4

「おはよう、玲子」
 朝一番に見る顔が藤井とはげんなりする。かといって階級が上である以上無視するわけにもいかない。
 玲子は内心でため息を吐くと藤井に挨拶した。
「おはようございます。藤井警部」
「何時もこの時間?」
「遅刻してはおりませんが」
「感心しないな」
「・・・木崎さんの方があたしより遅いですけど」
 藤井の言葉に、玲子はため息を吐きながら答える。
 こんなくだらない事を言うために、朝からずっと庁舎の入り口で待ち構えていたのだろうか。
「それと、名前で呼ぶのは止めてもらえませんか」
「どうして?君と僕の仲だろう?」
 その言葉に、玲子は憮然とした表情を浮かべた。
 あなたに名前で呼ばれること自体が不快なんです。って言えたらどんなに気分がいいだろうか。しかし、桐沢に釘を刺されている以上そうもいかない。
「今はただの同僚です。周りと同じく苗字で呼んでください」
「わかったよ。矢嶋」
 にやりとした笑みを浮かべながら、藤井が玲子の旧姓を呼ぶ。
「今は宇佐木です!」
 玲子はそう言うと、足早に建物内に入って行った。

「おはよう、宇佐ちゃん」
 にこやかに手を上げて挨拶する墨田を見て、玲子は苦笑した。
「朝からテンション高いですね。墨さん」
「朝テンションあげて、夜にまたテンションあげる。これ常識でしょ」
 訳の分からない理屈を述べる墨田の雰囲気が、ささくれ立っていた玲子の心情を落ち着かせる。これもまた貴重な人材である。
 玲子が机にカバンを置くと、待ち構えていたかのように、奥の部屋から桐沢が顔を出した。
「宇佐木!ちょっとこい」
 桐沢の呼び出しに、玲子は微かに首を傾げながら桐沢の部屋に向かった。
 まだ呼び出されるような事は何もしていないはずである。
「チーフ、あたし何かやらかしました?」
 玲子は無意識に桐沢の部屋のドアを閉めながら、尋ねる。
 藤井が来てからというもの、玲子は自分の部屋に来るときは必ずドアを閉めるようになった。その変化に気付いてはいたが、桐沢はあえて何も言わなかった。
 実際、閉めてもらった方がいい会話の方が多いし、玲子が無意識にでもそれで安心するのなら問題視する程でもないと思ったからだ。
「なんかやらかした覚えがあるなら早めに報告しとけ」
 桐沢の軽口に、玲子も微笑みながら答える
「冗談ですよ」
 玲子は桐沢のデスクの前に立つとそっと様子を伺った。 
「何か疲れてません?」
「朝から頭痛が酷くてな」
「風邪ですか?」
「だとよかったんだが・・・」
「・・・ひょっとして・・・あっちですか?ストレス偏頭痛」
「おそらくな。あの野郎が来てから、各班の連中からの苦情が凄くてな・・・お前、薬持ってただろう」
 玲子が頭痛薬を一回分必ず身に忍ばせている事を知っているが故の打診だった。
 微かに痛むのだろうか。桐沢は両手でこめかみを軽く押した。
「薬、切らしてるんですか?」
 玲子は上着のポケットから薬を差し出すと桐沢に尋ねた。
「朝飲んできた分で最後だった」
 桐沢の言葉に、玲子はため息を吐いた。
 これは遠まわしに買って来いと言っているのだろう。
「何時ものでいいんですね」
「こういう時、お互いの家を行き来してると楽だな。」
「そんな楽、あたしは嫌です」
「あぁ、わかってる。なんにせよ、助かる。午後から会議でな。薬局に寄る暇がない」
「本当は、休むのが一番なんですけどね」
 お互いに苦笑する。無理は承知の発言だからだ。 

「それより、そっちは大丈夫なのか?」
 そっちというのは恐らく藤井の事だろう。
「軽い嫌味はきますけどね・・・表立って特には・・・」
「耐えれるか?」
「ここに来た時に比べれば軽いです」
「・・・確かにな・・・」
 玲子はあえて、昨日自宅付近で藤井を見たことを告げなかった。
 本当は話すべきなのだとわかってはいるのだが、今の桐沢の様子を見てこれ以上の厄介ごとを告げる気にはなれなかった。
 それでも、告げておかねばならないこともある。
「チーフ、ひとつお伝えしておいた方がいいと思うので、お話しておきますが・・・藤井警部と組んでいた時、わたしは矢嶋姓でした」
「・・・それに関してリアクションはあったのか?」
「出勤時庁舎前で待ち伏せされていて、挨拶をされました」
「暇なやつだな」
 桐沢の言葉に、玲子は肩を竦めた。
「名前を呼ばれたので、そういう間柄ではないので周りと同じように苗字で呼んで欲しいと言ったら、矢嶋と・・・」
「放っておけ」
「よろしいのですか?」
「昔の女が名前を変えた。しかも結婚はしていない。馬鹿でも何かあると思うだろう」
「動かれたらどうします?」
「問題ない。上層部が封印した案件だ。探ればどういうことになるかは、お前が一番よく知っているだろう。いっそうのこと、手を出して墓穴を掘ってくれたほうがありがたいんだがな」
 桐沢の何気ない発言に、玲子は微かに怒りを含んだ声で言った。
「私は、関係の無い人間に興味本位で父の事を蒸し返されるのは我慢できません」
 玲子の口調に、桐沢はバツの悪い表情を浮かべた。
「悪かった。俺の配慮がたりなかった」
 興味本位で蒸し返されたくないのは自分とて同じである。まして、身内である玲子が不快に思わないはずは無かった。
「いえ、わたしも申し訳ありませんでした・・・」
「いや、お前の反応は当然の事だ。この件に関して、藤井が何か言ってきたら俺に直ぐに言え。俺が捕まらなければ片山に言えばいい。事情を知っている人間が動いた方が早いからな」
「ありがとうございます」

「それはそうとだな・・・」
 桐沢はふと大部屋に視線を向けた。
 玲子もつられて視線を向ける。
 何やら墨田がしきりに藤井に話しかけているようだ。
 墨田の声はこちらに聞こえるが、藤井の声は聞こえない。墨田の身体で遮られて藤井の表情はわからないが、外面のいい男だ。愛想笑いでも浮かべているのだろう。
「遅くなるかもしれんが、今夜寄っていいか?」
「・・・冷蔵庫、空なんですか?」
「・・・話したいことがあってな」
「否定はしないんですね」
「男の一人暮らしなんか、そんなもんだろう」
 その言葉に、玲子はため息を吐いた。
「鍵、貸してください。こちらが伺います。ついでに冷蔵庫の問題も解決しておきますので」
「何時も悪いな」
 桐沢はそう言うと、上着の内ポケットから財布を取り出した。
 調達資金として1万円札を抜き取ると、同じく財布から取り出した鍵を玲子に渡す。
 何か言いたげに、渡された二つをじっと見ていたが、結局玲子は何も言わずに上着にしまうと部屋を後にした。
 てっきり何か言ってくるだろうと思っていた桐沢は、玲子の反応に憮然とした表情を浮かべるのだった。