便所、洗面所、バゲジ・ルーム(携帯品倉庫)、学生サロンに水がたまる。これを汲み終わって、ホッと一息ウェル・デッキで休む。

十八時、また風が強くなったので帆を畳み、機走に移る。またローリング(横揺れ)が激しくなる。風呂があるというので出港以来の汚れを落とそうと思って風呂場に行ってみた。流し場は体を洗った水が一尺以上もたまっている。スカッパー(排出口)は海水が逆流するのを防ぐために閉鎖されているので、汚水の出口がなくなってそこに溜ってしまうのである。六畳間ぐらいある流し場はその汚水が動揺の度に濁流となる。湯ぶねの中はと見ると、動揺のためにお湯は湯ぶねの外にこぼれて半分ほどしか入っておらず、船が傾斜するたびに人も湯も一方に寄せられて反対側の湯ぶねの底が見えるという次第である。そんな状態であるから、風呂の中にろくろく入っておれない。

 

ポンプで水をタップ(バケツ)に入れ、それを蒸気でわかしてお湯を作り、体を洗う。洗っている最中でも坐ることはできぬので、片手で何かにしっかりとっかまりながら、残った片方の手で洗うのだからはなはだやりにくい。足元には垢とシャボンと冷たい塩水がとうとうと右往左往し、うっかりすると足をすくわれそうである。ほうほうのていで風呂から上がると、M君に出会った。彼は私に話しかけて、「おい風呂でころばなかったか。そうか。それはよかったな。おれはひっくりかえっちゃったのだよ。いや凄かったな。あんな時には、風呂の中にも救命索があればいいと思ったよ。何しろ、石鹸水で足がつるつるすべるところにもってきて濁水がザアッと足をすくうのだから、たまったものじゃない。あのきたない水の中にひっくり返っても、水と一緒に流されてしばらくは起き上がれないのさ。本当にシャボンの泡やら何やらを食ったよ」といってカラカラと笑い出した。

 

 


菊地君の旋風の記録の他に私が印象に残っているものを追記する。 

職員(教官達)の食事

職員(教官達)のサロンでの食事もシケの最中は、テーブルに食器を並べられないし、腰掛けに座ることの出来る状態でないため、カンパンと缶詰が支給され、各自の部屋で、背もたれができ両足で踏ん張り滑らないように床に腰をおろして何とか食べることが出来た。三十年間練習船に乗っていてこのような経験は二度と無かった。普通のシケの時はサロンで食器が滑らないようにテーブルに濡れた布を掛け、各自の前に木枠を組んで対処すれば腰掛けて食事ができていた。

寝る時

ベットは全員、片側が木の壁で、片側が二十センチ位の高さの木枠になっているので、寝る時は、木枠に足を踏ん張って床に落ちないようにしなければならず、長時間安眠できるわけにはいかない。寝るのも一苦労である。

トイレ

トイレの中にもストーム・レールは付いているが便を便器に巧く落とすのも大変である。

 

日本丸と復員輸送 平成八年の回想    (昭和二十二年 日本丸実習生 筒井利明)

終戦直後には中国大陸、東南アジア諸国や南方諸島に、600〜700万名の日本人が残されたままだった。昭和20年12月、日本丸は上海を皮切りに釜山、葫廬島、シンガポール、ラングーン(ミヤンマー)、台湾、南西諸島などへの帰還輸送に従事しながら実習訓練を続け、4年足らずの間に29航海、引揚者(兵隊および一般人)23,700名、送還者(日本より送還の第三国人と連合国人)1,653名を輸送した。

私達、高等商船学校(現東京商船大学)二期生航機180名は「27ヒサセホニテジョウセンセヨ」の電報を受け、昭和22年3月27日、宇品から回航してきた日本丸に乗船した。

当時の日本丸はヤードが降ろされ、白い船体は鼠色に変わり、翼を折られたカラスといったみじめな姿であった。しかも船尾には日の丸の国旗はなく、SCAJAP(アメリカ太平洋艦隊日本船舶管理部)の54号が船名であった。日本商船隊が太平洋戦争で潰減的打撃を受け、殆どが海底の藻屑と消え、米国がリバティー型などの輸送船200隻を貸してくれての引き揚げであったため、姿形など問題ではなかった。

往航では、主食の米は十分あったが、冷凍機は出港直後に故障し、氷の冷蔵庫に積んだ魚に1回ほどお目にかかっただけで、副食なるものには殆どありつけなく、シンガポールに着く前には栄養失調の為、階段の手摺りを手で引いて足をもちあげて昇った記憶がある。清水の折戸で消耗汁(太平洋から汲んできた海水にサツマイモの茎や葉を入れ沸かしたもの)だけで厳しい訓練に耐えた経験が頑張らせたことであろう。

シンガポールは水の補給のみの寄港であったが、捕虜である日本の兵隊さんの手配したトラックで島を見学し、バナナや米軍から兵隊さんに支給されたレーション(1日3食分の食糧や塩や煙草の入った弁当箱位の缶詰)を頂戴し、生きかえった。あまり急にカロリーを取ったため鼻血を出す者も居たほどであった。

その兵隊さん達の中に「いつ帰還できるかわからないが、日本丸がラングーンに行って復員兵の輸送に当たるのだから、近いうちにシンガポールに番がまわってくる一縷の望みがでてきた。若し、日本丸が来るのがもっと遅かったならば、武器を持っているインド兵と一諸に反乱を起こしかねない空気があった」という物騒な話もあった。

実習生の居室は暑いため、夜は、後部船橋上で星をながめながら肩ふり(話し合い)をした。シンガポールからラングーンに向かっている途中3日間ほど、全天が虹で刻一刻と色が変化する現世のものとは思われないほど美しい夕焼けを見た。当時は、車や飛行機や工場の排気ガスがなく、世界の空気が奇麗な状態であったためではないだろうか。その後、30年間練習船で世界の海の夕焼けを見たし、写真も見たが、これだけ美しいのにお目にかかったことはない。

目的地ラングーンに入港、復員兵1200名が乗船、もともと定員196名の船に、乗組員60名、実習生180名、合計1440名が乗船したのだから超過蜜、足の踏み場所もない状態であったが、兵隊さん達は、ビルマでの4年間のはげしい戦闘、戦友の戦死、2年近くの捕虜としての強制労働、戦犯としての処刑など、肉体的にも精神的にも地獄の状態からみれば、日本丸は極楽であったようである。私達も、後1年戦争が続いていれば同じ目に会ったであろうことを考えれば、他人事ではなく、全員が心からご苦労様でしたとの態度で接した。兵隊さん達の文章と和歌を幾つか紹介する。

 

『練習船だ。日本の船だ。その残り少ない日本の船が迎えに来てくれたのだ。甲板に並ぶ日本の若者達の顔色の何と美しいことよ。みんな桜色をした美少年達ばかりではないか。日本の若者達のこんなに美しいものだとは今の今まで少しも気がつかなかった。あまりに汚れた我われ同志の顔を見なれていたためだろうか。日本の美少年達の心からの歓迎を受けて、夢幻の気持ちで日本丸のタラップをのぼった。』

 

『現実に甲板の手摺りに凭れて、終戦後1年有9か月夢にだに忘れなかった帰還船に乗り込んだと意識しても、何だか夢のようだ。本当にこの船は日本に帰るのだろうか。何処かビルマ以外の土地で再度捕虜生活を送らされるのではないか。不安ではあったが、生徒さんたちの真実な親切や、通り一遍の儀礼的な挨拶と異なる心からの「兵隊さん、ご苦労様でした」の一言は実に嬉しく、ビルマでの6年間の死闘もフッ飛んでしまうような幸福感を味わった。』

 

『 へんぽんと日の丸旗翻らず

黒旗掲げし船岸にあり(日の丸を掲げられず、代わりに剣道衣の袴で作った黒旗を掲げていた)

日本の国土内なり甲板を

踏めば故国に帰りし心地す 』

 

『うらぶれた心で破れた祖国に還るのには余にも恵まれた航海でした。我われは決して甘い気持ちで故国の人びとの同情に縋ろうとするものではありませんが、やはり温かい日本人の心情に接して、自分の心がぬくもるのをはっきりと知りました。』

 

日本丸はシンガポールで採水の後、5月8日、無事宇品に帰港した。

検疫のために乗船した看護婦が女神のように美人に見え、宇品で補給した生キウリの美味しさは今でも忘れられない。あらゆる面で、飽食の時代は必ずしも幸福でなく、ハングリーな状態もあった方がよいと考える今日此の頃である。

 

次にもう一つ、日本丸で忘れられない「再会」のことがある。以下、それを報じた新聞記事を引用させて頂く。

 


(毎日新聞 昭和63年7月9日記事)

「あの時の日本丸実習生では」

劇的…41年ぶりの再会  帰還兵が覚えていた!!

 


8日正午前、横浜市西区緑町の専用岸壁で余生を送る帆船の日本丸で、かつて同船に乗っていた2人の男が41年2ヵ月ぶりに劇的な対面をした。

この2人は帆船日本丸記念財団常務理事で元海王丸船長の筒井利明さん(63)と横浜市旭区万騎が原84、自治会長、三浦良司さん(68)。

この日、筒井さんはいつものように見学客に船の説明をしていた。すると突然、団体客の中からメンバーの1人が進み出て「あなたは、昭和22年のビルマからの航海で日本丸に乗っていませんでしたか」と声をかけた。三浦さんだった。

「乗船しておりました。実習生として。私の船乗り人生の門出の航海でした」と筒井さんが応じた。

三浦さんは第二次大戦中、激戦地ビルマで6年余りを過ごした。部隊は終戦を知らずに20年8月末まで戦ったため、「戦犯部隊」として武装解除。1,050人の隊員は76人に減っていた。その後の抑留生活を経て昭和22年4月13日、ビルマのラングーンを出航した帰還船「日本丸」に180人の実習生とともに1,200人の帰還兵の1人として乗り組んだ。

4月末ごろ、ブリッヂから甲板に降り立った筒井実習生"に三浦さんは「台湾まであと何日ぐらいでしょう」と尋ね、筒井さんは「1日半ぐらいでしょう」と答えた。2人の会話はこれがすべてだったという。

筒井さんは「感激です。私はそんな会話のことも三浦さんに会ったことすらすべて忘れているのに、41年余経過しても私の顔を覚えていてくれたなんて」と顔を紅潮させれば、三浦さんも「あの時8年ぶりに言葉を交わした内地の日本人だったんです。こがれこがれた、初恋の女性のような存在で忘れようがありません」。2人は思い出の日本丸の前でかたい握手をかわした。

 


台湾まで来れば、日本に間違いなく生きて帰れるとの確信と感激が、私の言葉から得られ、私の顔を脳裏にしっかり焼きつけていたためと聞いたが、そんな感激を理解するには今の日本は平和すぎるのだろうか。

 

         横浜の新しいシンボル  日本丸   昭和60年     財団法人 帆船日本丸記念財団常務理事  筒井利明

 

I.大型帆船は芸術品

(1)  創造の歴史

船の形態は、それぞれの時代と風土と民族性の反映であり、歴史の積み重ねの結果生まれた文化財であるとともに芸術品といえる。

特に大型帆船については、紀元前、人類が帆を考案して以来、数千年もかかって、一枚の四角の横帆(北方系で後方からの風に有効)、一枚の三角の縦帆(南方系で操縦が容易)の時代から、15世紀に入って南北の交流によりそれらの組み合せが考案され、19世紀の末期には、東洋から茶や羊毛を英国に運ぶのにスピードを競った。その競争に勝つために、帆船に係わったあらゆる分野の人々が血と汗と英知の粋を結集して、海の自然、すなわち風と波を最大限に利用できるような船体と帆装蟻装を造りだし、これ以上の改良は不可能なところまでになってしまった。なお、昭和57年、日本丸2世を建造するに当って、大型の快速船(クリッパー・シップ)が数多く造られた英国に設計を依頼し、鋼材を輸入して日本で組み立てた日本丸1世の船体、帆装蟻装等について最新の機器を駆使してチェックした結果、ほとんど改良の余地のなかったことをみても、その優秀さが証明できる。

(2)快走する富士山

大型帆船の美しさについては、ジョル・ラスキンの「人類が造ったものの中で最も美しく又最も気高いものの一つである」、ビクトル・ユーゴーの「人類が創りだした偉大な傑作の一つである」等たくさんの賛辞はあるが、それらをもってしても、なお文章では表現し尽くすことのできないものである。私は、クリッパー・シップの流れをくむ日本丸およびその同型姉妹船海王丸に延10年余乗船した経験から、大型帆船を「快走する富士山」に譬えている。

自然の造形である富士山の姿は、四季折々に、桜と、松と、積雪と、海や湖と、さらに空や雲や光に.よって千変万化し、その美しさと気高さはすばらしいが、一方、大型帆船の順風満帆で大洋上を快走する姿は、風向、風力による帆のはらみ具合いや船の傾斜、帆桁の回転角度等によって複合的に変化し、見る者をして血の逆流するような感動を覚えさせるものがある。その姿は、富士山と同様に雄大なバランスの気高さであり、大自然との調和美である。さらに富士山にないすばらしいものが2つある。1つは、人間が各種スポーツで極限に達した姿と同様に、4千トンもある巨大な物体が風の力丈で波を蹴たてて進むダイナミックな躍動美があることである。もう1つは、その船内で、汗を流してマストに登り、大声を出してロープを引き、きびしい訓練に明け暮れる教師と学生のすばらしい人間のドラマが展開されており、帆船そのものにロマンと生命の躍動を感じさせるものがあることである。

.日本丸の歴史

(1)誕生

昭和の初期、日本には高等商船学校が2校、商船学校が11校あった。東京高等商船学校には四檣バーク型練習船大成丸(2,423トン)が神戸高等商船学校には四檣バーケンティン型練習船進徳丸(2,792トン)がそれぞれ専属としてあり、安全かつ良い教育環境のもとで好成績を収めていた。一方、全国にあった商船学校のうち専属の帆船練習船をもっていたのは函館、広島および鹿児島の3校にすぎず、それらはいずれも千トン足らずの小型であり残余の8校においては、その座学修業生の訓練航海を民間運送業者に依託しており、教育上も思わしくなく、年来、関係者は専用大型帆船の必要性を痛感していた。そうした折に、昭和2年3月、鹿児島の練習船霧島丸(999トン)が銚子沖で暴風に遭い、船長はじめ53名の乗組員・実習生総員が船と共に行方不明になる事故が起きた。この海難を契機に、安全で理想的な実習の行える大型練習船の建造を望む声が強く起こって世論が高まり、昭和3年、2,200トン級の2隻を国の予算182万円(1隻当たり91万円。当時、我が国の一般会計予算のうち、軍事費、国債費を除く予算は、わずか8億7千万円程度に過ぎず、2隻の建造費の占める割合はO.2%に及ぶ巨費)を計上

日本丸の主要目(建造時)「全長97m,幅12.95m満載吃水6.41m,総トン数2,239トン機関ディゼル600馬力2基,船型四樒バーク型メーンマストの高さ45m(水面上)帆走速力13ノット(最高)帆の総数35枚,帆の総面積2,400u(畳1,455枚分)帆の最大のもの畳約100枚分,最のもの畳約20枚分」動索1,137本・延16,000m,静索168本・延3,700m滑車873個定員乗組員66名実習生120名合計186名」

 

し、約2年の工期を経て進水した。昭和5年、時の田中隆三文部大臣は「日本の海の王者にふさわしい船にしたい」との期待から、神戸川崎造船所で進水の第一船を「日本丸」と、第2船を「海王丸」と命名した。ここに世界に冠たる双子の妹妹船の誕生をみた。

(2)果たした役割

この姉妹船ほど、常に同じ目的をかかげ、同じ行動をとりつつ半世紀余の長きにわたりその使命を全うした船は他に類をみない。

@優秀な船員の養成

183万キロ、地球45.5周分に相当する距離を航走し、延11,500人の海の若人を育てた。彼らの大半は、戦前・戦中・戦後を通じて、航海士・船長として終始かわらず全身全霊、国のため、国民生活向上のために尽くしてきた。彼らの職場としての海運は、戦前、一流海運国と肩を並べられるまでに成長し、いったんは戦争のため壊滅させられたが、戦後は再び不死鳥のように羽ばたいて、実質世界一の船腹量を保有し、加工品を輸出し、日本が経済大国として世界から注目されるまでに至った国の基幹産業であるが、彼らはその担い手である。

A引揚者の輸送など

昭和18年、戦争の激化に伴い帆装設備を撤去し、真白の船体は黒く塗りかえられ、九州と阪神間の石炭輸送に従事し、戦後は、外地からの邦人引揚航海に従事し、29航海27,143人を輸送した。その間も実習訓練を続けたことは勿論である。

B太平洋の白鳥蘇る

昭和27年、日本丸は帆装を復旧し、再び太平洋にその美しい姿を現し、南方8島の遺骨収集の後、28年からは本格的な遠洋航海を再開し、昭和59年9月、日本丸2世にその任務を引継ぐと同時に引退した。日本丸の歴史は波乱万丈の昭和史そのものである。なお、主機関のディゼル・エンジン54年半の稼動年数は世界一(ギネス・ブックに掲載)である。

C海事思想、ロマンの普及

最近とみに大型帆船に対する国民の眼差しが熱くなってきている。大阪の世界帆船まつりでは初日のパレードで24万人が見物し、10日間の会期中延120万人が見物している。このようなブームも影響してか、比較的入港機会の少ない日立港30万人を筆頭に仙台港の15万人、その他の港でも数万人が2〜4日の短い期間中におとずれている。日本丸は、その優美な姿を通して、見学者にロマンを与え、海と船への思いを呼び起こさせたはずである。

D国際親善

ヨットの盛んな外国では、本当の意味での帆船ファンが多い。日本丸は昭和35年、日米修好通商百年記念にニューヨークヘ、その後、シアトル万国博にシアトルヘ、カナダ連邦百年祭にバンクーバーへ、米国建国二百年祭にニューヨークヘそれぞれ国の代表として派遣され、国際親善に尽くしている。米国建国二百年祭の時のホドソン駐日大使から運輸大臣あての書簡は、その面目躍如たるものがある。

「この式典を一層成功させるために、私たちはすばらしい日本の帆船日本丸と海王丸の参加を希望します。われわれ両国の最高首脳間で歴史上初の相互訪問が行われた後、一年にしてこの重大な式典に日本の代表が不参加(両船とも船齢50年で老朽化しているという理由で断わっていた)となることは全く格好

のつかないことになりましょう・・・…。」(日本丸は大修理の後、参加した)。

.帆船教育は理想的

教育とは、知識・技能・道徳・体力・情操等をバランスよく教え育むことであろう。船員教育もその例にもれるものではない。帆船教育のユニークさは「帆船そのものが教師であり、教科書であり、教室である」の譬のとおり、港を出て次の港に着くまで(大体1か月間程度)は、教師も学生も一致協力して帆を展げ、畳み、帆桁を回し、ロープを引き・時化を乗り切り(時化過ぎて船まとまるの譬あり)喜怒哀楽を分かち合うところにある。当然のこととして、教師は、同一学生の乗船期間6か月ずうっと同一船内で寝食をともにする。愛や思いやりなしでは生活できない。

(1)知育

外観は19世紀の帆船ではあるが、内部には、人工衛星で船位を測定する計器、機関室無人化の制御器、コンピューター等21世紀に対応できる器機類を装備し、知識・技能の近代化教育ができるようになっている。

(2)徳育

狭い船内で200人近くの教師やその補佐の乗組員や学生が生活を共にしているわけで、陸上一般より一層きびしい規律が必要なのは当然のことであり、船員法でも、命令の服従、時間の厳守、食料・清水の節約、喫煙場所以外の禁煙、乱闘乱酔の禁止などの船内秩序を定めているが、それらを遵守することは勿論のこと、朝夕の挨拶、安全と他人に不快感を与えないための服装・態度・清潔・整理整頓等団体生活上必要なことを体験的に習得させられる環境にある。また、外国の寄港もあるので、国際人としてのエチケット・マナー(国旗や国歌や宗教上のもの以外にはほとんど差はないが)も見聞、体験させられる。

学生が時化の後の日誌に「荒れ狂う海は我々を英雄にする」と記してあったことがあるが、マスト上の決死的な共同作業をしている時の気持を実に適切に表現していると思う。これでは、無気力・無責任・無関心・無感動はあり得ない。

学校でのイジメや他人に迷惑をかけることに対する罪悪感の欠除等、将来の日本を考えるときに徳育ほど、今からの日本に必要なものはないのではなかろうか。

(3)体育

マストの登降、セイルの解畳展絞、ヤードのトリム等航海中は、毎日の作業で、大声を出し、汗を流し、体力、気力を出し切る場面が多い。したがって、体力・気力ともに涵養できる。

(4)情操教育

海の自然は、喜怒哀楽の表情をもっている。しかも、人類が造りだした芸術品に乗って、清冽な青い海、逆巻く怒濤、平静な凪、真赤な太陽、輝く星、夕焼け等それら自然の情感に肌で接することができるので、情操教育にも適している。時化の後の夕焼けほど心和むものはない。

地球上に海と風がある限り帆船教育は続けられるだろう。世界中には、日本丸2世、海王丸を含め約20隻の大型練習帆船がプロのシーマンの養成用として動いており、一般青少年の訓練用としての中小型帆船を含めるとおそらく百隻近くになるだろう。「少年を海に出すと大人になって帰ってくる」という諺を日本でも実践できるよう、一般青少年用の帆船をもちたいものである。

.横浜の日本丸

(1)横浜移管

日本丸は昭和59年9月17日、日本丸2世の誕生を機に運輸省航海訓練所から横浜市に引き渡された。

全国10都市を超える誘致希望の中から横浜市が引退後の永住の地として選ばれたのは、市民83万人もの署名嘆願の熱意をうしろだてとした関係各位の尽力と、日本丸の保存計画が首都圏を背景とした交通至便な桜木町駅そばでの浮ドツク係留方式であり、活用計画が一般展示公開のほか、青少年の登檣・操帆等の錬成訓練や総帆展帆の実施等「生きた練習帆船」として日本丸のシーマン・シップの伝統を生かし、船と共に生活し、愛し守り続けてきた若者達の生きざまをそのまま残してゆこうというところがポイントとなっている。

(2)財団法人発足

昭和59年10月1日、帆船日本丸記念財団が発足。

@     目的

海国日本の船員養成に輝かしい功績を残した練習帆船日本丸を国際港都横浜において永く保存し・同船を公開する・とともに青少年の錬成の場として活用し、あわせて海と港と船に関する理解と知識の増進をはかること。

A組織

横浜市西区緑町(みなとみらい21)1の1、日本丸メモリアル・パークの訓練センター内に事務所(tel 221ー0280)を置き

名誉会長土光敏夫氏

顧問茅誠司・児玉忠康・細郷道一・長洲一二・吉國二郎の各氏

理事上野豊会長他24名以内、監事2名、

評議員25名以内及び事務局が運営に当っている。

B収入、支出

収入=事業収入一観覧料、記念品販売、錬成事業・友の会会費・基本金20億円運用(8億円・市、1億円・県、l1億円・65年目途に一般募金中)

支出=管理費・保存事業費、公開事業費、青少年錬成事業費・友の会事業費、海事思想普及事業費・展示物収集等事業費、受託事業費

C準備事業

昭和60年4月28日のオープンまでの約半年間に・市内の造船所で日本丸の船体、機関の改修工事・「みなとみらい21地区内の日本丸を係留する石造りドック(旧三菱重エ2号ドック)およびその周辺日本丸レパーク5.5ヘクタールの内の2.8ヘクタールの整備(残り2.7ヘクタールは64年春整備完了予定)・オープニング・フエステイバルの計画・海洋教室カリキュラムおよぴ教本の作成・基金募集・友の会会員募集、総帆展帆、ボランティアの養成・ボランティアによる甲板磨き等を実施

D事業

保存=国籍証書・検査証書を受有する帆船として・帆装設備、船体、機関の整備公開

        公開日

次の日を除く毎日。月曜日(休日を除く)・祝日の翌日(土、日を除く)、年末(12月29日〜31日)

○公開時間

3月〜6月、9・10月・・・・l0:00〜17:00

7・8月・・・・10:00〜18:30

11月〜2月・・・・10:00〜16:30

但し・券売は公開終了の30分前迄

○観覧料金

一般3OO円・小・中学生15O円

30名以上の団体は50円引き

昭和60年度総観覧者数約38万3千名

総帆展帆

60年度実施回数12

60年度総帆展帆観覧者数約12万名

総帆展帆ボランティア数400名(女子16名を含む)

61年度予定7月13日・20日、8月17日、9月14日、10月10日・26日、11月9日・23日・30日、3月1日

海洋教室

        概要

帆船における生活・訓練の体験及ぴ講義を通して青少年に団体生活における協調性や忍耐目的力の大切さ、並ぴに海・港・船に関する知識を修得させる。

コース

半日コース・1日コース・宿泊コース

時間

13:00〜17:00・10:00〜17:00・1〜(最長)5泊

対象

小学生以上・小学4年生以上

カリキュラム

甲板清掃・映画観賞・操帆訓練等、カッター訓練・結索練習等、救急法、登檣訓練、信号訓練、船歌練習等

参加費

500円、700円、1日増すごとに2000円加算、1日4000円

トレーニングウエア等運動し服装作業服貸与やすい服装でご参加ください

○参加者の感想文の一部

私は海洋教室に行き学んだことは「何をするにも5分前」r挨拶や返事はきちんとする」「水は大切に使う」ということです。いつもはそこまで注意されることがないので、とてもためになりました。(小6女)

「やったあ」と心の中で思った。TVやポスターで何度か見た日本丸に来たのだ。船の上で生活できるなんて、とってもうれしいことだ。なにより協力ということを大事にするようになったことだ。(中1男)

「ワッショイ、ワッショイ」掛声をかけながら椰子の実を半分に切ったタワシで甲板を磨く、全身大汗をかき、いささかばて気味のお母さん達の悲鳴が、あちこちで聞こえる。休む間もなく帆を上げ下げする訓練だ。これも「ワッショイ、ワッショイ」の掛声だ。大きな帆が潮風になびいて広がってゆく。一人ひとりに精神力と協調性がなければ成功しない作業を、一人の落後者もなく成し遂げた瞬間の拍手は、心の底からの拍手であり、真の喜びは苦しい事を共に成し遂げた時だと思いました。(大人男)

 日本丸友の会

○会費高校生以上2,000円/年

小・中学生1,000円/年

○活動内容 日本丸の保存・活用事業への協力・海洋教室・講演会、見学会などへの参加・友の会だよ/年・回以上の発行など。

.日本丸は日本のシンボル

世界には帆船を保存、活用しているところは数多く、イギリスのビクトリー、カティサーク、アメリカのコンステイレーシヨンなど一世紀以上もの長きにわたっているものもあるが、それらは展示公開のみにとどまっており、現役のままで常時総帆を装備し、総帆展帆や青少年を船内で宿泊させて操帆訓練などをしているところは他に類をみない。

いうならば、横浜の日本丸は帆船として世界一の保存・活用をしているわけである。財団としては、この形態を末永く続ける所存であるので「横浜のシンボルにとどまらず、世界に誇り得る日本のシンボル」との御認識のもと皆様方の一層の御理解と御協力をお願いしたい。

 

世界一に輝く日本丸一世  「ギネスブッック」に記載  昭和63年2月11日 海上の友

深刻な海運不況下、黙々と船務に励んでいる船員たちに明るい話題が届けられたーーーいま海上第一線で活躍している船員たちが巣立った「母なる船」練習帆船・日本丸一世の航走距離と主機関の稼働期間がそれぞれ世界一であることが『ギネスブック』によって認定され、1、988年版に記録されたのだ。

 

地球を45周半走る 主機も54年間休まず稼動

日本丸一世が練習帆船としての使命を終えたのは昭和五十九年九月十三日、ハワイの遠洋航海から東京港へ戻り横浜潜へ入港したときだった。同日の機関日誌には「14:07、エンジン最終停止。各部点検暴常なし。二機士・神田」と記録された。

日本丸は姉妹船の海王丸とともに昭和五年はじめに、神戸の川崎造船所で建造され、同年6月23日10:00、両船は揃って神戸を出港、帆船練習船としての第1歩を踏み出した。

それから日本丸は半世紀余にわたって波乱に満ちた航海を重ねて、11,425名の海の子を育て、最終航海までの航走距離は地球四十五周半に及んだ。

同船は現役引退後、横浜市に引き渡され、旧三菱重工業一号湿ドックに係留されて、60年4月から一般公開され、青少年の海洋教室や一般市民ボランティアの協力による総帆展帆を披露してハマッ子の人気を集めている。

この係留日本丸を管理運営している帆船日本丸記念財団は、同船の輝しい歴史を後世に残すため、世界記録事典『ギネスブック』にその記録を去る61年2月に提出、これが認定されて、1,998年版に掲載された。その記録内容は「帆船による航走距離の世界記録」と題し、「1,930年(昭和五年)の建造以来1,984年9月の機関停止まで、54年間にわたって活躍した日本丸の延べ航走距離は、九十八万五千四百七十五海里(百八十二万五千百キロメートル)にのぼり、世界記録であることが、運輸省航海訓練所の資料によって明らかとなった。また、日本丸のディーゼル・エンジン2基の稼動期間は54年2月20日4時間7分で、船舶用のエンジンでこれほど長い期間使用されたものは、世界に類がないという」と称賛している。

この日本丸の航走距離の記録は、いまも現役として就航中の海王丸によって書き替えられるだろうが、エンジン(池貝式六気筒・六百馬力X2基)については海王丸の方は昭和53年に主機を換装しているので、日本丸の記録はこんごもおそらく破られることはあるまい、と同財団ではいっている。

日本丸一世は海王丸とともに当時の船員教育関係者の悲願によって誕生した。

大正末期、公立商船学校(現商船高専)の練習船は二、三百頓の小型船のために悲惨な遭難事故が相次いだ。一方、東京、神戸の両高等商船(現商船大学)は大成丸、進徳丸の大型練習帆船を有していた。そこで「公立商船学校の生徒にも大型帆船による実習を」の声が高まり、その悲願が結実して、昭和5年、日本丸、海王丸は建造された。

このとき時の田中文部大臣は「日本者にふさわしい船にしたい」との期待をこめて、それぞれの船を命名したという。

日本丸は就航以来、激動の昭和とともに歩んだ。戦争中は、ヤードをはずし船体をネズミ色に塗りかえて瀬戸内海で石炭輸送に従事し、戦後は東南ア各地からの引揚げ輸送に従事した。昭和27年6月、9年ぶりに帆装復旧して、本来の帆船実習に戻った。その初の遠洋航海は南方八島を巡航する遺骨収集と慰霊の航海であった。そして昭和28年からようやくハワイヘの遠洋航海が実現した。

昭和35年には日米修交通商百年祭を記念し、徳川幕府が同条約の批准使節を派遣した咸臨丸のコースを辿り、パナマ運河を越え、ワシソトンとニューヨークを訪問、実習生たちは武士の装束で遣米使節団一行の仮装行列を行って、日米親善に大きな役割を果たした。

帆船日本丸記念財団の筒井利明常務理事は「日本丸は54年間、一度も海難をおこさず、船内でも無事故で通した。マストから落ちた者も一人もいない。ほんとうに幸運な船だ。その世界記録のかげには、船を愛し航海練練に励んだ実習生たち、安全運航を期した乗組員、機関保守に努めたエンジニアたちの血と汗と涙がある。それをたたえるためにも『ギネスブック』に記録を申請した」と語っている。

 

海上の友  昭和62年6月21日

帆船で“思いやり”の教育を

海のロマンに感動  “日本丸体験”忘れません

日本社会党委員長  土井たかこ

 

「海や船は大好き!帆船は思いやりのある人間を育てる最も良い教育の場ですね」 日本社会党の土井たかこ委員長は5月18日、政務の合間をぬって横浜港の帆船日本丸を訪れ、帆船による青少年教育に大きな感心を示した。

 

土井たかこ委員長はこの日、社会党の岩垂寿喜男、千葉恵子両代議士らとともに横浜市西区の財団法人帆船日本記念財団を訪れ、係留帆船日本丸を見学し、同船での航海訓練を紹介した映画も鑑賞するなど、海と帆船のロマンを満喫する半日を過ごした。

案内役は同財団常務理事の筒井利明船長。青少年教育に理解を示す土井委員長は、後日、衆議院第2議員会館で筒井氏と帆船教育について対談した。

筒井氏 日本丸を見学されてどのような感想をお持ちですか。

土井委員長 私は神戸で生まれ育ったものだから、海に親しんだ生い立ちなんです。少女時代から海を見て育ってきたわけで、船の姿というものをよく見ている人間の一人だと思いますよ。しかし、実際に日本丸を訪れてみて、あんなに大きな帆が35枚もあり、そのなかでいちばん大きな帆は100畳ほどの広さがあると聞いてびっくりしました。また、毎朝、甲板をヤシの実で磨きあげているということで、そこに土足で上がるなんだか気がひける思いがした。つまり、船体のそれぞれ、ひとつひとつに魂を込め、非常に大事にしている。海に親しみ船を見て育った私としても、新たな感動を覚えました。これは訪れてみてはじめて分かったことで、忘れられないとてもいい体験でした。

共同生活のあリ方を身につける

筒井氏 現在、日本の学校教育では、商船大学や商船高専のように、大型帆船で素晴らしい教育をしているところはありません。帆船教育を一般の学校教育にも広く取り入れるべきだと思いますね。

土井委員長 教育の場としては、共同生活の体験は誰しも大切だと思っています。しかし、上からおさえつけられて統制を受ける立場での共同生活というのは、これに対して若い人達はかなり抵抗感をもっている。それはよく理解できます。統制をはねのけて、何かを作っていくという方向に向かおうとするのはよく分かるわけです。

しかし、帆船での教育というのは決してそうではない。命がけで生きるも死ぬも一諸で、運命共同体でしょうから、ちょっとのことでもおろそかにしたら、みんなの命にかかわるという気持ちの中での生活でしょう。だから、強制されて動くのではなく、全員の中の一人として、自分のやることのひとつひとつがみんなにかかわるんだという責任感があり、自分の果たす役割がどれほど大きなものかについての自覚が生まれる。共同生活のあり方を身につけていく場として、これは非常に大事であり、それが実践できる場が帆船であることを痛感しました。

筒井氏 かつて航海訓練をうけた学生が感想文に「荒れ狂う海は我々を英雄にした」と書きました。「少年を海に出すと大人になって帰ってくる」とも言います。つまり、帆船による訓練は決して人が強制するのではなく、海が鍛えてくれるという良さがあるわけですね。

"大事なこと を教えられました

土井委員長 きっと、独り善がりな気持ちとか、独善的なやり方をゆるしてくれないわけですね。人のすることに対して、いたわりや思いやりを持ちながらやっていくという気持ちが生まれると思う。自然の前では人間の存在というのは小さく、謙虚になるわけで、共同生活のなかで大切なお互いの気持ちの土台が作られいくのではないかという気がします。

訓練を受けている人でないと分からないこともあると思うけれど、時にはつらいことやいやなこともあるだろうと想像します。それを乗りきった時の感激は大きいでしょうね。

筒井氏 「時化(シケ)があって船がまとまる」という言葉もあります。時化では全員が一致協力し船を守らなければならない。夕凪や日没が綺麗に感じるのは、今日も船が安全だったからで、そうした一体感は学校教育の場ではなかなか得られないと思う。世界には一般の青少年のための訓練用として、多くの大型帆船があるが、日本には一隻も無いんですよ。

土井委員長 そういうことについて私達ももっと考えて、何とかしなければならないでしょうね。

筒井氏 将来の日本を考えた場合に何と言っても教育が一番基本です。帆船による青少年の教育には非常にいいものがあるわけだから、企業人も一般の人達も金儲けだけの投資ばかりでなく、帆船教育にも投資したら良いと思います。

土井委員長 内需拡大というと経済効果の面ばかりを意識して考えるきらいがあるが、これからどうするのか、子供達と一緒に考え合うような場を作るのが大事でしょう。

よく政治の場では比喩的に日本丸の舵取りをする総理の手腕いかにとか、日本丸は何処に行く・・・なんて言われたりもしますが、まさしく日本丸という名の船を訪れ、大事なことがここにあったなあ・・ということを教えてもらいました。