13
どんな時でも夜が明ければ朝が来る。
それは変わらない現実だ。
僚は香の眠る部屋で、不安そうに椅子に座っていた。
昨夜の和斗の言葉が確かならば、目が覚めたと同時に香は元に戻っているはずである。
このまま逃げ出したい衝動に駆られながらも、何とか身体を椅子に縛り付ける。
すると、微かに香が反応を示した。
その様子に、驚いて僚が香の顔を覗き込む。まるでそのタイミングが分かっていたかのように、香の目が開いた。
起きぬけでボンヤリと焦点の合わない様子だったが、僚の顔を認識すると微かに呟いた。
「僚・・・」
その言葉に、僚は目を見開いた。
確かに今、香は自分の名を呼んだ。冴羽さんではなく僚と・・・
「お前・・・」
驚いて腰を浮かした僚に、香が問いかける。
「ここ、どこ?」
あまりといえばあまりな・・・香らしいといえばらしい問いかけに、僚は脱力しきって椅子に座ると片手で顔を覆った。
「僚?」
心配そうな香の呼びかけに、僚は微かに笑いだした。やがてその笑い声は大きくなり、馬鹿笑いといってもいいくらいになる。
唖然として自分を見ているであろう香の姿が容易に想像出来るが、自分でもこの笑いを止めることは不可能だった。
その声に驚いて、教授達が駆けつけてきた。
が、扉を開けた瞬間の異様な部屋の雰囲気に誰もが立ち止まる。
緊張の糸が切れて笑い続ける僚と、そんな彼をどうしていいか分からずにおろおろとしている香。
「僚?」
教授が心配そうに名を呼ぶ。すると、ぴたりと僚の笑い声が止まった。
「ふざけるな!!」
部屋中に僚の怒りと怒鳴り声が響く。
誰もが反射的に首を竦めた。
「俺がどれだけ心配したと思っているんだ・・・」
「ごめん・・・」
うなだれる香を、僚がそっと抱きしめた。
「二度とごめんだ。こんなこと・・・」
「うん。・・・ごめん・・・ごめんなさい・・・僚」
香の言葉に、周りが驚いた。
「え!?今、香さん僚って・・・」
かずえの驚きに、美樹が慌てて聞いた。
「記憶が戻ったのね!香さん!!」
美樹の問いかけに、香は微笑んで頷いた。
「よかった・・・皆、どれだけ心配したか・・・」
「あ!あたし、皆さんに連絡してきます」
かすみの言葉に皆頷くと、入ってきた時と同じ勢いでまた部屋を出て行った。
そんな皆の様子を見て、香がぽつりと言った。
「逃げたくなってきた・・・」
ここが何処なのかようやく理解した。そして、自分が考えていたよりも大事になっている事実に、香はげんなりとする。
「俺も・・・」
僚も、らしくない自分の様子を見られた事に、今更ながら恥ずかしくなって呟いた。
「・・・後々の為に、甘んじて受けた方がお主らのためじゃと思うが」
その言葉に、僚と香は驚いて身体を離すと振り向いた。
『・・・教授、いたんですね・・・』
二人の呟きに、教授は苦笑して答えた。
「さすがに、あのテンションは老体にはきつい」
そう言うと、教授は部屋の中央にある僚が座っていた椅子に腰掛けた。
「さてと、香くん。話してくれんかの。こんな事をした理由を」
教授の言葉に言いよどむ香を、僚が優しく促した。
しかし、心配そうにドアを見ている香の様子に、僚は不思議そうな表情を浮かべる。
「心配せんでも、連中なら暫くは帰ってこんよ」
ハッとして香が教授を見た。
全てを包み込むような優しい目をして、自分を見ている。
きっと、教授には自分の心情などとっくに分かっているのだろう。
「何かしましたね」
僚が呆れて教授を見た。
「なに、わしの家の電話が故障中なだけじゃ」
教授の言葉に、僚が苦笑する。
「復旧には当分かかるわ」
言外に暫くは自分たちだけだという事を含ませた教授の言葉に香は安堵のため息を吐いた。教授の機転というか気遣いに感謝しつつ、香は口を開く。
「きっかけは、本当に些細な事だったんです・・・」
異変に気付いたのは、本当に何気ない事からだった。
何時ものように朝食の用意をしようとした時、コーヒーの匂いに急に吐き気がしたのだ。その時は深くは考えず、体調が悪いだけだと思った。
風邪気味だと思っていた矢先だったため、香は体調には気を使っていたからだ。
これ以上酷くならないうちに治そうと、病院に薬をもらいに行くことにした。が、そこで気付く。
(下手に病院に行けば変な噂が流れるわね・・・)
香はそこで向かいの家に行こうかとも考えたが、先日栄養剤だといって試験薬を飲ませられたのを思い出した。また怪しげな薬を飲まされてはたまらない。
そこで、ふとある人物を思い出して、香は受話器を手に取った。
暗記されている、自分にとっては兄代わりの人物の家に電話をかける。
今からたずねてもいい了承を得ると、香は僚に断り家を後にした。
「ごめんなさい、朝早くに」
香の朝早い訪問にも、寛弥は嫌な顔一つせず微笑んで迎え入れた。
「かーり?」
そう言って寄ってきた子供を、香は嬉しそうに抱き上げた。
「おはよう、慧君」
「かおり!」
ついで勢いよく足元に抱きついてきた子供を、寛弥がたしなめる。
「危ないでしょ、信」
母親に怒られて不安そうな表情を浮かべる信を安心させるかのように、微笑んだ。
「おはよう、信君」
慧をおろすと、香は目線を信に合わせるようにしゃがみこんだ。
「おはよー」
そう言って頭を下げる信を優しくなでる。
「はい、よくできました」
「信、慧。いらっしゃい」
母親の呼ぶ声に、二人は嬉しそうに駆け出していった。
「元気ね、男の子って」
リビングで二人仲良く遊んでいる様子を見ながら、香が寛弥に言った。
「元気っていうか・・・毎日戦争よ」
寛弥は苦笑すると、香に椅子を勧めた。
「・・・なるほど・・・」
腰掛けながらしみじみと呟く香を、寛弥が不思議そうに見る。
「あぁ、冴子さんも同じこと言っていたから」
納得した様子の寛弥に香も肩を竦めた。
男の子なんて、何処も同じである。
「そういえば、和兄は?」
「なんか、立て込んでいるみたいでね。お隣さんと一緒に泊り込み」
そういって、寛弥は静かな隣の家を指差した。
一年前に隣に越してきた人物は、寛弥の弟であり和斗が自身の仕事の補佐の為にアメリカから呼び寄せた人物だった。
「・・・色々、大変そうですね・・・」
「ごめんなさいね」
寛弥の突然の謝罪に、香は不思議そうな顔をした。
誤るのなら、こんな時期に訪ねてきた自分の方である。
「和斗に用事だったんでしょ?」
その言葉に、香は慌てて手を振った。
そういえば、朝早くか夜遅くの訪問は必ずといっていいほどこの夫妻に泣きついている事が多かった。改めて、いかに自分達がこの夫婦に迷惑をかけているかを理解し、心の中で深く反省する。
「風邪気味だったから、風邪薬を処方してもらおうかと思って・・・」
「あぁ、そうだったの」
寛弥は、手近にあるメモ用紙を手繰り寄せる。
「症状は?」
「吐き気が・・・コーヒーの匂いを嗅いだら急にね」
香の返答をメモ用紙に記す。
「吐き気の他には?」
「これといってとくには・・・」
「のどが痛いとか、熱っぽいとか・・・」
「のどはべつに痛くはないけど・・・言われてみれば、ここ最近熱っぽいかな・・・」
香の言葉に、寛弥の手が止まる。
「ねぇ、香さん。気持ち悪くなったのって、コーヒーの匂いだけ?」
「うん・・・」
不思議そうな表情を浮かべて、香は寛弥を見る。
「市販の風邪薬飲んでないわよね?」
何でそんな事を聞かれるのか疑問に思いつつも、素直に答える。
「あたし、薬ってどうも苦手で・・・ぎりぎりまで飲まない方だから・・・それでよく兄貴や和兄に叱られたものよ」
その言葉に、寛弥はホッとため息を吐いた。
「そう。よかった・・・」
何故、薬を飲まなかった事がよかったのか・・・
わけが分からないといった様子の香を見て、寛弥は医者の顔で言う。
「香さん・・・あれ・・・来てる?」
「あれ?」
寛弥の言葉がわからないのか、香は考え込んだ。
が、暫くして寛弥の言っている事が理解できたのか、見る見る青ざめていく。
「わかった。来てないのね」
香の表情から答えを読み取った寛弥は、ため息を吐くと立ち上がった。
「少し待ってて」
香に断ると部屋を後にする。程なく、寛弥は細長い箱を持ってきた。
「とりあえず、はいこれ。いってらっしゃい」
渡された箱を見て、香は固まる。
市販の妊娠検査薬だった。
「これがはっきりしないと、薬がだせないから」
寛弥の困った様子に、香はため息を吐くと立ち上がった。
暫くして、香はどんよりとした空気を纏って帰ってきた。
無言で検査薬を寛弥に渡すと、椅子に腰掛けて顔を覆う。
その様子から、答えはわかったようなものだ。
寛弥は検査薬を見た。
「どうしよう・・・」
泣きそうな声で、香が聞く。
「どうするも・・・とりあえず、正式な検査ね。明日、うちの大学へいらっしゃい」
「僚になんて言えば・・・」
憔悴しきった様子の香を慰めるかのように、寛弥は優しく肩を叩いた。
「とりあえず、明日何時でもいいから研究室の方へ訪ねて来て。冴羽さんにはあたしに呼ばれたとでも言えばいいわ。ね、検査結果がでてからでも遅くはないでしょ?冴羽さんに言うのは」
とにかく、はっきりさせない事にはどうしようもないのだ。
寛弥の優しい気遣いに、香は微笑むと頷いた。
「それが2週間前の話か・・・」
香の話を聞いて、僚が呟いた。
「結果が出た後、なんで直ぐに俺に言わなかった」
僚の言葉に、香は辛そうに眉を寄せるとギュッと布団を握り締めた。
「責めているわけじゃないから」
香を安心させるかのように、僚はベッド脇に腰掛けると香の手を優しく叩いた。
「僚は優しいから・・・最後はあたしの好きにさせてくれる・・・重荷にはなりたくなかったの。でも、あたしにはおなかの子を殺すことは出来ない。かといって、僚を一人にしてこの子をとることも出来なかった・・・」
香は泣きそうな表情を浮かべてそう言うと、腹部に手を当てた。
「だから、こんな手段をとったのか」
僚の言葉に、香は頷いた。
「賭けてみようと思ったの、この子のこれからとあたしの未来を・・・」
決してあたし達とは言わない香に、僚はやるせなさを感じた。
香はこんな時まで、自分ではなく僚を気遣うのだ。
自分の事ではなく・・・。
「もし、俺が記憶を戻さなかったらどうするつもりだった」
僚のその言葉に、香は目を伏せた。
「死ぬつもりだった」
香の言葉に、僚と教授は目を見開いた。
僚は何か言おうとして口を開きかけたが、何も言えずまた口を閉じた。
「和兄の手で記憶を消してもらう。僚が記憶を取り戻してくれるのならあたしの勝ち。でも、記憶が戻らなかったらあたしの負け。その時は、和兄自身の手で殺してくれるように・・・それが依頼内容」
冗談じゃない。
香の言葉を聞いた僚の正直な感想だった。
だから和斗は香の記憶を取り戻す方向へ僚を導いていたのだ。香を殺させるわけにはいかないから・・・
「・・・なんで和斗なんだ」
悔しい思いをしながら、僚が香に聞く。
香に頼られた和斗に嫉妬していた。
「別に和兄じゃなくてもよかったの。記憶を消してくれる人なら誰でも・・・。源さんに聞いたら和兄を教えてくれて・・・でも、こんな事いくらなんでも頼めなくて・・・兄貴の前でずっと悩んでた・・・その夜だったかな・・・和兄に会ったのは・・・兄貴が導いてくれたんだと思った。だから、和兄に依頼したの」
そこまで思いつめていた香の様子に、気付くことが出来なかった自分が腹ただしかった。
「しかし、よく引き受けたよな。和斗の奴。あの時はお前が妊娠してることも知らなかったはずだしな」
僚の言葉に、香は驚いて目を見開いた。
「へ!?確かに、あたしあの時理由は聞かないでくれって言ったけど・・・てっきり寛弥さんから話がいっていると思ってた・・・」
「いや。あいつ、ここに運ばれてからの検査でお前が妊娠してるって知って、素で驚いてたぞ」
「なんで寛弥さん言わなかったんだろう・・・?」
「案外、彼女の事だからな・・・お前が言ってると思ったんじゃないのか?」
「言えなかったんじゃよ」
それまで黙って話しを聞いていた教授が口を開いた。
「彼女もまた香君と一緒だったからの」
「え!?」
「ある日、突然ふらっとわしが一人の時に尋ねてきおってな。どうも妊娠しているみたいなので調べて欲しいと・・・。まぁ、結果は妊娠しとったんじゃが・・・和斗には暫く伏せておいて欲しいと頼まれてな。和斗にとって今が一番大事な時期で、そんな時に告げるのは、酷だと・・・それにぬか喜びはさせたくないから、安定期に入るまでは黙っておきたいと。じゃが、思いのほかつわりが酷くてな。和斗に隠し通すことは不可能じゃと判断して、仕方がないから話すと言っておった」
『仕方ないからって・・・』
二人同時の発言に、教授は苦笑する。
「その直ぐ後くらいじゃったな。泣きついてきおったわ」
「寛弥さんが?」
香の言葉に、教授は首を横に振った。
「いや、和斗が」
『はぁ!?』
これまた、二人仲良く言葉を発した。
無理もない。泣きつくという行為とは無縁の人物である。
「何でも一番疲れている時に告げられて、思考回路停止状態で“あ、そう”と返事したら話はそれだけですと言い、去ってこうとするのを見て、ようやく事の重大さに気付いて慌てて詳細を聞いたらしい。何で自分の周りにいる女性達は似たような性格ばかりなんだと嘆いとったんでな。あまりに鬱陶しいから、一服持ったわ」
『・・・』
あまりといえばあまりな扱いに、二人は心の底から和斗に同情したのだった。