気持ちに気づく夜
1
「すみれさん、明日休みだよね」
青島君がコーヒーを片手に席に戻りながら、私に声をかけた。
青島君は左手にコーヒー、右手に紙袋。そのパッケージに私は目を奪われた。
「青島君、タリーズで何買ってきたの?」
「あ、ほら、これはだめだって、だめだってば。これお昼ゴハンのかわりなんだから」
「まー、いいからいいから、あ、シナモンロールだ。って、青島君まだゴハン食べてなかったの?もう四時過ぎてるよ」
「そーなんだよ。暇なくてさぁ。でも、もうカップ麺って気がしなくて、帰りに寄ったコーヒー屋も甘いのしか残ってなくてさ。その中から一番腹持ちしそうな奴買ってきたの。あ、こらこら。手、突っ込まない。突っ込むんじゃありませんよ?あ、あー、すみれさんっひどい」
私は青島君の持つ紙袋に無理やり手を突っ込み、一口分だけコーヒーロールをちぎりとった。青島君は女に甘い。口では抗議しながらも、私が袋に手を突っ込むと、ちぎりやすいように袋の口を少しだけゆるめてくれた。
(誰にでもこれだからねぇ。ここ一番って時に大事なものを取り逃すのよ)。
我ながらひどいと思う真実は胸だけに秘めておいた。
「これ、甘いね」
「うん、疲れた体にしみるよ」
「青島君、コーヒー一口頂戴」
青島君が、大きな紙コップを回してくる。いい香り。
コーヒーをすすっていると、魚住さんが声をかけてきた。
「君達、あいかわらず仲いいねぇ」
青島君が無意味に笑顔を作る。うさんくさい営業スマイルだ。
「二人とも、いい年なんだし、いい加減お互いで手をうっちゃえば?」
あたしと青島君が同時に固まった。先に抗議したのは私のほうだった。
「やーよ、あたし煙草吸う男きらいだもん」
「ひでーな、すみれさん」
「青島君は吸いすぎなの」
「あ、コーヒー返して」
私は紙コップについた口紅の後を親指で拭ってから、コーヒーを返す。ついでに魚住さんに向かって続た。
「でも、社内恋愛なんて無理ですよ。まず、休みが合わないし、四六時中顔つき合わせるからケンカした次の日なんてやりにくくてしょうがないし」
「確かにねぇ。でも同じ組織で働いてるからこそ、互いを尊重できる面もあるんじゃない?なかなかねぇ、外の人間にはわからないんだよ・・・」
そういって魚住さんはさびしそうに机の上の家族写真に目をやった。
(まだ、奥さん帰ってこないの?)
(あの様子じゃあ、まだだわね)
次に青島君に声をかけられたのは、帰ろうとした時だった。
「じゃあ、お先に」
「おつかれさまです」
交通課の女の子達に声をかけ、外に出ようとすると後ろから青島君が追いかけてきた。
「すみれさん、すみれさん」
「どしたの、血相変えて?」
「いやー、忘れてたんだけど。ちょっと、ちょっといい?」
青島君はとまどう私を連れて外に出た。交通課の女の子達は興味しんしんでこちらを見ている。
「あー、外の空気はうまいっ」
湾岸所の前は、夜だというのに人が多い。犯罪者も公務員も全員集合って感じだ。そんな様子を傍目に青島君はごきげんで背伸びをする。
「すみれさん、明日休みだったよね?」
「うん」
「予定とかさぁ、もう決まってる?」
「特に、決めてないけど」
「あのさー、おいしいもの食べられて、高級なお酒が飲めて、それでちょっぴり恩が売れるんだけど一役かってくれない?」
「何よそれ。あぶないバイトみたい」
「いやさぁ、オレの友人がね、取引先のパーティーに出なきゃいけなくなったわけ」
「うん」
「それが、明日なんだけど、その招待状をよくみたらパートナーを同伴、とあったわけ」
「うん」
「ところがさ、オレの友人は彼女はおろか女友達すらいなくて、今朝になってオレに泣きついてきたの」
「うん」
「ところが明日って、平日じゃん?大学時代の女友達とかもみんなあいてないんだよねー。それで、もしよかったらすみれさん頼まれてくれないかな、と思って」
「えぇっ」
「オレ仲良かった奴なんだけどさぁ、世渡り下手なあいつがそんなところで恥かくのかと思うと不憫で不憫で。でも、すみれさんも休日だし、いやだったらいいんだけど・・」
うーん。お互いで手を打つどころか、こんなことを平気で頼んでくるあたり、この人ってデリカシーないわよね。まぁ、その気がないのはお互い様なんだけれど。
「いいわよ、いったげる」
「ほんと?」
嬉しそうな青島君の顔見てたら、なんだか気が抜けてきた。
「そのかわり、安くないわよ」
「わかってるって、でも給料日まで待ってね」
そう言いながら、青島君はその友人とやらに電話しはじめた。
外は少し冷え始めている。明日は何を着て行こう。友達の結婚式で着たVIVIAN TANのドレスがあったな。あれを着て上にはショールを巻いて行こう。
まぁ、もしかしたらいい出会いにつながるかもしれない機会だし。マニキュアもちゃんとして、シックに決めて行こう。青島君の友達なら、年齢的にもあってるもんね。
私はそんなことを考えながら、青島君の横に立っていた。
青島君は段取りを取ると、私に電話を向けた。
「今、言った奴なんだけど、電話かわりたいって」
私は電話を取った。
「恩田です」
電話の先のその人は、こんなことをお願いする非礼を丁寧に詫び、待ち合わせ場所を告げた。
「16時45分にガーデンプレイスですね。わかりました。あ、私の携帯ですが・・・」
私はその人に自分の携帯番号を告げ、挨拶をして電話を切った。
「いい人そうじゃない」
「だろ?」
青島君は煙草を取り出した。
「でもさぁ、すみれさん。ほんとにいいの?」
「いいわよ、困ってるんでしょ?その人」
「ありがたいんだけどさ、すみれさんって本当に彼氏いないの?」
「何よ、急に」
「うーん、じゃあ気になる人は?」
「なんでそんなこと聞いてくるのよ」
「幸せになってほしいからかなぁ」
な、何を言い出すの、この人は急に。
私は突然の彼の言葉におもいっきり動揺した。
「仕事が好きで、充実してて、そんで好きな人に愛されて、ころがっちゃうくらい笑ってるすみれさんとか見たいんだよね、オレ」
他の人に言われてたら(和久さんは別として)、余計なお世話だと笑い飛ばせた。
だけど、青島君が言うってことは、彼は本当にそう思って心配してくれているのだ。
(お互いさぁ、血、見ちゃったしね)。どちらの胸にもそんな言葉が浮かんだような気がした。
遠のく意識の中、泣きそうな顔で必死に声をかけつづけてくれた記憶。こういうのなんていうのかな。あなたとは、すごく深いところで結びついている気がする。
重くなった空気をかき消すように、くすっと彼が笑う。
「ま、余計なお世話だよね。明日、冷えそうだから気をつけてね。あと、食べすぎにも」
「余計なお世話よ」
じゃあ、といって別れを告げてそれぞれ歩き出そうとした時、私は急にたまらなくなって振り向いた。
「青島君」
「ん?」
火をつけない煙草をくわえたまま、青島君が振り向く。
「ほんとは、気になってる人がいるの」
青島君の目はまん丸だ。落ちそう。
「でも、だめなの。だから、いいの」
「な、」
ちょうどその時、課長が出てきた。
「青島君、何やってんの。さっさと戻って仕事して!」
「いや、あの、オレちょっと」
私は笑いながら、課長に連行される青島君に向かって小さく手を降った。
そして署の階段を降りようと振り向いた途端、向こうから私を見つめるまっすぐな視線とぶつかった。
「室井さん」
彼を見るのは久しぶりだった。最後に見たのは、例の馬鹿女の指揮下で、私たちの代わりに『押し入れ』に閉じ込められる姿だった。
その後、指揮を取り戻し、現場を信じた的確な判断で捜査を決行。犯人逮捕に踏み切ったことは後で和久さんから聞かされた。正直、泣けてきた。
逮捕した後、撃たれた私を、本部を放り出して見舞いにきてくれたのも後から聞いた。
私はそのとき、手術後の痛み止めが効いて眠りこけていて、記憶がないのだけれど。目が覚めた時には枕もとに本店からの大きな花束が置いてあった。お礼状を出そうと思ったのだけれど、本店がらみは全て署長が対応してくれていたので、私からは何もしなかったのだ。
「・・今、帰りか」
「はい。室井さんは青島君に会いに?まだ、いますよ」
「あぁ、先ほど中に入って行くのが見えた」
「寒いので、中入ってください」
「いや、彼に会いに来たわけではない」
「え」
「君と話しがしたい」
「え?」
「もちろん、無理強いはしないが」
「何の話?」
「先日の件で」
食事を奢るという室井さんの言葉に、とまどいながらも反射的に私はうなずいた。
だが、いざ並んで駅に向かって歩いていると、次第に緊張してきた。
この人と歩いていると、なんだか連行されてるみたい−。
「あいかわらず、忙しいんですか?」
緊張をほぐしたくて、話し掛けてみた。
「あぁ。変わらず、だ。君のほうは、体の具合はどうだ」
「もう痛まないし、大丈夫よ。刑事だもん」
「それでも、一人の女性には変わりあるまい。よく、現場に戻れたな。男性でも、トラウマがひどくて戻れないケースもある。それくらいの話だった。・・・君は勇気があるんだな」
「・・・そんな大層なものは持ち合わせてないわよ。女30、警察12年。今更、どこ行けってのよ。傷が増えたくらいじゃ、出て行かないわよ」
もちろん口でいうほど、なんでもないわけじゃない。命令無視をした自分にも非があることをわかった上で、なお怒りや恐怖といったマイナーな感情が胸にわだかまることがあった。バランスを取るために、自分が仕事を続けられるように、定期的にカウンセリングは受けていたがそれは口に出さなかった。わざわざいうほどのことでもない。
今までのいきさつがあるせいか、どうも室井さんに対しては素直になれない。むしろ、攻撃的になってしまう。病院で室井さんの活躍を聞いた時は嬉しくて泣いたというのに・・・。沈黙が降りた。
ふと隣を見上げると、整った顔がまっすぐ前を見ていた。台場の辺りは風が強い。室井を見上げるすみれの髪が風に乱れた。
「何と言って詫びればいいのか・・・」
室井が唐突に口を開いた。
「ちょっと、風強いわね」
すみれはそれには答えず、顔から髪の毛を払いのけながら言った。
「恩田君」
室井が立ち止まってすみれを見た。
「髪の毛がぐちゃぐちゃよ。室井さん、そんな薄着で寒くないの?」
「恩田君」
「ねぇ、責任を感じないで」
これだけははっきりと伝えたかった。
「これは室井さん一人で責任を感じることじゃない」
室井は無言のままだ。すみれは続けた。
「だって、あの時、あなた一人であの状況を変えられたと思う?いろんなことが積み重なってああなってしまった。あの馬鹿女が派遣されたのが違う別の事件だったら、別の展開になってたのかも知れない。まぁ、あのやり方じゃ、どっちにしろ現場の恨みは買ったと思うけど。でも、それは今回の事件で、もう事故は起こってしまった。やりなおせるわけじゃない。そりゃ、言いたいことはいっぱいあるわよ。でも、誰も室井さんにそんな暗い顔をして欲しいわけじゃない」
「今回のこと、室井さんがしてくれたこと。みんな感謝してる。正直、私、あの後の室井さんの活躍を後で聞かされて、嬉しくて泣けてきたくらいよ。怪我のことは、事故だった。室井さんがいるから、上に行ってくれるから、だからこんなこともう二度と起きない。でしょ?」
彼の目が今にも泣きそうに見えるのは気のせいだろうか。
「あぁ、約束する。現場に二度と血は流させない」
それが、現実になるかどうかなんてわからない。でも、彼は真剣だ。私は彼を信じる。それが一番大事なんじゃないの?
目の前の室井さんが眩しく映った。どんなに偉くなっても約束忘れないでね。みんなで、現場で応援してるから。
「あと、お礼遅れちゃったけど、お花も、あの時、病院に来てくれたことも、ありがとうございます」
すみれははペコッと頭を下げた。
こうやって目の前にいる室井さんはなんて魅力的なんだろう。
すみれは乱れた髪の毛を払いながら思った。
何年か前に本庁から派遣されてきたときから、この人のやり方はいつだって責任者という自分の立場を考えたもので、だから私も現場の刑事として納得できないときにはぶつかっていった。状況を一人で背負い込み、現場との距離をはかる室井さんの頑なさにいらだちを隠せず、声を荒げたこともある。そんな時、室井さんは感情を見せない目でまっすぐこちらをみつめ、ぶつけられるどんな言葉にも決して逃げなかった。その時は、こちらも必死だったから意識しなかったけれど、本庁のキャリア組にそんな人はほとんどいない。現場の捜査員が声をかけたくらいじゃ、振り向かない人の方が多いだろう。室井さんはいつも何を考えていたんだろう。
きっとこの人はいつだって、仕事に真摯なのだ。彼のなかには、周囲への見栄とか妥協とかが存在しないのだろう。ひたむきに事件解決に打ち込んでいるのだ。
そこまで考えたところで、なんだか寂しさを感じた。
仕事が恋人ってこういう人のことをいうのね、きっと。結婚しないのもそれが理由かしら。もう40近いのに浮いた噂、きかないもんね。女に興味なさそう・・。
すみれはそんな自分の気持ちにとまどい、ごまかすようにくだけた声を出した。
「おなかすいたわ。ねぇ、何おごってくれるの?」
「君の好きなものを」
「和食のいい店があるんだけど」
「私も、和食は好きだ。いい店があるなら教えてくれ」
「室井さんは、普段どんなお店に行くの?」
「あまり、外では食べないな。仕事がらみは別だが」
「デートとか、しないの」
一瞬、間が空く。
「しない」
「まさか、彼女いないの?もう、いい年なのに」
ぶしつけなのは承知の上で突っ込んだ質問を投げてみる。
「特別な人はいない。君は一言多いんだ」
「なによ、本当のことじゃない」
「だから余計に悪い」
「心配して聞いたのに」
室井は軽くため息をつく。すみれがさらに突っ込む。
「独身長いと、組織の中で不利じゃないの」
「・・・っどに」
かすかに御国訛りが出た。
「あ、前にもこういうのあったわね」
「ん?」
「べらべら喋るな、そんな女は嫌いだっていわれたのよね」
「誰に」
「室井さんに。雪乃さんの取調べの時に」
室井は立ち止まって、眉間のシワを揉み始めた。目を瞑って、苦々しい表情をしている。
「怒った?室井さん。ごはん奢る気、無くしたとか?」
言い過ぎたかな、と思ってすみれは聞いた。
「すまなかった」
「え?」
「あれはすまなかった。謝る」
謝られるとは思わなかった。お互い、何ともいえない雰囲気になり、また黙って歩き出した。
「あのビルの中よ」
「あぁ」
すみれは以前にもその店に来たことがあった。学生時代の友人とちょっと贅沢をしよう、ということになり選んだ店だった。夜景がきれいで料理が美味しく、良い酒が置いてある。飲みすぎなければ、それほど値も張らない。女同士、都心の夜景を眺めながら、次は彼氏と来たいね、男の奢りで来たい店だねと囁きあったものだ。署内のだれかに奢らせようと企んでいたのだが、忙しくて忘れていた。
「感じの良い店だな」
「でしょ。お酒も良いのが置いてあるのよ。室井さんは飲むほう?」
「それほどでもないな。恩田君はどうなんだ」
「あたしもそれほどでも。どちらかといえば食べるほうかな」
室井さん、お酒強そうよね、といいながらすみれはメニューを熱心に眺めた。
「気にせず、好きなものを頼んでくれ」
「室井さんは何が好き?」
「そうだな、季節のものがあればそれで」
じゃあ、とすみれはオーダーを通した。すぐにビールが運ばれてきて、二人は乾杯した。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
生真面目に二人で挨拶し、冷たいグラスに口をつける。一息ついたところですみれが言った。
「ねぇ、今日どうしてこっちに来たの?」
「君にきちんと詫びたかった。むしろ遅すぎたくらいだ」
「ねぇ、ほんとに気にしないで。私も命令無視して飛び出したわけだし。状況が状況だったしね」
「さっき、君が湾岸署の前で青島に言っていたことだが」
「え?」
室井は少しためらってから言った。
「その、『だめなの』とはどういう意味なんだ」
すみれは、驚いて室井を見つめた。
室井はすみれが青島に言った『気になっている人がいる、だけどだめなの』、これを聞いていたのだ。
この人本気で私の怪我に責任感じてるんだ。そこにこのセリフを聞いて、それが傷のせいだとしたら・・・、なんてくそまじめに思ってるんだ。
「それは怪我とはなんの関係もない」
思ったより強い口調で言ってしまった。
「そうだな、君が選ぶ男なら・・・」
室井は何かを言おうとして、そこで止めてしまった。
少し考え込んでいるようだ。
ちょうど、料理が運ばれて来る。
季節の刺身盛り合わせ。煮物。揚げ物。
「これ、ビールより日本酒のほうがいいわね」
ルイベをつまみながら、すみれがいう。
「そうだな」
「室井さん、私日本酒わからないの。料理に合うの選んでくれない?」
すみれが柔らかな声で室井に頼んだ。この人とこんな風に食事するなんて、この先ありえないだろうし、甘えられるところは甘えてしまえ。おいしい食事って不思議よね。料理が目の前になければ、この人にこんな声出すこともないもんね。すみれは感慨深く思った。
室井は店員をつかまえて、東北の銘柄を二つ冷酒でオーダーした。
「どちらも、あたりがやわらかく香りも穏やかだ。飯時にはちょうど良い。気に入るといいんだが」
「ねぇ、さっき何を言おうとしたの?」
「その最後の一切れ喰わんのか?」
「もらっていい?で、何を言おうとしたの」
「君は青島と付き合ってたんじゃないのか?」
すみれの動きがぴたっと止まる。
「室井さんまでそんなこといわないでよ」
酒が運ばれてくる。
すみれが自然な仕草で、室井に酌をした。室井もすみれの杯に注いでやる。
「おいしい」
「よかった」
「青島君とはそんなんじゃないわよ。年も近いし、現場仲間だから、そりゃいろんなこと話すし飲みにもいくし、仮眠を同じ場所で一緒に取ることだってあるけど、そんな色っぽい話にはならないわ。だから、長く一緒に働けるのよ」
「そんなものか」
「そうよ。だって、今日だって」
すみれは思い出したように、青島の友人のパーティーに付き合うことになった顛末を話した。
「何だ、それは」
室井はあきれて、杯を運ぶ手も止めてしまった。
「でしょう?」
「君はそれでいいのか?」
やや非難がましい室井の声に、むっとしてすみれが顔を上げた。
「そりゃ、私だって相手がいればそんなことしてないわよ。でも、たまの休みにデートするでもなく予定だってなければ、まぁ青島君の頼みだし、断る理由もなかったのよ」
「でも、その男がまともかどうかなんてどうしてわかるんだ」
「青島君の友人だもの。それにデートするわけじゃないのよ?お仕事に付き合うだけよ」
室井はあきらかに不機嫌そうに黙ってしまった。
気まずい雰囲気に、すみれは息苦しくなった。あー、あたしってほんと、会話下手。うまく相手に合わせられないのよ。まじめな室井さんにこんな話をすればいい顔しないってわかっているのに。
暫くして室井は口を開いた。
「・・すまない、心配だったんだ」
「ううん。心配してくれてありがとう」
支店の刑事まで心配する人柄、優しいね、室井さん。前はこの人のことを絶対にそう思えなかったけど。
室井がまた少しためらった後、口を開いた。
「立ち入ったことを聞く気はないのだが、その、君の好きな男とはどんな男なんだ」
「どうしたの?急に」
「いや、君のような女性はどんな男が好きなのかと」
「あたしのようなって?」
「そうだな、君は華奢で綺麗だが、あまり恋愛のイメージがない」
青島君も、室井さんも!警察の男って、どうしてこうデリカシーないのよっ。
「ひどい、何よそれ」
「君は優秀だし、気も強い。大抵の男がつまらなく映るんじゃないかと思う」
「そんなに気は強くないわ。優秀っていわれるのは嬉しいけれど」
室井は黙って杯を空けた。もう少し、飲みたいと思い次の酒を注文した。
女性と二人で食事をするなんて、一体いつ以来だろうか。室井は自分が詫びるために呼び出した相手を前に不謹慎に考えた。
多分、いつだったか上司の勧めで受けた見合い以来だ。そのときの相手の顔はもう忘れてしまっていた。いや、その後に一倉が奥方の友人とやらを紹介してくれたことがあったな。あの席も苦痛だった。えらく印象の薄い相手の女とは何を話しても会話が噛みあわず、結局、一倉が一人で場を仕切っていた。性欲を解消するためだけなら、どんな女でも抱けるが、仕事で凝り固まった頭では女遊びをする気力もわいてこない。我ながら、自分の私生活のお粗末さには苦笑する。
そう、今日の相手もまた仕事絡みだった。
(仕事絡み)、ふっと笑いそうになる。自分の気持ちを押さえ込み、何年も見つめてきた女性を(仕事絡み)としか呼べない自分の無様さは笑うほかない。堪えきれない思いが空回りする夜、こんな思いを続けるぐらいなら、いっそ手荒く抱きしめてしまえ・・・、と何度夢想しただろう。だが、なけなしの理性がいつも室井を押しとどめた。
いつも青島とじゃれあい、肩を並べ懸命に働く君はそれなりに幸せなのだろう。同僚として、また男として君と共に生きる青島に比べ、自分は・・。立場に責任を持つために、何度も彼女を苦しめることになった。いまさら、どの面下げて気持ちを伝えろというのだ。立場上、苦しめるのは仕方がないことだ。だが、俺自身はいつも君のことを想っている−?そんな都合のよい話、誰が聞くというのだ。
しかし、あの後。
実務経験の浅い新人に指揮を預けたまま、現場を離れた自分をどれだけ責めただろう。何度も何度も繰り返し、あの事件のことが鮮明に思い出されて眠れない日が続いた。彼女と今まで交わした会話や、見かけた姿、笑い顔、怒った姿、そして撃たれた姿が思い出され、気が狂いそうになった。自覚していた以上に、自分が恩田すみれを意識していたことに、その時に気づいた。
目の前の彼女は、こちらのそんな気持ちを知ることもなく、箸を動かしている。よく自分の誘いを(いくら仕事上とはいえ)受けてくれたものだ。
『湾岸署のワイルドキャット』。そのあだ名を聞いたときにはうまいあだ名だと思った。室井が思い返す彼女は、常に自分に向かってはっきりと現場の意見をぶつけてくる力強い姿だった。綺麗な黒髪が攻撃的に揺れていた。
私、そんなに恋する女のイメージがないのかなぁ、とすみれがつぶやいた。
「好きな人っていうか、気になる人ね」
さきほどの室井の質問に答える気になったようだ。
「その人は仕事が出来るの。すごいの。あと、意思が強くて頑固かなぁ、いまどきあまりいないタイプね」
「古風なタイプだな。どうして、その人がだめなんだ」
「難しい質問ね。それはね、その人に奥さんと子供がいるからよ」
「・・そうか」
どう答えて良いかわからずに室井はそう答えた。彼女の年頃なら、想う相手がそうであってもおかしくない。
「なんて、うそです。でもそれくらい私とは遠い人なの」
そういって、すみれはまた箸を動かした。
「遠いとはどういうことだ」
その時、室井が頼んだ日本酒が運ばれて来た。
「私も飲んでいい?」
「あぁ」
「ねぇ、室井さんはどんな人が好きなの?」
室井の質問には答えずに、逆にすみれがたずねる。
「あぁ、そうだな。一緒にいてくつろげる人だな。どうも私はくつろぐのが下手なんだ」
柔らかく無難に答えておく。本心を告げたら、彼女はどんな顔をするのだろう。あきれて席を立つのだろうか。それとも、笑い流して食事を続けるのだろうか。
「今はどう?」
「ん?」
「くつろいでる?」
「そうだな、君といると」
そこまでいって室井は口を閉じた。『君といると不思議とくつろげる』、そう言おうとしたのだ。そんな風に言ってしまったら、歯止めなく言葉が溢れてしまいそうだ。軽く目を瞑る。
すみれはそんな室井を気にする様子もなく、のんびりと酒を飲んでいる。少し、頬が赤い。それほど酒に強くはないのだろう。室井もまた、少し酔っているのかも知れない。
時間は過ぎ、二人が食事を終え外に出た。風はあいかわらず吹き抜けて、夜が更けた分さらに冷えていた。
「さむー」
「冷えるな、今日は」
「風が冷たいのよ」
「恩田君、反対側を歩け。私の横に。その方が風に当たらない」
「室井さん、優しい」
「当たり前だ」
「室井さん、今日はありがとう」
「こちらこそ、急に呼びたててすまなかった」
「おいしかったし、楽しかったわ」
「よかった」
「私、こんな風に室井さんと食事できるなんて思わなかった」
「いつでも」
「え」
「いつでも、声をかけてくれれば飯ぐらい奢ろう」
「うそ」
「嘘なんかつくか」
「何で?そんなに事件のときのこと気にしてるの?」
室井はため息をついた。
「それだけでもない」
すみれがその言葉を考えている間に、室井は運良く通りかかったタクシーを止めた。
「私は電車で帰る。恩田君、今日は付き合ってくれてありがとう」
後部座席に彼女を入れ、タクシーチケットを握らせる。
「あ、待って」
車を離れようとする室井をすみれが呼び止めた。
「ねぇ、ほんとにまた奢ってくれるのかしら?」
室井は苦笑する。
「あぁ。時間さえあえば」
「じゃあ、連絡先を教えて」
「君のも教えてもらえるか」
二人は互いの携帯番号とメールアドレスを交換した。車が走り出そうとした時、今度は室井がすみれを呼び止めた。
「明日だが、場所は恵比寿だといっていたな」
「青島君の友達の件?」
「私は目黒で仕事をしている。困ったことがあったら、気にせず連絡してくれ」
すみれは笑った。
「ありがとう。心配してくれて嬉しいわ」
「なんだか心配だ」
「そう?確かに、私もこれ以上傷が増えるのはごめんだわ」
「それは私もごめんだ。だが、傷を乗り越えて働いてる君が愛しい」
室井の突然の言葉にすみれが言葉を失っている間に、室井は運転手に車を出すように指示し、自分は駅に向かって歩き出した。
「・・・言い逃げされた」
すみれは走り出したタクシーの中で暫く呆然としていたが、ようやく自分を取り戻すとそうつぶやいた。
すぐに、教えてもらったばかりの番号に電話をかけたが、彼の携帯は通話中だった。仕事の電話でも入ったのかも知れない。
明日、目黒にいるっていってたよね。パーティーが終わったら、電話してみようかな。
でも、室井さんのことだから、さっきは素直に自分の気持ちを言っただけで(頑張る部下は可愛い位の気持ちで)、別に告白とかではないのかも。
目を閉じたすみれの耳に、カーラジオから古いラブソングが流れてきた。その歌詞は「遠い人」を想うすみれの気持ちをうまくついていて、いつまでも耳に残った。
