不意打ち
 
 
 買出しから戻ってきた玲子は、桐沢のデスクの明かりが点いている事に驚いた。
 とっくに帰宅していると思っていたのだ。
 
 ふいにこの間木崎に言われた事を思い出した。
「宇佐木、桐沢チーフ弓坂警視正に頭下げたらしいぞ」
 木崎の言葉に、玲子は思わず桐沢のデスクを見た。
 そんな事は木崎に言われなくても、本人から直接聞いている。
 玲子は思わず拳を握り締めた。
 桐沢に頭を下げさせた。今の玲子には一番堪えることだった。
 配属したての頃ならせせら笑っていただろう。しかし、現在は桐沢を上司として信頼を置いている。桐沢から事の顛末を聞いたわけではない。が、あの弓坂の事だ。嫌味などという可愛いものではなかっただろう。
 一瞬、自分だから庇われたのか。
 嫌な考え・・・自分がもっとも嫌う女としての考えが浮かんだ。
 もし、これが他の部下だったらどうだったのだろうか。
 が、すぐに思い直す。恐ろしいくらいに公私をきっちり分ける男だ。
 だからこそ、今まで二人の関係が誰にも・・・特にSITのメンバーにバレずにいるのだ。
 それに、他の部下でも桐沢は同じように対応しただろう。もっとも、自分以外には誰もしないと思うが・・・
 
 桐沢と関係をもったのは玲子が狙撃された事件が解決して暫くたったころだ。
 遅い完治と復帰を兼ねた飲み会の帰りだった。
 意地を張ったのといまいち体調が本調子ではなかったのだろう。珍しく酒に酔った玲子をなぜか桐沢が送り届ける事になったのだ。
 以外に面倒見のいい桐沢がマンションの玄関まで親切に送り届けてくれた。
 もっとも、後から本人に聞いたら、放っておいたらマンションのエントランスで寝るんじゃないかと思ったらしいが。
 妹が事件のせいで潰れたアメリカ旅行に行っていて一人だったというのもあったのかもしれない。
 魔が差したというかなんというか・・・誘惑したのは玲子の方だった。
酔っ払いの戯言として最初は取り合わなかった桐沢も、段々とその気になったのだろう。正気に返った時は、二人とも玲子のベットの上だった。
 今もって何故、あの時桐沢が玲子の誘いに乗ったのか聞いたことはなかった。
 お互い寂しさを紛らわせるだけだったのかも知れない。
 桐沢は長年別居していた妻と離婚が成立したばかりだし、自分も体に一生消えない傷が残ってナーバスになっていたのかも知れない。自分に女としての価値があるのか不安だった。
 一度限りの関係。
 そう思っていた玲子だったが、以外にも桐沢とはその後も何度か身体を重ねていた。
 玲子から誘う時もあれば桐沢からの時もある。
 お互い惚れあっているのは確かだ。けれども、桐沢からも自分からもその話題を出したことはなかった。それでも、最近は二人で食事に行く事も増えたし、お互いの家に泊まる事も増えてきた。しかし、いまだ持って二人の関係は謎のままだった。
 
「俺があの時言ったことを覚えているか?事と次第によっては、チーフの首が確実に飛ぶって」
 その言葉に、玲子は思考を中断し、木崎の言葉に耳を傾けた。 
 こいつ、俺の話しを聞いているのか的な視線を向けられて、玲子は慌てて頷いた。
 何か言いたげに口を開きかけた木崎だが、苦虫を噛み潰した表情を浮かべた。
 何を言っても無駄ととったのか、いちいち玲子の態度に小言を言っても始まらないと思ったのか、木崎はため息を吐くと再度口を開いた。 
「何かあったら、全部自分が責任を取るつもりだったんだぞ。桐沢チーフは。宇佐木、お前にその意味がわかるか」
「・・・」
「良くも悪くも、お前は警察組織全体の注目を集めてる。そして、お前を部下に持っている桐沢チーフもだ。まして、我々五班は何かと問題が多いからな」
 言外に自分の父の件と甘利の件を言っているのだろう。
 殉職者を2名もだした交渉チーム。
 桐沢班はウサギじゃなくて疫病神を飼っているのかとあからさまに揶揄されたこともあった。
「言わしたいやつには言わしておけばいい。何をどう言われようが結果が全てだ。確実に成果をだして口を封じてやれ」
 その度に桐沢や木崎が言うこの一言が強固なまでに桐沢班の鉄則を強めたと言っても過言ではない。
 今にして思えば、玲子の知らないところで、個別に色々と言われていた人間もいただろう。それでも、チームのメンバーは誰一人として玲子を疎んじる者はいなかった。それだけ桐沢という人間のリーダーとしての資質が優れていたのだろう。
 もし、桐沢が玲子を着任したての頃のように疎んじたら、チームのメンバーもそれに習う。しかし、桐沢は一貫して玲子を一人前の交渉人として扱った。読み間違えれば容赦ない罵声が飛ぶし、判断をミスれば張り倒される。そこに男も女も関係なかった。
そして、木崎もまた自分が一歩さがることで、宇佐木の存在を際立たせた。
二人の優秀な上司に恵まれて、宇佐木は感謝していた。全てが敵だと思えた昔が懐かしかった。

「俺の顔に何かついてるか?」
 思考に没頭して気づかなかったが、かなり桐沢の方を注視していたらしい。
 桐沢は訝しげな顔をして、こちらを見ていた。
 見れば、愛用のボールペンが机の上に転がっている。
 どうやら、書類作成をしていた手をずいぶん前に止めていたらしい。
 だったら、早く声をかければいいのに!
 面白がって眺めていたふしがある上司の悪癖に、玲子は内心悪態を吐いた。
「まだいらっしゃるとは思いませんでしたので」
 嫌味たらしく述べると、桐沢はしかめっ面を浮かべた。
「誰のせいで残ってると思ってる」
 ボソッと呟いた言葉が玲子の耳に入る。
「はは、コーヒー飲みます?」
 ばつが悪くなった玲子は慌てて席を立ち上がるとコーヒーサーバーに向かった。
 程なく、カップを持ってきた玲子は桐沢の部屋の扉を閉めると、デスクに書類の邪魔にならないよう慎重に置いた。
 その行動を不振に思いながらも、桐沢はあえて何も聞かなかった。
「すみませんでした」
 突然、頭を下げた玲子を桐沢は不思議そうに見た。
「なんのことだ?」
「弓坂警視正のことです。チーフの立場も考えろと木崎さんに注意されました」
「別にお前が責任を感じることじゃない。最終的に許可を出したのは俺だ」
 桐沢はコーヒーを一口飲むとそう答えた。
「それで?人気のない部屋にも関わらず、俺の部屋のドアを閉めた理由はそれか?他にあるんじゃないのか?わざわざ扉を閉めてまで話さなければならないことが」
 桐沢の言葉に、玲子が一瞬迷った表情を浮かべた。
 その表情を見て、桐沢は玲子の話の内容を察した。
「プライベートの事か?」
 桐沢の言葉に、玲子はホッと一息吐いた。
「すみません、こんな所で」
「こんな所以外では、最近はまともに会話すらできんからな。それで?」
「実は・・・ですね・・・」
 妙に歯切れの悪い玲子を桐沢が促す。
「妹に・・・ですね・・・チーフとの事がバレまして・・・覚えてますか?先週、帰る時間が惜しいからと近い私のマンションに泊まった日・・・朝、マンションから出て行くチーフの姿を妹が見たらしいんです」
「あの誘拐事件の日か・・・妹さんが想像するような色気のある内容じゃなかったんだがな・・・」
 桐沢の言うとおりだった。マラソン選手なみに走らされて、ヘトヘトだった玲子を、桐沢が見かねて送ってくれたのだ。
「お互い疲れ果てて泥睡してましたからね・・・」
「で、なんて説明したんだ?」
「何て言ったらいいのかわからなくて・・・逃げてきました」
 玲子の言葉に、桐沢がため息を吐いた。
「お前、男には不自由しないくせに長続きしないだろう」
 突然の話に、玲子は不思議そうな顔をした。
「長くて一ヶ月。違うか?」
「今はそんな話では・・・」
「別れ際の台詞、当ててみようか?“君とは付き合いきれない”“君は仕事が恋人なんだね”
などなど、男のほうが逃げ出すケースが殆どだ」
「なんでわかるんですか!?」
 まるで見てきたかのような桐沢の台詞に、玲子が驚いた。
「宇佐木、お前仕事と男どっちとる?」
「仕事です」
「間髪入れずに答えやがったな・・・」
「恋人が浮気したら?」
「別れます」
「それが原因だ。お前は並みの男より男らしいんだ。そのくせ、自分のことは後回しというか全く頓着しない。相手は自分が愛されているのか不安になる。それに耐え切れなくて逃げ出すんだ」
「それとこれとは・・・」
 玲子の発言を桐沢は片手で止めた。
「そのくせ、身内がからむと冷静さにかける」
「・・・・」
「で、俺に相談か」
 玲子が頷いたのを見て、桐沢は口を開いた。
「好きに答えたらいいさ」
 どこか投げやりにも取れる桐沢の言葉に、玲子はムッとした。
「不満そうな顔だな」
 玲子のその表情を、桐沢が面白そうに眺める。
「お前、この間俺になんて言ったか覚えてるか?“あたし達って、はたから見たらどういう関係なんでしょうね?”そう言ったんだぞ」
「あ〜いいましたね。たしかに」
 バツが悪そうに、玲子はそっぽを向く。
「そんなこと言われた本人が、何を言える?」
「・・・そうですよね・・・すいません」
 しゅんとした表情で俯いた玲子を見て、桐沢は内心でため息を吐いた。
(俺もやきが回ったかな)
 桐沢は立ち上がるとドア付近まで近寄り、部屋の入り口と全体を見て誰もいない事を確認すると玲子に向き合った。
「宇佐木、一度しか言わんからよく聞いとけ。俺はな、お前と関係を持った時点で腹括ってるんだ」
 意外そうな顔で玲子は桐沢を見た。
「じゃなきゃ、誰が好き好んでお前みたいな扱いづらい女と付き合うか」
「扱いづらいって・・・」
「何時も、人の命令無視して突っ走るのはどこのどいつだ」
 桐沢はそう言うと、デスクに座りなおして置いていたペンを手に取った。
 つまり、話はここまでということらしい。
 玲子は桐沢の態度からそう読み取ると、部屋を出るために扉に手をかけた。

「チーフ、妹が一緒に食事でもと言ってましたが」
 玲子の言葉に、桐沢の動揺した気配が背後から伝わる。
「お・・・前、俺をひっかけたな」
「一度、チーフの本心を聞いてみたかったもので」
 桐沢の方を向いて、悪びれもせずに玲子が答える。
「満足か」
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている桐沢に、玲子は首を傾げながら聞いた。
「ひとつ疑問があるんです。チーフの見解が確かなら、新記録更新ですよね?」
 玲子の言葉に、桐沢は片眉をあげた。
「俺がお前より経験積んだ交渉人だからだろう」
「意味がわかりかねるのですが・・・」
「つまり、お前の突拍子もない行動に付き合えるのは俺ぐらいだろうってことだ」
「・・・あたしは猛獣ですか」
「猛獣のほうがはるかに可愛げがある。少なくとも調教すれば従うからな」
 桐沢の言い様にムッとした表情を浮かべながら、玲子は何とか目の前で余裕の表情を浮かべている男に一泡ふかせられないかと考えた。そして、思いついた考えにほくそ笑む。
「あたし、チーフのこと尊敬してますよ。上司として。そして、ちゃんと男性としても愛してますよ、圭吾さんの事」
 玲子の突然の発言に、桐沢は飲みかけのコーヒーを噴出した。
 めったに呼ばない名前呼びに、桐沢が目に見えるうろたえぶりをした。玲子は内心ガッツポーズをする。
 気分よく部屋を出て行こうとした玲子の背中に、気を取り直した桐沢が声をかける。
「宇佐木、俺もお前を部下にもてて誇らしいよ。むろん、恋人としてもな。玲子」
 その言葉が言い終わるやいなや、玲子は音が出るくらい勢いよくドアを閉めて出て行くと、一目散に自分のデスクに戻っていった。
 その顔が耳まで真っ赤になっているのを桐沢は見逃さなかった。
「俺を出し抜こうなんざ、10年早いんだよ。宇佐木」
 桐沢は満足そうにそう呟くと、嬉しそうに玲子が入れたコーヒーを飲み干した。