気持ちに気づく夜
2
その夜、青島俊作は湾岸署にいた。
数少ない喫煙所で、調書を読みながら煙草を吸っている。時計は11時近くを指していた。もう帰ってもいい頃だ。このままいつまでも署にいると、宿直扱いされてしまう。
最近、確かに本数が増えたよな、そう思いながら吸い終えた煙草を揉み消した。
昼間同僚が指摘したように、最近は煙草を吸うと女性に嫌われるらしい。まぁ、あそこまではっきり口に出して言うのは、湾岸署のワイルドキャットぐらいかも知れないが。(いや、雪乃さんもいいそうだな。だから真下は煙草吸わねーのか?)、集中力が途切れたせいか、キャリアの後輩のにやけた顔とかどうでもいいことばかりが頭に浮かんできた。とても「連続パンストスリ事件」の調書どころではない。帰ろう、と立ち上がりかけたときに携帯が鳴った。
「青島です」
「室井だ」
「どうしたんすか、こんな時間に」
「あぁ、遅くに済まない。まだ湾岸署か?」
「もう帰るところですけどね、まだいることはいますよ」
「実は今、そちらの近くにいるんだが、少し時間をもらえないだろうか」
「かまわないですよ。事件ですか?」
「事件なら、君の携帯にはかけん」
「冗談っすよ、今どこですか」
「駅だ。こちらまで来てくれるか」
11時を過ぎるとどこも台場周辺はどこもラストオーダーで、落ち着いて飲めそうな店はなかなか見つからない。
二人は、タクシーを捕まえ六本木に向かった。室井がたまに来るというその店は、駅から少し離れたビルの地下にあった。
「静かな店ですね」
「あぁ」
「オレ、飯まだなんすけど、室井さん食事は済ませました?」
「あぁ。気にせず好きなものを頼め。私は、先ほど済ませてきた」
オーダーを終えると、一通り近状を報告しあい世間話に興じた。
青島が食事を終え、それぞれが落ち着いて飲み始めると室井が切り出した。
「実は先ほどまで、恩田刑事と食事をしていた」
「すみれさんとですか?」
青島が大きな目をさらに丸くする。
「まさか・・・、デート、じゃあないですよね?」
「違う。が、個人的にどうしても話しておきたいことがあった。だから付き合ってもらったんだ」
「それって、あの事件の話ですか?」
室井は黙りこんだ。青島は勘が良い。室井がそれ以上言わないので、青島も黙った。暫くして室井が口を開いた。
「あぁ、あの時、お前に怒鳴られたことは、私も重く受け止めている。一度、きちんと彼女に詫びたかった」
それで済む話ではないがな、と室井はつぶやいた。
「それで?ワイルドキャットに噛み付かれたりしませんでしたか?」
「あぁ。彼女は・・、大人だな。現場で見た印象より、ずっと落ち着いていた」
青島は、普段すみれがみせる何気ない心遣いに思いを馳せた。見かけの気の強さとはうらはらに、すみれには周囲をさりげなく気遣い、困っている人にそっと手を貸すような優しさがあった。だから、すみれさんって、意外とオジサン達にもてるんだよね、そんなことを思いながら青島は杯を傾ける。
「彼女は、お前と付き合ってたんじゃないのか?」
室井の一言に青島はむせた。
「急に何言い出すんですか、室井さん。別にオレ達そんなんじゃないっすよ。そりゃ背中合わせの席で、よく一緒に仕事もするし、なんだかんだで噂されることも多いんですけどね」
昼間、魚住に冷やかされたことを思い出しながら青島が答える。
「でも、確かにすみれさんがいなかったらって考えると、寂しいものはありますね」
「そういうのは、恋愛感情とは違うのか?」
「違うと思いますけど、そういやつきつめて考えたことってないんですよねぇ」
青島は、そういって黙り込んだ。
室井はその様子を見て、重たい気持ちになった。青島は優秀な刑事だが、性格的にやんちゃな面がある。感情が高ぶるとぱっと飛び出して行くような・・、まるで犬だ。このままこの調子で話していると、やがて青島は「やっぱり、オレ、すみれさんのことが好きでした」などと言い出して店を出て行くのではないだろうか。
室井は眉間に皺を寄せながら、日本酒を飲み干す。
「そうやって気になるんなら、なーんで、あんなことを彼女に頼んだ」
「へ?」
青島がきょとんとした顔で室井を見る。
「頼んだんだろう、友人の付き添いを。明日」
「すみれさん、室井さんにそんなことまで話したんですか?」
あちゃー、と青島は困った様子で頭を掻いた。
「何かあったら、どうするんだ」
「何もないですよ。オレの友人だし、行くのは企業のパーティーだからお堅いもんすよ」
「頼むほうも頼むほうだが、受けるほうも受けるほうだっ」
とばっちりはここにいないすみれにも向かう。
「まぁまぁ、室井さん落ち着いて。何だか感情的ですよ」
「別に」
「眉間の皺、いつもより深い・・」
「うるさいっ」
室井は青島の言葉に感情的になりながらも、どこか覚めた目で自分を見つめていた。この自分が仕事以外のことで動揺している。彼女のことになるといつもこうだ。
「すみれさん、あぁ見えてもてるんですよね」
そんな室井の心境を知ってか知らずか、青島がいう。
「意外に恩田ファンって多いんですよ」
「そうか」
話は面白くないが、他に答えようがない。
「室井さん、なんでオレに今日、声をかけてくれたんですか」
青島が静かな声で聞いた。いつにないその口調に、室井は一瞬寒気を覚えた。何だ?
「それは、近くにいたからだ」
「11時過ぎに電話してくるなんて、初めてじゃないですか」
室井は黙り込む。室井が危惧したとおり、妙に勘のよい青島は、ずばりと確信をついてきた。
「本当は、すみれさんが心配で電話してきたんじゃないですか」
室井は動揺し、青島の顔を見た。青島は平坦な表情で前を見ていた。
「な」
「室井さん、うそつけないんだから」
グラスの氷が溶けて音を立てた。青島はグラスを持ち上げる。
室井は、展開についていけず動揺し、自分を落ち着かせるために一呼吸おいた。
「何をいうんだ」
「だって、おかしいですよ。律儀でお堅い室井さんが、終電すぎるとわかってて俺を呼び出し、いいだすことはすみれさんの話。そういや、あの時、本部放り出してすみれさんのところに駆けつけてきましたよね。しかも、一人で」
「心配だったからだっ」
「電話で大丈夫だって報告したのに?」
「それでもっ」
室井の反応は過剰だった。声の調子に普段の余裕がない。冷静で理知的な管理官も、ことこういった話になると恐ろしく頑なだった。
まぁ、たしかに。
青島はつまみのオリーブを噛みながら思った。
室井さんみたいな、状況が困難であればあるほど底力を発揮する人は、普通の女性じゃ物足りないのかも知れないなぁ。すみれさん、室井さんに真っ向からぶつかってたし、よく嫌味も言ってたし、確かにインパクトは強かったはずだ。何だかんだと気にかけていたところで、一緒に食事にでも行って、いつもと違う柔らかな面を見せられたら、これは来るかも知れないねぇ。しっかし、この頑なさ。今まで彼女いなかったわけじゃあるまいし・・・。
そこまで考えたところで青島ははっとした。室井さん、ここ数年彼女いないんじゃないか?
警察官キャリア組の中、東大卒ではないハンデを背負いながらひたむきに戦ってきた室井である。休みもそこそこに捜査を何本も抱える日常・・・、しかも、自分から進んで相手を見つけるタイプにも見えない。そんな暇があったら仕事をするタイプだ。(ってことは、室井さん今38歳だっけ?えーっと大学出てから16年か。それでまさかその間、女っ気なし??でも、この人だったらありうるかも・・)。
「何だ」
急に珍獣でも見るような目つきで、自分に目を向けてきた青島に室井はいぶかしげに声をかけた。
「いえ、別に」
青島の頭の中で、自分についてのいくつかのろくでもない仮説が立てられているとも知らず、室井は生真面目に酒を口にはこぶ。
「室井さん、オレ達のことなんか心配してないで、自分はどうなんですか?」
室井は日本酒を口につけた。
「新城さんが結婚される話は聞きましたけれど、室井さんのそんな話はぜんぜん聞こえてこないし。お付き合いしている人とかいないんですか?」
「特にいない」
「じゃあ、気になってる人もいないんですか?」
室井は答えに窮した。
ここで、何もかも青島に打ち明けてこいつを抱き込んでしまった方がいいのか?
青島は、室井の答えを待たずに、あ、そういや今日、すみれさんにもこの質問したなぁ、といった。
「そしたらすみれさん、気になってる人がいるっていうんですよね。でもだめなのって。相手がどこの誰で、何でだめなのかつめようと思ってたのに、聞きそびれたんですよねー」
「その話は聞いた。自分にとっては遠い人だからだめなんだそうだ」
「聞いたって、すみれさんに?勇気ありますねー。遠いって、海外在住とか?」
「いや、あの言い方だと立場とかそういう・・・」
そこまで言って、室井は黙り込んだ。彼女のたったそれだけの言葉で、自分の中に甘い期待感が膨れてくるのを感じたせいだ。馬鹿な、と自嘲気味に笑う。
「それって、警察の人なんすかね」
「そこまでは聞いていない」
ふーん、と青島はウォッカのロックを飲み込んだ。
「室井さん、好きな人いないんですか?」
暫し間が空いた。
「気になっている人が、いる」
「どんな人ですか」
青島は溢れる好奇心を注意深く押さえ込んでさりげなく聞いた。事情聴取の基本、もの欲しそうにしないこと。あくまで自然に、相手がこちらの知りたいことをしゃべるように仕向けること。
「そうだな、気が強い」
うん、うん。ビンゴ。
青島はにやけそうになる頬を引き締める。室井のことだ。一度へそを曲げたら、二度と口を開かなくなるに違いない。
「しかし、40近い男がこんな話をしているのもどうだかな。向こうはまだ若い。オレでなくてもいくらでも相手はいる。しかも、お互い接点が少ない」
「でも、好きなんでしょう」
室井は苦しそうな顔をした。一度自覚してしまうと、こういった感情はどんどん膨れ上がってくる。酒を飲むと特にそうだ。それまで、押さえ込んでいた感情が急に色めきだって来る。
そうだ。彼女のことを、いつも気にかけていた。だが、立場の違いから、本当に伝えたいことは一度も伝えられなかった。その挙句・・・。
「オレには、そんな資格がないんだ」
「室井さん」
青島が驚いた顔でこちらを見る。
「すまない、つまらない話につきあわせてしまった」
「ちょっと、室井さん」
「何だ」
切り上げようとする室井に、真剣な青島の顔が迫った。
「オレ、そんな逃げ方する室井さん、見たくないです」
「な、」
「でも、その程度の想いなら、相手には邪魔なだけかも知れないっすね」
「お前、酒癖悪いぞ」
室井は青島の目に狂気を感じながら諌める。
「悪かったですね。でも、好きなら根性入れてかかんないと、そんな最初っから逃げ腰じゃあ」
そこで青島は、急に力を抜いた。
「室井さんの好きな相手って、もしかしてすみれさん?」
『誰が恩田刑事だと言った』、というセリフは出てこなかった。今の青島に言い逃れは通用しそうになかった。逃げるようなことでも言おうものなら、彼とは二度と話せなくなりそうだった。
「この期に及んで、無難な答えするようなら、軽蔑しますね、オレ」
その室井に、青島が遠慮なく言う。室井は何度か呼吸を整えた。
「青島」
「あ、いいですよ。オレには何も言わないで。でも、もし大事にしてるものがあるなら、手遅れになる前に行動すべきだと思いますよ?」
そう言った青島の目からは、先ほどの強い光が消えていた。
プレッシャーから開放された途端、言ってしまおう、と決めた。こいつは取り調べを相当数踏んでるに違いない、と思った。信じていた通り、彼は優秀な刑事なのだ。こんなときにそれを確認するなんて、皮肉なもんだ。
「そうだ。お前のいうとおりだ」
室井は認めた。そして静かな声で続けた。
「恩田刑事が好きだ」
その言葉を聞いた途端、青島はぞくっとした。室井さんって、こんなに色気ある人だったっけ?
思いつめた末に発せられた言葉に秘められた覚悟は、第三者である青島をも震えさせるほどの迫力を持っていた。
煙草を取り出しながら、(一本気な人だねぇ)と青島は思った。
「好きなら、止めませんけど。タイプ的に合わないと思いますよ。室井さんは言葉が足りなさそうだし、すみれさんはこういうことに鈍いですし」
「そうか」
「よーっぽど、根性据えて掛からないとうまくいかないでしょうね」
「お前は味方なのか、それとも邪魔したいのか」
「別に。すみれさんに幸せになってほしいだけっす」
「お前は彼女のことを好きなんだと思っていた」
「好きですよ」
「なら、なんで」
「難しいこと、聞かないでくださいよ」
青島はにやりと笑って、煙草に火をつけた。
「お前と話してると調子が狂う」
室井はため息をつく。
「そうですか?オレは室井さんと話すの結構好きですよ?」
「君たちは似ているな」
「オレとすみれさん?」
青島が不思議そうに室井を見る。
ぜんぜん違うと思いますけど、と青島が言う。
「追い込み方が、そっくりだ。喋るつもりのないことまで喋らされてしまう」
室井の苦々しい表情に、青島は必死で笑いを噛み殺した。
オレ、やっぱ室井さんのことすげぇ好きかも。
「声をたてずに笑うな、気持ち悪い」
「すいません。ねぇ、室井さん」
「何だ」
「はやく、上いってくださいね」
店を出るとき、青島は自分の勘定は自分で払うといってきかなかった。
「湾岸署のワイルドキャット、射止めるんでしょ?オレたち、邪魔しないけど簡単には渡しません。根性、見せてもらいますよ?だから、今日は割り勘っす」
別れ際、皺くちゃのレシートを握らされた。声をかけようとすると、あのアーミーコートはすでに人込みに紛れていた。渡されたレシートを見てみると、流れるような書体でこう書かれていた。
「明日16:45〜19:30 ウェスティンホテルB1」
室井は苦笑して、その紙を握り締めた。