『それは遠い日の花火ではない』


六本木駅から少し歩いたところにある路地裏のビル。地下にあるそのバーは、看板も小さく目立たない構えだった。静かで、良い酒がおいてある。つまみが上等で、明け方近くまで営業している。
そのスツールに中年の男が二人、並んで腰掛けていた。

その日、一倉が室井に声をかけてきたのは夜10時を過ぎたところだった。
室井、今晩付き合え。ここ暫くお前と話をしていないしな。数少ない友人は大事にしたほうがいいぞ。どうせお前のことだ。帰っても誰が待っているわけでもあるまい。
何だ、珍しい。仕事が切り上げられるのなら家に帰らなくていいのか?と室井が聞くと一倉はいいんだといった。彼が愛して止まない奥方は、家族の手伝いで実家に里帰りしているらしい。
あと1時間待て。それでもいいなら付き合おう、と室井は言った。ふん、日付が変わる寸前だな。店の選択はお前にまかせたぞ、と言い一倉は自分の持ち場に戻っていった。
その時間から飲むとなると、室井の知る店は限られていた。


二人がその店についたのは夜11時半頃だった。
「雰囲気の良い店だな」
と、一倉がメニューを眺めながらいう。

室井はそれには答えず、ウイスキーのお湯割をオーダーした。
「あぁ、私も同じ物がいい」
一倉がいう。
一倉は室井が気に入っている。この無骨で不器用な男が警察の中で戦っている姿を見ると、無性に嬉しくなってくるのだ。だから、時々はこうやってかまわずにいられない。一倉のかまい方は、言葉だけを聞くと乱暴なことこの上なかったが、兄のような愛情が底にあった。生真面目で柔軟性を欠く性格の室井もなぜか一倉に対しては本気で苛立ちを感じることはなかった。
「この店は誰かに教えてもらったのか」
「あぁ、何年も前にな」

「ほう。女か」
「そうだ」
「その話はきいてないぞ」
「話すほどのことでもない」
あれは何年前だったか。
「聞かせろ。酒の肴だ」
「通訳をやってる女だった。国際組織がらみの殺人事件を担当したときに、外部から派遣されてきた。事件が終わった後、向こうから声をかけてきて、何度か飯を一緒に食った。その女がこの店を知っていた」
「ほう」
「暫く付き合った。だが、すぐに向こうから離れて行った。最後にかかってきた電話は空港からだった。向こうで仕事を見つけた。仕事が続けられる限り帰るつもりはない、とな」

「向こうって」
「ドイツだ。義兄の会社で通訳として働くといっていた」
「それで終わりか」
「あぁ」
一倉はつまらなさそうにうなずいた。
室井はその女との記憶に思いをめぐらせた。
もともと深入りするつもりの女ではなかった。今思えば苦笑する他ないのだが、当時の室井は結婚も仕事の内だと考えて、出世に有利に働くような縁組意外は考えていなかった。それも努力の形だと思っていた。そういう意味で言うとその女は対象外だった。
だが、若い体は温もりを求める。
別れるのはいつでも可能だ。そう思い女の誘いを受けた。
女は多くを求めなかった。月に一度か二度、連絡を取り合い、飯を食う。夜を共に過ごし、朝になればお互いそれぞれの生活に戻っていく。それだけの付き合いだった。

最後の電話がかかってきた時、室井は車の後部座席で資料に目を通していた。
『今、空港よ。これからドイツに行く。もう帰らないと思う』
そう彼女は言った。最初は何の話かわからず「なんだ、観光か」と答えた。
「仕事よ。姉の旦那の会社があるの。通訳が必要なの。海外生活、面倒だから好きじゃないんだけど、身内の頼みだから断れなくて」
「・・・」
「もしもし、室井さん?」
「あぁ、急な話だから驚いた」
「急でもないわよ。半年前から声かけられてたの」
「そうだったのか」
「室井さん、私のこと何も聞かないから、特に言わなかったの。もう少し、日本にいたかったけれど、向こうがしびれきらしてきたから、行くわ」
「あぁ」
どう答えていいかわからず、室井はうなずいた。
「お元気で」
電話が切れた。
女をいいように扱いながら、時々は気にしていた『別れ際、もつれたら面倒だ』という考えがまったくの肩透かしで終わったことに安堵した。携帯電話をポケットにしまうと、バックミラー越しに室井の表情を覗き見る部下の視線を無視し、資料の続きを読み始めたのだ。


一倉が物思いに耽る室井を横目で見ながら口を開いた。
「お前、最後に女と付き合ったのはいつだ」
「・・・忘れた」
「独身は出世に響く。それをわかった上でなぜ独りでいるんだ?」
「相手に恵まれなかった。それだけだ」
「ふざけるな。見合いの数は結構な数振られてるくせに」
室井は答えずに酒を飲む。
室井は、同期の中でもその手の引き合いが一際多い。東大卒でないというハンディを背負いながらも、その能力から組織内での評価が高いためだ。
はやく身を固めろという組織内での圧力は相当なものだった。
「恋は」
ふいに一倉がいう。
「遠い日の花火ではない。このウイスキーのコピーだ。はやっただろ」
楽しそうに彼は続ける。
「お前のことだ。見合いで適当な相手とうまく付き合うなんてできまい。お前は、根がロマンチストだからな」
「何をいう」
「そうだろう。だから、恋をしてない相手とはうまくいかないんだ、お前は。今まで長く続いた相手でどのくらいだ?せいぜい1年がいいところなんじゃないのか?」
図星だった。どんな女とも、長く付き合ったためしがなかった。仕事が忙しいせいだと片付けていたが、その実は自分にとってどうでも良い相手とばかり付き合っていたからなのかも知れない。一倉はそれを指摘したのだ。
(だが、いまはそんな相手もいないがな)。
何がきっかけだったか、自分は恋をした。それ以来、その女以外のどんな女も目に入らない。かといって、その想いを打ち明けるでもなく時間だけが過ぎていた。この長い片思いは、それこそ自分がロマンチストだという証なのだろうか。そんなものくそくらえだ。感情がふいに高ぶる。

「根がロマンチストなのはオレも同じだ」
一倉は相変わらず楽しそうだ。
「朝、目を覚まし妻の顔を見る。この女でよかったと思う。夜、帰ってきて彼女の顔を見る。その度におれは人生に感謝する」
室井はテーブルに肘をつき、組んだ両手に顎を乗せ目を瞑る。誰かこの男を止めてくれ。
「静かだな」
「あけっぴろげなお前の言葉に呆れてるんだ」
「ところで室井」
「ん?」
「その女はどんな女なんだ」
室井は瞑っていた目を開ける。
「さっき話したとおりだが」
「違う。その女のことじゃない。今、お前が好きな女のことだ」
「な」
「当てて見せようか」
一倉が意地悪そうに笑う。
「あれだろ、湾岸署のワイルドキャット」

沈黙が流れた。
「お前は目が正直すぎる。気をつけたほうがいい」
「・・・そんなにあからさまだったか」
感情を押し殺す術は身に付けたつもりでいたが。
「ふん。熱に浮かれた学生の目だな、あれは。どうせ相手には何も告げてないんだろう。湾岸署の親友に遠慮して黙っているってとこか」
一倉が遠慮なくついてくる。
青島と恩田が付き合っているという噂は一倉も聞いていた。その青島を、室井はまわりに何と言われようが一貫して評価しつづけている。
「言えるか。この立場で。おまけに相手は私を心底嫌っている」
「そうなのか」
「この前、処分を下した。あれ以来、私が湾岸署に行くとすごい視線を投げつけてくる」
「さすが野良猫」
「そういうな」
「つらい立場だな」
室井は黙ってグラスを傾ける。
「笑うか」
「いや。どうするんだ、これから」
一倉は楽しそうだ。ふいに、室井は胸の内のなにもかもを今ここで吐露したい衝動にかられた。
しかし、彼女は傍にいない。
想いが激しく、胸が苦しい。考えると、眉間の皺がさらに深くなる。
そんな室井に一倉が続ける。
「本店の意地、見せないのか」

そう。恋は遠い日の花火ではないのだ。
こんなに間近で、その衝動は大きすぎて胸には収めきれない。
けしかけんでくれ、一倉。苦しいんだ。
このままでは、オレは何をしでかすかわからん。

だが、室井は結局何もいわないままだった。
気持ちにブレーキをかけたまま、また日常がはじまる・・。



この不器用な男が、相手の女と向き合うのは、ずっと先のことである。