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「ただいま・・・」
疲れ果てて帰宅した玲子を妹の澪が無言で出迎えた。
「何よ・・・お帰りぐらい言ってくれてもいいんじゃない?来てるんなら」
玲子が靴を脱ぎながら発した言葉にも反応しない妹の様子に、訝しんで顔を向けた。
脅えた表情の妹を見て、玲子は驚いて詰め寄った。
「澪、どうかしたの?」
「・・・さっきね、そろそろお姉ちゃんが帰ってくる頃だと思って、窓から外見てたの・・・見間違いかもしれないんだけど、お姉ちゃんの後を男の人がつけてた・・・」
その言葉を聞き終わらないうちに、玲子は急いでリビングの窓に近寄ると、そっとカーテンの隙間から外を伺った。
つけられてる気配は感じていたので撒いたのだが・・・
相手が一枚上手だったか・・・
玲子は自分の失態に舌打ちした。
「お姉ちゃん・・・」
不安な声で自分を呼ぶ妹に、玲子は安心するように笑顔を向けた。
「知ってる顔の新聞記者よ。ここ最近関わっている事件の進展がないか探りに来たのよ」
「桐沢さんに・・・」
澪は玲子の上司で恋人でもある桐沢に相談しないのかといいたげだ。
「こんなこと、刑事になったらよくあることよ。いちいち桐沢さんの手を煩わせることないわよ」
「でも・・・」
「わかった。あたしが言っても聞かないようなら、桐沢さんに報告する。それでいい?」
「お姉ちゃんがそう言うなら・・・」
「約束する」
「絶対だよ」
なおも不満そうな妹の様子に、玲子は苦笑した。
どこをどう気に入ったのか、澪は桐沢を実の家族のように慕っていた。
初めて澪に桐沢を恋人として紹介した時、正直反応が怖かった。歳が離れ過ぎていることに妹が嫌悪を抱く可能性の方が高かったからだ。
こちらの家庭事情を全て承知しているからかもしれないが、桐沢もまた澪を大事にしてくれる。自分には相談しにくいこともあるのだろう。自分を介さないで澪の相談に乗ってくれている。それでいて、一線を越えることはない。あくまでも澪の保護者は玲子である。出来ることと出来ないこと。はっきりと告げる態度に澪も信頼をしているのだろう。
まさか、澪が桐沢を逃したら姉が結婚できないのではと思っているとは玲子も想像してはいなかった。
「澪、暫くお姉ちゃんがいいって言うまで、この近辺に近寄っちゃ駄目よ」
「どうして?」
「あの手の記者はしつこいから。一回言っただけじゃ聞かないかもしれない。あんただって煩わしことに関わるのは嫌でしょ」
頷いた澪の肩を叩くと、玲子は笑顔で言った。
「明日、出勤前に送っていくから、今日は泊まっていきなさい」
なんとなく、逆らわない方がいいのだろう。
姉妹の感から、澪は頷く。
「夕御飯、作ってあるから暖めてね」
玲子が頷いたのを確認すると、澪は何時も自分が使っている部屋に入っていった。
澪が部屋に入ったのを見届けた瞬間、玲子の表情から笑顔が消えた。
一瞬だが見間違いはない。
あれは今日再会した藤井だった。
何故あの男が・・・
怒りで血が上り、外に向かいそうになったが、昼間の桐沢との会話を思い出した。
連れたって桐沢の部屋に入ると、目線でドアを閉めるように促された。
特に声を張り上げなければ、大部屋にこちらの声が聞こえることはない。
つまり、これから話す事は聞かれたくない内容という事だ。
「木崎の言った事は本当か?」
桐沢は正面に直立不動で立つ玲子に聞いた。
玲子の予想通り、桐沢の話の内容は藤井との関係についてだった。
「・・・」
桐沢の言葉に、玲子は無言で返事をする。
口にだして肯定するのが嫌だったのだ。
玲子の記憶の中で人生最大の汚点を桐沢に話したくはなかった。現時点では、黙っていればこれ以上の追求はないだろう。桐沢の質問はあくまでも公の部分での藤井との関係把握といった感じだ。
「お前、あんな男がタイプだったか?」
玲子の無言をYesと判断したのだろう。
桐沢の言葉に、玲子はため息を吐いた。
「・・・若気の至りです・・・」
言葉に含まれた微妙なニュアンスに、桐沢はあの男との事が今もなお玲子の中に根深く残っているのを感じた。それもあまりよくない感情だ。
「・・・玲子、揉め事起こすなよ」
桐沢の呆れた表情と名前を呼ばれた事で、玲子は桐沢の発言がプライベートの事を指しているのかと思い、悔しさで掌を強く握り締めた。
この目の前の男は、今更自分があの男と関係を持つと思っているのだろうか。
「・・・チーフは私の事が信用できませんか・・・」
桐沢はイスの背もたれに体重を預けると、玲子の怒りに震えている手を見た。
どうやら、先程の自分の言葉を曲解したらしい。
「勘違いするな。今更、あれとどうこうなるとは思っちゃいないし、お前に対しては浮気されるほど手を抜いた付き合いはしてないつもりだ。ただ、お前は売られた喧嘩は買うタイプだからな・・・」
「・・・・」
思わず顔をそらした玲子を見て、桐沢は軽くため息を吐いた。
「あの手の輩は保身には余念がない。それに、ムカつく事に向こうはまだお前に未練があるみたいだしな。お前は身に沁みて理解していると思うが、女ってだけで泣きを見る所だ。警察は。くだらん喧嘩を買って、今まで気付いてきたキャリアを棒に振るような馬鹿な事にはなるなよ」
つまり、すきを見せるなと言う事か。
「もちろん、承知しています」
「ならいいがな。とりあえず、ぶん殴る前に俺か木崎に一言言え」
「言ったら殴らせてくれるんですか」
「宇佐木」
「冗談です。チーフ、話は以上ですか?」
「あぁ」
桐沢の言葉に宇佐木は頭を下げた。
「宇佐木」
ドアノブに手を掛けた玲子を桐沢が呼び止める。
「ひとつ喧嘩の仕方を教えてやる。どうしても買わなきゃならん状況になったらな、大勢証人がいる所で相手に不利な発言をさせろ」
できるだろ?お前なら。
言外に含まれた言葉を聞き取って、玲子は微かに口角を上げた。
つまり、事を起こす時は交渉班のメンバーが居るところで派手にやれという事だ。
「ご親切な指導ありがとうございます」
玲子の言葉に、桐沢はにやりと笑った。
どうやら、こちらの言いたいことは理解したようだ。
自分達がいるところでなら、たとえどんな事でも揉み消してやる。
昼間の発言からの桐沢の意図はおそらくそうだろう。
図らずとも、桐沢の杞憂が現実味を帯びてきた。
玲子はダイニングのテーブルに座ると、両手で顔を覆った。
ようやく過去の傷が癒えて、心から愛し信頼出切る男にも出会えた。
なのに何故・・・
玲子は握り締めた両手で机を叩いた。
久しぶりに女という事が悔しかった。
藤井が上司である以上、例え襲われたとしても合意だと主張されれば泣きを見るのは自分なのだ。そして、それと同時にいかに自分が守られていたのかを理解する。
男だらけの現場で女は自分ひとり。
別に自分は女を主張するわけでもないが否定もしていない。
それでも、今まで何事もなく仕事に専念できたのは、仲間としての信頼もさることながら、桐沢・墨田・木崎。
このトップ3人の監視の目が常にあったからだ。
もっとも、今は別の意味で自分には手を出しはしないだろう。
誰しも、藪をつついて蛇は出したくはないはずだ。
玲子は笑みを浮かべる。
自分はいい仲間に出会えた。上司にも恵まれている。ならば、自分に出来ることはその上司に迷惑をかけない事。
配属当初並みの神経を使いそうだ。
玲子は気合を入れる為に、両手で頬をピシャリと打った。