信念
「それじゃあ」
そう言って別れた後、久美子はゆっくりと歩き出した。
思い起こせば、今回の事件はいろんな意味で忘れられないものとなった。
初の大仕事という事もさることながら、自身が嫌いな警察の弁護というのもそうだった。
が、なにより自身が信じていた法が凶器に変わる瞬間や組織の汚さを痛感した事もある。
法の解釈のしかたの怖さを身に染みたのだった。
けれども、収穫もあった。一人の実直な警察官というのに出会った事であろう。
自身の弁護人である室井という男は、久美子が知っているどの警察官とも違っていた。
信念を貫き、ひたすら真実を追究する姿に、何時の間にか久美子自身も共感していた。
姿勢のいい歩く後姿を見つつ思い巡らせていた久美子に、一人の女性がぶつかった。
痛さに顔を顰めながら、その女性を睨む。が、余程慌てて走って来たのか、言葉をはっするのも苦しそうだった。
何とか息を整えて彼女が発した言葉に、久美子は目を見張る。
「待って!室井さん!!」
が、この雑踏の中では彼女の声は聞こえないのだろう。呼ばれた男は知らず遠ざかっていく。どうしたものかと久美子が思案していると、その女性は大きく息を吸った。
「待ちなさい!!室井慎二!!」
小柄な女性からは想像出来ない大きな怒鳴り声に周りは何事かと立ち止まった。
呼ばれた当の本人は正にマッハのこどく振り返ると、女性の姿を驚きの表情で見る。
「すみれ!!」
室井は居るはずの無い恋人の姿にわが目を疑った。
自分の名前を呼ばれた事により、女性は走って室井の傍まで行く。
「仕事はどうした!?何でここに!!」
半パニックになりかけている室井をすみれは一喝する。
「一度に聞かない!!今日の事は沖田さんからメールが来た。仕事は青島君に押し付けてきたし、課長から半休の許可もらった!!」
すみれの発言に、室井は諦めのため息を吐いた。
さすがは、湾岸署のワイルド・キャット。怒りのすみれには誰にも逆らえない。
「何で室井さんが広島に行かなきゃならないの!」
「騒ぎを収めるには、誰かが責任を取らなければならない」
「それがどうしてあなたなの!」
すみれの言葉に、室井の眉間に皺が寄る。
「あたしの為にあなたが警察を辞めるなら、あたしが先に辞めてやるわよ!!」
「誰に聞いた!!」
「新城さんから・・・その時のあたしの気持ちがわかる?」
「・・・」
「あたしはね、あなたの口から聞きたかった!どんなことでも、あなたから一番に聞きたかったの!!」
すみれは室井のコートを掴むとグッと身体を引き寄せた。
「上にいくんでしょ?現場の人間が正しい事が出来る為に!なのに!!」
「すみれ」
室井は優しく名を呼ぶと、そっと彼女の手をはなした。
「俺は諦めたつもりはない。新城が繋げてくれた首だ。最大限に生かせてもらうさ。だから、待っていて欲しい。必ず帰ってくるから」
「絶対よ」
「約束する。だからすみれもがんばれ。君や青島のように人の痛みがわかる刑事が現場には必要なんだ」
「・・・分かった。待ってる・・・で、その手に持ってるあきらかに手作りなお弁当は何?」
すみれの言葉に、室井は視線を下げた。
「あぁ、世話になった弁護士がな・・・くれた」
室井のためらいのない発言に、すみれの眉間に皺がよる。
「・・・」
「・・・牡蠣送る」
「欲しいけど牡蠣はいい」
すみれとも思えない発言に、室井は目を見張る。
「食べに行くから・・・必ず・・・」
甘える様に自分の胸に額をくっつけると、すみれがそう言った。
「あぁ、待ってる」
そんなすみれを室井は大切に抱きしめる。
「何だ、居るんじゃない。彼女」
二人の様子を見ていた久美子ポツリと呟いた。
ちゃんと室井には居たのだ。かつて失ってしまった恋人以上に大切にしている存在が。
久美子は切なく微笑むと、もう振り返ることなく歩き出した。
胸に走る微かな痛みには気付かないふりをして・・・。