日常のひとこま
なんだ・・・?
昼食から戻ってきた王子は、緊張感漂う部屋の様子に戸惑った。
一心不乱としか表現しようがないくらい、メンバー全員が受験生よろしく机に噛り付いている姿は異様としかいいようがなかった。
確か、午前中はこんなんではなかったはずである。
初めて見る光景に呆然としていると、奥の専用部屋から出てきた桐沢と目が合った。
「王子、この間の報告書はまだか」
桐沢の言葉に、王子は頭の中で今抱えている未処理の報告書を思い出す。
八王子・・・目黒・・・
このところ、事件が立て続けに起きていたこともあり、桐沢が何の事件を言っているのか即答出来なかった。
「・・・え・・・と・・・」
即答できない王子を見て、桐沢があからさまに苛立ちを露わにした。
桐沢の舌打ちを聞いた王子は完全にパニックに陥っていた。
他人が叱られているのを目撃するのと、実際に自分が叱られる対象になるのとでは桐沢の威圧感は桁違いだった。
桐沢が口を開いた瞬間、怒鳴られると思った王子は思わず目を瞑って衝撃に備えた。
そのときだった。
「すいませんチーフ!八王子の事件、資料まだあたしが持ってて王子君に回してません!!」
桐沢班の紅一点である宇佐木玲子が部屋に響き渡るくらいの音量で発言した。
「宇佐木・・・!」
桐沢の怒りの声にも、玲子は動じることなく答える。
「すいません、すぐに回します」
「わかってるんだろうな。提出期限は変わらんぞ」
「わかってます」
玲子は書類に目を向けながら答える。
その姿を暫く見ていた桐沢は黙って自分の部屋に戻って行った。
「ありがとございました」
王子は自分のデスクに座ると小声で玲子にお礼を言った。
あそこで玲子が助け舟を出してくれなければ、どうなっていたか。
想像するだけで恐ろしかった。
「報告書溜まってきたら、事件日順にナンバリングしてった方がいいわよ。機嫌悪い時のチーフってどの事件の報告が欲しいかわざと言わないから。まぁ、大概はその人が抱えている事件の古い順に報告書を求めてるケースが多いけど」
「参考までにお聞きすると、チーフの求めている報告と違ってたらどうなるんですか?」
「・・・聞きたい?」
玲子の微妙な間に、王子は聞いた事を後悔する。
「ちなみに、提出期限明日までだから」
「は!?」
玲子の言葉に、王子は驚いた。
いくらなんでもそれは無理があるだろう。
一番少ない自分でも未処理の報告書は3件ある。
一応の定められた終業時間まであと四時間もない。
ようやく、王子は班員が机に噛り付いている理由をさとる。
事件がない日くらい定時で帰りたい。
誰しもが思うことだ。
「宇佐木、お前あと何件残ってる?」
それまで黙っていた木崎が玲子に尋ねる。
「5件・・・木崎さんは?」
「・・・6件だ」
同時に腕時計を見て時刻を確認する。
二人同時にため息を吐くと気合を入れ直す。
その様子を見た王子も慌てて書類に取り掛かった。
人間集中力がいつまでも持続するものではない。
徐々にあちらこちらから囁き声が聞こえてきた。
「宇佐木、チーフと喧嘩でもしたのか?」
二班の蓮見の言葉に玲子が答える。
「してませんよ」
「じゃぁ、あれか?チーフの前で宇佐ちゃんにちょっかい出した刑事がいたとか・・・」
「・・・なんでチーフの機嫌とあたしが関係してるんですか?」
苛立ちの篭った玲子の言葉に、尋ねた蓮見と墨田は口を閉ざした。
これ以上玲子の機嫌を損ねると色んな意味で後が怖い。
二人が付き合っているのは班全員が暗黙の了解として認識していた。
玲子と付き合いだしてからというもの、桐沢の態度が昔に比べて穏やかになったこともあり、手を叩いて喜んでいるといっても過言ではなかった。
また、扱う事件の特性から班員が口が堅いのを知っているので、特に玲子も桐沢も班員には表立って隠すということをしてはいなかった。
「午前中はあんなんじゃなかったですよね・・・」
音響主任の桜庭が腕を組んで考え込んだ。
「あ、そういえば・・・」
何かを思い出したのか、墨田の発言に視線が注目する。
「戻ってきてすぐに弓坂警視正に呼ばれて出て行ったわ・・・」
「・・・それは・・・あれですね」
玲子のため息混じりの呟きに、木崎が言葉を引き継ぐ。
「あぁ。間違いないな・・・八つ当たりだ・・・」
その瞬間、班員全員のため息が響き渡る。
新しく就任した捜査一課長は間にいる理事官をすっとばして直接桐沢達管理官に説明を求める時が多々あった。
そのせいか、桐沢達管理官連中への理事官のあたりはかなりきついと聞いている。
おそらく、今回も何かしらの嫌味でもあったのだろう。
「宇佐木、お前ちょっとチーフの機嫌とりに行って来い」
「あたしより、木崎さんが行ったらどうですか?チーフとの付き合い長いんだし」
「俺が行ったら気持ち悪いだろうが」
「ちょ!どんな想像してるんですか!?セクハラですよ!!」
「待て!!お前こそどんな想像してるんだ!!」
ヒートアップして声を張り上げる二人を王子がなんとか宥めようとする。
「二人とも落ち着いてください・・・まずいですよ・・・」
王子は桐沢がデスクから立ち上がったのを見た。
「木崎!宇佐木!!・・・お前らよっぽど暇らしいな・・・なんだったら報告書の提出今日中に変更しようか?」
「・・・すいません。それだけはかんべんしてください」
「だったら、遊んでないでさっさと仕上げろ」
桐沢はそう言うと自分のデスクに戻る。
「・・・木崎さんのせいですよ」
玲子が小声で講義する。
「俺のせいか?お前が勝手に変な想像したんだろうが。俺は愛想の一つでも振りまいて来いって言おうとしたんだ」
「・・・とにかく、しばらく話しかけないでください」
その言葉を合図に、木崎も玲子も書類に集中する。
これはこれでいいコンビだよな・・・
王子は二人を見てそう思った。
「宇佐木さん」
暫くすると、音響桜庭班のメンバーが宇佐木に呼びかけた。
「提出期限、明日の午前中一杯まで伸ばして貰えるように、チーフに交渉してくれませんか?」
「だから、なんであたし!」
「木崎さんじゃ無理だから」
音響班全員の素直な返答に、あちらこちらから失笑に近い笑いが起こる。
玲子も思わず噴出した。
「・・・わるかったな」
眉間にしわ寄せながら、木崎が呟く。
「宇佐木さん・・・」
すがるような視線を周囲から注がれ、玲子は居心地の悪さを感じる。
「無理」
「そこをなんとか・・・」
「宇佐木ならやれる!」
「お前だけだ希望は!!」
周囲からのありがたくない激励に、とうとう玲子がの忍耐が切れた。
机に両手を叩きつけて勢いよく立ち上がる。
「冗談じゃないわよ!あの状態のチーフに近づいたら、あたしの身が持たな・・・!!」
最後まで言い終わらないうちに、自分の失言に気付いた玲子が慌てて口を手で塞いだ。
「宇佐木さん・・・」
王子は玲子の失言にいち早く気付いて頭を抱え込んだ。
周囲の男共は呆然と玲子を見ていた。
中には顔を真っ赤にして背ける輩もいる。
これはまずい・・・
玲子はそう思うと、今しがた書き終えたばかりの報告書共々机にある書き終えた報告書を鷲掴んだ。
「あたし、一抜けです!」
ある意味一番安全な部屋に非難するべく高らかに宣言する。
「なに!宇佐木いつの間に!!」
「ずるいぞ宇佐木!!」
別にずるかないだろう。ノルマの報告書を書き上げただけなのに。
王子は至極もっともな突っ込みを内心でする。
だが、仲良く残業だと思っていたメンバーは宇佐木の裏切りに野次を飛ばす。
小学校かここは!!
王子は低レベルな言い争いにため息を吐いた。
本当に事件のない特殊班は平和である。
「何、馬鹿みたいに笑ってるんですか・・・」
ある意味、一番安全な桐沢の部屋に脱兎のごとく逃げ込んだ玲子は、扉を閉めて一息吐くとデスクで笑いを噛み殺している上司を冷ややかに見た。
「いや、お前でもあんな失言するんだなと思うと・・・」
「チーフ!!」
怒る玲子を見て、桐沢はさらに込み上げてくる笑いを何とか噛み殺しながら、片手を差し出した。
その手に、玲子は掴んでいた書類を渡す。
「あと数分で終業時間だ。それまでそこに座って避難してろ」
桐沢の心遣いに、玲子は礼を言うと備え付けのソファーに腰を下ろした。
「あ〜もう!!穴があったら入りたい!!」
頭を抱える玲子の姿に、桐沢は苦笑した。
「それで?連中の期待通りにご機嫌取りはしてくれるのか?」
あきらかに面白がっている桐沢の様子に、玲子はむっとした表情でそっぽ向く。
「玲子」
桐沢の呼びかけに、玲子はボソと呟く。
「明日も仕事があるって事を忘れないでくれるなら・・・」
その言葉に、桐沢は我慢できずに今度こそ声をあげて笑った。